【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年1月26日
                      
「闇が深淵の面に」

マタイによる福音書27章1-2,11-26節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「闇が深淵の面に」。これは創世記1:2からいただいてつけた主題です。神が天と地を創造される以前、世界は暗黒と深い淵の中にありました。しかし、神が一声、「光あれ」と呼びかけられたとき、全ては栄光に輝きました。そこから神の創造の御業が始められたのです。私はこれと同じ情景をマタイによる福音書27章に見ます。ここに見る人物は誰も彼も暗く深い罪の淵の中に閉じこめられています。私たちも今の今まで暗く深い罪の淵をさまよう一人でした。サンヒドリン議会のメンバーのように自分が正しくて主イエスが間違っているのではと思い上がることがありました。ポンテオ・ピラトのように主イエスの前にありながら、この世を天秤にかけて主を見失っていました。サンヒドリン議会のメンバーに翻弄される群衆のように、神よりもこの世の権威に服従する道を選ぶ者でした。バラバのようにどうしようもなく犯罪を繰り返すものでした。

 ポンテオ・ピラトは主イエスに向かって、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いかけられたとき、主は僅かに一言「それは、あなたが言っていることです。」とお答えになりました。「その通りです」と言う意味です。これがピラトの法廷に響く主イエスのみ言葉の全てです。しかしこのただ一言の中にこそ、深い闇の面にあって輝くキリストの栄光を見るのです。天地創造の出来事が十字架の出来事と重なってきます。マタイによる福音書はイエス・キリストを「ユダヤ人の王」と宣言して書き始め、十字架の上に「ユダヤ人の王」と掲げ、復活した後、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言うみ言葉をもって完結しています。

 この罪深い私たちの心、暗くて深い淵の面にあって、神は主イエス・キリストに呼びかけて下さいました、「光あれ」と。十字架こそ全ての闇を払拭する永遠の光です。主イエス・キリストが輝いて下さるとき、私たちの心は私たちの中にある罪の事実に目覚めて悔い改めに導かれるのです。十字架こそ罪の子であった私たちを新しく神の僕として造り変えて下さる道です。今、もしあなたが暗い罪の淵をさまよっているなら、主イエス・キリストの下に来て下さい。この方の光を受けることを拒まないで下さい。あなたの人生が光の道を歩むことができるために。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                          2003年1月26日

                      
「闇が深淵の面に」

マタイによる福音書27章1-2,11-26節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 ユダヤ教の指導者が構成するサンヒドリン議会のメンバーは主イエスを殺すことで意見の一致を見、ローマから派遣された総督ピラトの前に訴え出ました。総督は普段カイザリヤに駐在していますが、過越祭の間だけは治安を守るためにエルサレムに出向きます。サンヒドリン議会はどうして自分たちで処刑しないで、ローマ政府に訴え出るようなことをしたのでしょうか。他の福音書によると彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(ヨハネ18:31)と言っていますが、それは嘘です。ローマはユダヤ教の律法に違反した者をサンヒドリン議会の手で死刑にする権限を与えています。現に、ヨハネ8章では姦通罪の女性を石打の刑にしようとしました。使徒言行録7章では初代キリスト教会の執事であったステファノを律法に違反した廉で石打の刑にしていますが、ローマ当局はこれに干渉していません。サンヒドリン議会が敢えて主イエスを異邦人であるローマに訴え出たのは、律法に違反しただけではなく、主イエスがユダヤ人の王と自称してカイザルに背く政治犯だからと言うのがその理由です。つまり律法に照らして主イエスを処刑するだけでは、民衆の中に主イエスを殉教者と崇める者が出てくるかも知れません。しかし律法違反のみならず政治犯と言うことで公に処刑してしまえば、その心配はなくなります。その上過越祭を前にしたこの時期のエルサレムは世界中から一時帰国した人で溢れています。大勢のユダヤ人の目の前で主イエスを処刑することは効果満点です。

 しかし、マタイによる福音書はピラトの妻の言葉を紹介して、彼女の口から主イエスが政治犯どころか、倫理的にも「正しい人」であると認めていることを窺わせています。伝説によれば、彼女は「神を敬う女性」という意味のクラウディオ・プロクラと言う名で、ユダヤ教改宗者であったと言われています。もしそれが本当であれば、彼女の言う「正しい人」は聖書が言うところの「神と人の前に義とされた人」という意味になります。ピラトの妻は主イエスを裁判にかけてはならない方であることをピラトに知らせたかったのです。ピラトも乗り気でなかったことが、その後の裁判の進め方で分かります。ヨセフスの書いた「ユダヤ古代史」や「ユダヤ戦役」などによると、ピラトは残忍な政策を次から次へと実行した人ですが、時にユダヤ人の関心をひくために少しは福祉も行ったようです。その一つが過越祭に因んだ特赦令です。しかもどの死刑囚を釈放するかはユダヤ人自身に選ばせるという念の入れようです。ピラトはサンヒドリン議会が主イエスを訴え出たのは妬みのためであると見抜き、もはや彼らを相手にすることをやめて、民衆相手に直接取り引きすることにして、2人のイエスの内どちらを釈放して欲しいのかと尋ねました。マルコ15:7によると、「暴動のとき人殺しをした」ことで評判の囚人「バラバ・イエス」か、「メシア・イエス」かと。名前は似ていますが、誰が見ても釣り合わない2人です。民衆の答えは一つとピラトは確信したことでしょう。しかしサンヒドリンの方が一枚上手でした。彼らはすでに民衆を説得して、バラバ・イエスを釈放するように根回ししていたのです。ピラトの問いかけに民衆は直ちに「バラバを」と答えます。サンヒドリンの攻め方は執拗で実に巧みです。次第にピラトは追いつめられました。暴動が起こりそうになったためというのが直接の理由ですが、他の福音書によると「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19:12)とサンヒドリン議会は彼を脅しました。このまま暴動に発展したら、ピラト自身を皇帝反逆罪にしてしまうことになりかねません。そこで彼は主イエスに何の罪も見出せないことを知っていながら、自分の地位と命を繋ぐため、ついに主イエスにムチを加えたのち、十字架刑という判決を下しました。

 こうしてサンヒドリン議会は自分たちの思いを遂げ、積極的に主イエスを殺しました。こうすることが先祖伝来の神に忠実の証であると誤解していたとしてもこの罪は大きいです。

 総督ピラトの良心がほんの少し顔をのぞかせましたが、結局は自分の命と立場を守る為に主イエスを見捨てました。この罪も見逃してはなりません。

 キリスト・イエスとバラバ・イエスと言う2人のイエスについては比較することさえ愚かなことです。しかし民衆はサンヒドリン議会の説得を優先して聖なる方を十字架に追いやってしまいました。彼らはバラバと主イエスを比較したのではなく、主イエスよりもサンヒドリン議会を尊んだのです。愚かな罪を犯してしまいました。

バラバについては多くの言葉を必要としません。彼は主イエスの御前に立つ以前、確かに神と人の前に罪を犯していたのです。

「闇が深淵の面に」というのが本日の主題です。しかしこのような表現は今日の聖書箇所のどこにも見られません。これは創世記1:2からいただいてつけた主題です。神が天地を創造される以前、世界は暗黒と深い淵の中にありました。しかし、神が一声、「光あれ」と呼びかけられたとき、全ては栄光に輝きました。そこから神の創造の御業が始められたのです。私はこれと同じ情景をマタイによる福音書27章に見ます。ここに見る人物は誰も彼も暗く深い罪の淵の中に閉じこめられています。

1975年に出版された水野源三さんの詩集「わが恵み汝に足れり」の91頁に、「私がいる」という短い詩があります。

私がいる
ナザレのイエスを
十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる

 私たちも今の今まで暗く深い罪の淵をさまよう一人でした。サンヒドリン議会のメンバーのように自分が正しくて主イエスが間違っているのではと思い上がることがありました。ポンテオ・ピラトのように主イエスの前にありながら、この世を天秤にかけて主を見失っていました。サンヒドリン議会のメンバーに翻弄される群衆のように、神よりもこの世の権威に服従する道を選ぶものでした。バラバのようにどうしようもなく犯罪を繰り返すものでした。

 ポンテオ・ピラトは主イエスに向かって、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いかけられたとき、主は僅かに一言「それは、あなたが言っていることです。」とお答えになりました。「その通りです」と言われたと読みとって良いと思います。これがピラトの法廷に響く主イエスのみ言葉の全てです。しかしこのただ一言の中にこそ、深い闇の面にあって光り輝くキリストの栄光を見るのです。天地創造の出来事が十字架の出来事と重なってきます。マタイによる福音書はベツレヘムにおいてイエス・キリストのことを「ユダヤ人の王」と宣言して書き始められ、十字架の上に「ユダヤ人の王」と掲げられ、3日目に復活した後、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言うみ言葉をもって完結しています。

 この罪深い私たちの心、暗くて深い淵の面にあって、神は主イエス・キリストに呼びかけて下さいました、「光あれ」と。十字架こそ全ての闇を払拭する永遠の光です。主イエス・キリストがひとたび輝いて下さるとき、私たちの心は私たちの中にある罪の事実に目覚めました。そして悔い改めに導かれるのです。十字架こそ罪の子であった私たちを全く新しく神の僕として造り変えて下さる道です。今、もしあなたが今なお暗い罪の淵をさまよっているのなら、主イエス・キリストの下に立ち帰って下さい。この方の光を受けることを拒まないで下さい。そうすれば、あなたの人生は光の道を歩むことができるのです。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(コリント4:6)

 み言葉を感謝します。使徒信條の中に、「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白されていますが、私たちこそピラトのように罪の闇路をさまよって、日夜あなたの御心を苦しめ、悲しませて参りました。しかし、今朝、あなたは私たちに、この世でどんなに罪深い者であっても、心の闇路を彷徨う者であっても、あなたの御言葉の光は届いて下さること、十字架に輝いて下さる主イエス・キリストの光が私たちを訪ねてきて下さると知ることができました。感謝します。今、私たちは心の底から罪を悔い改めます。そして、あなたの僕として造り変えていただけることを信じます。今から後、この世のつとめを終えて御許に召されるときまで、あなたから離れることのないよう、私たちをお導き下さい。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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