【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年2月23日
                      
「主を讃美するために」
「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。
『主を讃美するために民は創造された。』」
詩編102:19
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 詩編102編の詩人は言います。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を讃美するために民は創造された。』」と。彼は厳しい苦難の中で2つの教訓を得ました。1つは、人間は生きているのではなく、生かされているのだという事実です。聖書は繰り返しそのことを教えているのですが、私たちはしばしばこの大切な事実を忘れるのです。

 詩人が悟らされたもう1つのことは人生の目的です。死と隣り合わせの孤独と絶望は、やがて「しかし」と言う祈りに変えられて行きました。すると、不思議なことに筆を持つ力が与えられました。いわば辞世の句とでも言いましょうか。今はもう敵も味方もありません。全ての人を慈しむ心に導かれて、その人たちのためにぜひとも書き記しておかなければならないという思いを持つに至りました。何を書き記そうというのでしょうか? 人は何のために生きるべきかという処世訓です。詩人が書き遺した教えは、誰にでもできることです。全ての人に、人は何のために生かされているのかを自覚させる力があります。親はそれぞれ我が子が健康で立派な人間になって欲しいと期待します。しかしこの詩人は言います。たとい高い教養を身に着けようが、技術を身に着けようが、商才を身に着けようが、スポーツ選手として活躍しようが、反対に大して世の中の役に立つ人生を送れなかったと肩身の狭い思いをする人があっても、神の御前にそれらは何の自慢にもならないし、卑下する材料にもならないのです。要は、与えられた人生を神に頼り、神を讃美する者として過ごすことができたかということが問われるのです。神を畏れ、神を信じ、神を讃美することは誰にでもできるのです。楽器を使ってもできるし、楽器を使えなくてもできます。音符を読める人でも、読めない人でもできるのです。わたしは神によって造られた者。この神の憐れみの中で生かされている者。わたしは神に愛されているのだということを心の中で、言葉に出せる人は口で、楽器を奏でることの出来る人は楽器で讃美すればよいのです。繰り返します。人間にとって一番大切なことは創造主を讃美するために人は造られたのだということを忘れない一生を送ることです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                    2003年2月23日

                      
「主を讃美するために」
「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。
『主を讃美するために民は創造された。』」
詩編102:19
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 生きると言うことは苦しみを伴うものです。しかも、その苦しみは量においても質においても複雑に重なりながら覆い被さってくるものです。この詩人もまた現在非常な苦難の中に追い込まれ、絶望的な状況にあります。敵対する者はそれを見て嘲笑います。孤立無援の中で彼の命はまさに風前の灯火です。惨めです。こんな時、多くの人はわが身の不幸を嘆き、自暴自棄になり、世間を恨み、神を呪うのでしょうか。この詩人も確かにわが身の不幸を嘆いています。

 けれども13節を見てください。新共同訳聖書には省略されていますが、本当は「しかし」という接続詞から始まっているのです。「しかし」という接続詞がある限り、それまでの全てを否定する言葉が後に続いていると期待させてくれます。確かに詩人は最初、かわいそうな自分しか見えていませんでした。こうなったのは誰のせいだと恨みがましく世間を見ているばかりでした。一瞬ですが、因果応報かと諦めかけてもいます。けれどもそれは間違いでした。実は150編あるこの詩編には悔い改めの祈りが7つあり、これはその1つと言われています(外6、32、38、51、130、143編)。神を畏れる者は苦難の極みに追い込まれたとき、絶望かと思われる中で身の不幸に泣きながらも祈りを忘れません。しかも信仰者の祈りは自己憐憫に終始してはいません。「しかし」という祈りへと導かれるのです。

聖歌の中に、

「心にもだえあらば イェスに話せ 
イェスに話せ 哀しみ憂いあらば イェスに話せよ  
イェスに話せ 善き友なる イェスに話せよ 
思案せずに何事をも イェスに話せよ」

と言う歌詞があります。(聖歌 707番 第2節

 私たちの国には人生の深いところを見事に歌い上げる「演歌」というものがあります。けれども讃美歌とか聖歌は、それ以上に人生の深みを言い表し、しかも謎だらけの人生にきちんとした回答を与えてくれます。何故なら、讃美歌や聖歌には今も生きて働いて下さる救主である神、キリストに対する信仰と希望と祈りが込められているからです。詩編102編の詩人は、心にもだえがある今、哀しみ憂いに満たされてもなお、「しかし」という祈りの言葉が与えられました。悔い改めの祈りへと変えられて行きました。ここに言う悔い改めとは、永遠の神に目が開かれる祈りのことです。詩人にとって神は自分の人生の終りと共に消え果ててしまう方ではなく、ご自身の御国に引き寄せることがおできになるとこしえの王であることを悟ったのです。何と素晴らしい祈りではないでしょうか。それだけではありません。彼はもっと大いなる悔い改めに導かれました。それは何でしょうか。詩人は言います。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を讃美するために民は創造された。』」と。こんなに生き生きとした悔い改めの祈りがあるでしょうか。彼は厳しい苦難の中で2つの教訓を得ました。1つは、人間は生きているのではなく、生かされているのだという事実です。聖書は繰り返しそのことを教えているのですが、私たちはしばしばこの大切な事実を忘れるのです。

 私たちはTV、或いは新聞を通して悲しい出来事に触れるとき、それを世の人と同じように政治家の責任にしたり、社会の仕組みの勢にするだけでよいのでしょうか。今日(こんにち)、人の命が余りにも軽くあしらわれているのは社会が悪いのではなく、教会が、一人ひとりのキリスト者が置かれた生活の場で、このメッセ−ジをしっかりと語り伝えていないからではないでしょうか。本当は私たち教会こそが謙って悔い改めなければならないのではないでしょうか。

 詩人が悟らされたもう1つのことは人生の目的です。死と隣り合わせの孤独と絶望は、やがて「しかし」と言う祈りに変えられて行きました。すると、不思議なことに筆を持つ力が与えられました。いわば辞世の句とでも言いましょうか。今はもう敵も味方もありません。全ての人を慈しむ心に導かれて、その人たちのためにぜひとも書き記しておかなければならないという思いを持つに至りました。何を書き記そうというのでしょうか? 人は何のために生きるべきかという処世訓です。宮崎市に妻、斐子の叔父で黒水明夫さんの家には、江戸時代に主君であった秋月氏から賜ったという家訓なるものが掲げられています。それには上下の者に対する身の処し方、言葉遣い、お金の使い方など、生活の隅々に至るまで、実に長々と書き記されています。主君たる者、後の世代のために、このことは書き記されねばならないと思ったのでしょう。確かに今でも参考になるものがあります。しかし中にはわたしのような雑な性格の者にはとてもまねのできないことも書かれています。こんなことをあの時代の侍たちは本気で実行したのかしら、と思うようなものもあります。

 しかし、この102編の詩人が書き遺した教えは、誰にでもできることです。全ての人に、人は何のために生かされているのかを自覚させる力があります。親はそれぞれ我が子が健康で立派な人間になって欲しいと期待します。しかしこの詩人は言います。たとい高い教養を身に着けようが、技術を身に着けようが、商才を身に着けようが、スポーツ選手として活躍しようが、反対に大して世の中の役に立つ人生を送れなかったと肩身の狭い思いをする人があっても、神の御前にそれらは何の自慢にもならないし、卑下する材料にもならないのです。要は、与えられた人生を神に頼り、神を讃美する者として過ごすことができたかということが問われるのです。神を畏れ、神を信じ、神を讃美することは誰にでもできるのです。楽器を使ってもできるし、楽器を使えなくてもできます。音符を読める人でも、読めない人でもできるのです。わたしは神によって造られた者。この神の憐れみの中で生かされている者。わたしは神に愛されているのだということを心の中で、言葉に出せる人は口で、楽器を奏でることの出来る人は楽器で讃美すればよいのです。繰り返します。人間にとって一番大切なことは創造主を讃美するために人は造られたのだということを忘れない一生を送ることです。

 最後に一人の人を紹介したいと思います。この人は国際キリスト教大学の1期生として、その草分けの時期に級友達と情熱を分かち合った1人で、後に牧師夫人としてイエス・キリストと主の教会に一生を献げた原崎百子という女性です。彼女は1978年8月10日に肺ガンで召されました。病を知って約2年、入院して約5ヶ月、彼女は天の父の許に召されて行きました。その5ヶ月の間、実に多くの詩歌(しいか)を彼女は遺して行きました。と言っても、それがどこかの讃美歌集に採用されたわけではありません。しかしそれは誰よりも遺された夫である原崎清牧師とその子どもさん達にとって高価な相続財産になったことは確かです。その一、二編の詩をご紹介してメッセ−ジを閉じたいと思います。

 

《わが礼拝》

わがうめきよ  わが讃美の歌となれ

わが苦しい息よ  わが信仰の告白となれ

わが涙よ  わが歌となれ  主をほめまつるわが歌となれ

わが病(や)む肉体から発する  すべての吐息よ

呼吸困難よ  咳(せき)よ  主を讃美せよ

わが熱よ  汗よ  わが息よ  最後まで  主をほめたたえてあれ

 

《祈り》

主よ 私をつかんでいて下さい

もし私が主にすがるだけならば 

私の手の力の萎(な)える日に

私はどうしたらよいでしょうか

 

主よ 私を見守りつづけて下さい

もし私が主を仰ぐだけならば

私の気力の尽き果てる日に

私はどうしたらよいでしょうか

 

主よ この肉体からにじみ出る

私の祈りをお聞き下さい

もし私の口の言葉だけが祈りならば

やがて私の意識の混濁(うす)れる日に

私はどうしたらよいでしょうか

 

主よ 私のゆだねまつる私の一切(いっさい)を

み手にとって受け入れて下さい

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 この詩102編の詩人のように、あなたの御前に心挫けた人、貧しい人、病を負っている人がいます。この人達も、「しかし」という信仰に導かれて、あなたの御前に礼拝を献げています。あなたを深く愛するこの兄弟姉妹を特に御心に留めて祝福して上げて下さい。ここに来ることはできませんでしたが、病の床にあって、今この時、あなたに礼拝を献げている一人ひとりの祈りの中にもあなたは親しく御臨在下さっていることを信じて心から感謝します。どうか全ての人々の口に讃美を与えて下さい。私たちが造られたのは、あなたを讃美するためであったことを忘れさせないで下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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