【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年2月16日
                      
「本当に、この人は神の子であった」

マタイによる福音書27章45-56節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスが十字架につけられたのは朝の9時です(マルコ15:25)。昼の12時から3時まで全地は暗黒となりました。神の栄光を受けられなくなったとき、太陽はその光を失い、この世は暗黒に包まれるのです。この3時間に及ぶ暗黒こそ、もしこの世がキリストを捨てるなら、神もまたこの世を捨てて、永遠の暗黒に突き落とすという警告です。しかし、この時イエスはこの世の全ての者を代表して「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と執り成して下さいました。すると光が戻りました。神は御子をお見捨てになったのではありません。この世をお見捨てになったのでもありません。十字架にとぐろ巻く悪魔を断罪なさったのです。その証として神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。手で造られた神殿ではなく、イエスが上げられた十字架こそ全ての罪人を神に出会わせる場とするためです。実はこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びは詩編22:1に見られる言葉です。一見絶望的な響きのようですが、その結末は実に栄光の神を讃える喜びの歌で結ばれているのです。十字架の上で苦しみの絶頂にあってこの詩編讃美歌を全て歌いきることはとてもできなかったのです。

 しかし、ユダヤ人にとってこの詩編は余りにも有名な詩編です。主イエスがその冒頭を叫ぶことによって、十字架の下にいる人々、特に胸打ちながら主イエスを見上げている人々には大いなる慰めと希望を受ける詩編なのです。その後、主イエスが何かもう一度大声で叫んだ後、息を引き取られました。この「息を引き取る」という言葉は直訳すると、「霊を送り出した」と読むことができます。ルカによる福音書は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取られたと伝えています(23:46)。敗北の内に絶望的な死を遂げたのではなく、帰るべき所をしっかりと見定めて勝利の内に天の御国へと凱旋された瞬間です。その時、百人隊長は非常な畏れの内に、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。これこそ神への真実な信仰告白です。今この聖書を読んでいるあなたも「本当に、この人は神の子だった」と讃美する一人として選ばれているのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                      2003年2月16日

                      
「本当に、この人は神の子であった」

マタイによる福音書27章45-56節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスが十字架につけられたのは朝の9時です(マルコ15:25)。それから3時間を経過した昼の12時から3時まで全地は暗黒となりました。これにはどう言う意味があるのでしょうか。この3時間に及ぶ暗黒こそ、もしこの世が主イエス・キリストを捨てるなら、神もまたこの世を捨てて、永遠の暗黒に突き落とすという警告です。神の栄光を受けられなくなったとき、太陽はその光を失い、この世は暗黒に包まれるのです。神に背くこの世の人工的な光、小賢しい知恵や知識という文明の光ではどうしようもない深い闇に包まれるときが来ます。高慢な人間の罪のために神は御顔を背けてご自身の栄光を隠されたのです。しかし、この時主イエスはこの世の全ての者を代表して「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と執り成して下さいました。すると光が戻りました。神は御子をお見捨てになったのではありません。この世をお見捨てになったのでもありません。十字架にとぐろ巻く悪魔を断罪なさったのです。その証として神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。手で造られた神殿ではなく、イエスが上げられた十字架こそ全ての罪人を神に出会わせる場とするためです。

 この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びは詩編22:1に見られる言葉です。この詩編はその冒頭こそ一見絶望的な響きの言葉ですが、その結末は実に栄光の神を讃える喜びの歌で結ばれているのです。十字架の上で苦しみの絶頂にあってこの詩編讃美歌を全て歌いきることはとてもできなかったのです。しかし、ユダヤ人にとってこの詩編は余りにも有名な詩編です。主イエスがその冒頭を叫ぶことによって、十字架の下にいる人々、特に胸打ちながら主イエスを見上げている人々には大いなる慰めと希望を受ける詩編なのです。

 主イエスはその後、何かもう一度「大声で叫んだ後、息を引き取られた」と書き記しています。この「息を引き取る」という言葉に私たちは注意しましょう。これは直訳すると、「霊を送り出した」と読むことができます。ルカによる福音書の、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(23:46)と言って息を引き取られたのと相通じる言い回しです。このことにおいてもわたしたちの主イエスは孤独で絶望的な最期を遂げられたのではないことが分かります。

 

 最後に、十字架の主イエスを見張っていた百人隊長と、やはり十字架の主イエスを見守っていた女性の弟子たちのことを考えてみたいと思います。

@百人隊長

百人隊長は、最初責任上「注意深く」見張っていましたが、その目は次第に神への畏れに変わり、敬虔さを伴った目でイエスを「注意深く」見るようになって行きました。そして「本当に、この人は神の子だった」と感想を漏らしたと言うことです。ローマ帝国の時代、百人隊長というのは勿論戦時にあっては第一線で敵と戦う士官ですが、平時にあっては死刑執行官としての任務もありました。ですから、百人隊長はこれまで何人もの処刑に立ち会い、多くの人の死と向き合ってきました。その彼がイエスの死に立ち会ったとき、今までとは違う、聖なる畏れを感じたのです。神さまは主イエスを十字架にかけておきながら、我こそ神の選民であると自負する多くのユダヤ人ではなく、異邦人の百人隊長を選び、彼の口を通した神を讃美させたのです。

 

Aイエスを慕う人々

百人隊長に続いて、十字架上で息を引き取られた主イエスを見守っているもう一団があります。それはガリラヤから従ってきた女性たちです。彼らは遠くからこの出来事の全てを決して忘れまいとまぶたの裏にしっかりと焼き付けています。彼らはそう言う意味でイエス・キリストを「見守って」いました。神さまは使徒として選んだ11人の男の弟子ではなく、ガリラヤから従ってきた数人の女性たちを、主イエスの死と甦りの証人として選んでくださったのです。

 

今朝礼拝に来られた愛する兄弟姉妹、あなたがたも今日この福音書を読みました。そしてメッセ−ジを聴きました。あなたがたも主イエスが十字架に上げられた目撃者の一人となりました。あなたがたもこのことの証人として神さまに選ばれた一人となったのです。あなたがたも、「本当に、この人こそ神の子だった」と讃美する一人として選ばれているのです。   祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

ローマの総督ピラトは、主イエスを指さして、「この人を見よ」と言いました。マタイによる福音書もまた私たちに十字架の上の主イエスを注意深く見なさいと書いています。私たちは確かに主イエスが十字架に上げられたことを信じます。私たちも「本当に、この人こそ神の子だった」と告白せずにいられません。今こそ「神は、その独り子を賜ったほどにこの世を愛して下さった」というみ言葉が真実であったことを思い起こす者です。今、私たちはあなたをこの世で唯一人の救い主であることを信じます。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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