【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年3月16日
                      
「わたしを守ってください」

詩140編1〜8節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 140編の詩人は敵の仕掛けた罠と言葉の暴力に泣いています。ここまで追いつめられると、人は大抵二つの方法のどちらかを選びます。一つは密かに復讐の爪を研いで刃傷沙汰を起こすか、二つ目に自殺するかです。しかしこの詩人はそのどちらをも選びません。信仰者には第三の方法があります。祈りです。祈りは問題からの逃避ではありません。全知全能の主なる神に自分と敵との関係を神の御心に添って清算してくださいと祈り求めることこそ緊要です。この祈りに対する神の応答がルカ11:14〜23です。さいなむ者や不法の者が滅びることは確かに一時的に溜飲を下げるかも知れません。しかし神の御心はそうではないのです。預言者エゼキエルは言います。「神は決して悪人の滅びることを望んではおられない。悪人がその罪を悔い改めて神に立ち帰ることを望んでおられるのだ」と(エゼキエル書18章)。

 主イエスはある人から口を利けなくする悪霊を追い出してあげました。この出来事を目撃した人々の多くは驚嘆し、神をほめ讃えました(マタイ12:23)が、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と揶揄する人もありました。ベルゼブルとはサタンの別名です。要するに彼らは主イエスをサタンと決めつけてしまったのです。彼らには神もサタンも区別がつかないのです。そこで主は、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と教えます。口が利けなくてもコミュニケーションの方法はあります。しかし言葉を発する可能性があるなら、何とかそれを実現して欲しいと願うのは当然です。主はその永年の祈りに答えて彼の口を閉ざしている悪霊を追い出されたのです。

 この出来事は人間に備えられた口は何のためにあるのかを教えています。神を讃美するために造られたのです。悪口を言ったり、神と人を呪うために造られたのではありません。この物語は主の大いなる御業を素直に喜べない人、讃美できない人こそ神の御前に本当は口の利けない人なのです。人をさいなみ、不法を働く悪しき人(詩140編)、素直に主を讃美できない人(ルカ11章)でも悔い改めに導き、救うために主イエス・キリストは十字架の道を歩んで下さいます。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                   2003年3月16日

                      
「わたしを守ってください」

詩140編1〜8節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 教会カレンダーによると、キリスト受難節 第2主日の今朝、礼拝では詩編140:1〜8を背景に、ルカ11:14〜23から、「悪と戦うキリスト」を学ぶようにと勧められています。私たちもそれにならってみ言葉に聴くことに致しましょう。

 

 詩140編はこの世の悪しき力の前に四面楚歌の状況に置かれている信仰者の祈りです。彼は、「さいなむ者や、不法の者からわたしを助け出し、救い出してください」と神に訴えています。「苛む」とは、「叱り責める、いじめる」。また「不法」とは、「法や道理に合わない」という意味ですが、こうした人々によって連日叱られ、責められ、虐められているのです。見知らぬ人から責められ、いじめられることは勿論あるでしょうが、身近な人から受けることも少なくありません。バイオレンス・ドメスティックという片仮名文字は比較的新しい言葉のようですが、家庭内暴力は今に始まったことではありません。私たちの国では妻の方から離縁することが許されていなかった江戸時代、夫の暴力に耐えきれなくなった妻のために、唯一の逃げ場として「駆け込み寺」が用意されていました。最近ではまれに妻の暴力に泣く夫が法律事務所に駆け込むケースがあるそうですが、皆さんのご家庭は大丈夫ですか。家庭内暴力は夫婦の間に限られていません。親の我が子に対する虐待事件も後を引きません。しかもその内の何%かは性的虐待だそうですから驚くばかりです。学校では生徒間のいじめの問題があります。「私たちの学校にはいじめの問題はありません」と断言する所こそ、要注意と思う方が良いでしょう。職場でもセクシャル・ハラスメントという片仮名文字が躍っています。抵抗できない立場にある人に対する性的虐待です。この祈りはそうした道理に合わないことで毎日のように虐められている人を代表したものと言えるのです。140編の詩人の苦しみはまさに見知らぬ人ではなく、ごく身近な人によるです。物理的な暴力も辛いですが、彼の敵は仕掛けた罠と言葉の暴力で生きる気力を萎えさせるのです。ここまで追いつめられると、人は大抵二つの方法のどちらかを選びます。一つは密かに復讐の爪を研いで刃傷沙汰を起こすか、二つ目に自殺するかです。しかしこの詩人はそのどちらをも選びません。信仰者には第三の方法があるのです。祈りです。祈りは問題からの逃避ではありません。全知全能の主なる神に自分と敵との関係を神の御心に添って清算してくださいと祈り求めることこそ勝利の秘訣であることを、詩人は彼自身の体験を通して私たちに教えます。そしてこの祈りに対する神の応答がルカ11:14〜23です。さいなむ者や不法の者が滅びることは確かに一時的に溜飲を下げるかも知れません。しかし、神の御心はそうではないのです。預言者エゼキエルは言います。「神は決して悪人であっても滅びることを望んではおられない。悪人がその罪を悔い改めて神に立ち帰ることを望んでおられるのだ」と(エゼキエル書18章)。

 主イエスは御自分を頼ってきた人から、口を利けなくする悪霊を追い出して再び言葉を発することができるようにしてあげました。この出来事を目撃した人々の多くは驚嘆し、神をほめ讃えました(マタイ12:23)。しかし、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と揶揄する人もありました。ベルゼブルとはサタンの別名です。要するに彼らは主イエス・キリストをサタンと決めつけてしまったのです。彼らには神もサタンも区別がつかないのです。主は物の言えない人を再び物が言えるようにして下さったのですから、その事実を素直に喜ぶべきでした。それなのに大いなる御業を示して下さった主を悪魔呼ばわりするとは何とも悲しいことです。そこで主はそのような誤った考えを抱く人々に向かって、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と教えます。口が利けなくてもコミュニケーションの方法はいくらでもあります。しかし、口の利けない人にとって、言葉を発せられる可能性があるなら、何とかそれを実現して欲しいと願うのは当然であります。主は今、その永年の祈りに答えて彼の口を閉ざしている悪霊を追い出されました。

 この出来事は人間に備えられた口は何のためにあるのかを教えています。神を讃美するために造られたのです。悪口を言ったり、神と人を呪うために造られたのではありません。この物語は主の大いなる御業を素直に喜べない人、讃美できない人こそ、神の御前にあって本当は口の利けないかわいそうな人なのです。詩140編の詩人の祈りに答えてくださる主は、人を呪うこと、神に言い逆らうことしかできない人であっても、神の御前には決してそのまま滅んでしまってはならないのです。悔い改める必要のある罪人の一人なのです。詩140編に見られるように、人をさいなみ、不法を働く悪しき人、ルカ11章に見られるように、素直に主を讃美できない人さえも悔い改めに導き、救うために主イエス・キリストは十字架の道を歩んで下さいます。

 

 あなたの回りにもあなたを苦しめる人が少なくないかも知れません。しかもあなたを苦しめる人の存在はあなたを永遠に苦しめ続けるかと思うほどに、執拗で陰湿なものかも知れません。しかし、あなたに申し上げたい。あなたは決して自分で復讐してはなりません。その苦しみから逃れるために自らの死をもって決着をつけてはなりません。それしか解決の道が残されていないと絶望しないでください。それこそ神が最も悲しまれることです。私たちには第三の道が残されているのです。そしてこの道こそ敵対する人との関係さえも和解に導いてくれる唯一の道なのです。それは祈りです。どうか祈ってください。祈り続けて下さい。このような約束の言葉があります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(气Rリント10:13)と。ここに言う逃れる道こそ祈りです。どうせ祈っても駄目だなどとあきらめてはなりません。試練のどん底に置かれていると思う今こそ、詩140編の詩人のように、「わたしを守ってください」と祈り続けて下さい。神は真実な方ですから、必ずあなたの祈りに答えて下さいます。あなたの口は祈るために造られたのです。神を呪い、人を呪うために造られてはいないのです。あなたの口は神を讃美するために造られたのです。讃美する為にあなたに口を授けた主が、あなたに神を讃美する機会を与えないで、あなたを見捨てることをなさるはずはないのです。

 

 今年頂いた年賀状の中に、「今年の春、長女が結婚します」という嬉しい便りがありました。私たちの永年の友人Aさんからのものです。彼女には3人の子どもがいますが、末の男の子は父親の顔を写真の上でしか知りません。Aさんは今から15年前の1988年7月に、香川県にある沙弥島の海岸でバプテスマを受けました。その時、彼女のお腹には新しい命が宿っていましたが、それがその男の子です。しかし神さまのなさることは私たちには計り知れないものがあります。それから2年後の1990年8月、Aさんの最愛の夫が肝臓疾患であっと言う間にこの世を去りました。彼女は夫の体の異変に気付かなかったそうです。彼はある建築業界大手ゼネコンの現場主任として年中外で働いていましたので、日焼けした顔をしていましたから、顔に肝臓疾患特有の黄疸症状が現れていても分かるはずがなかったのです。私たちも気が付きませんでした。何となく動作が緩慢になり、疲れやすくなったという言葉を漏らすようになったので、無理に人間ドック入りを勧め、検査を受けさせたところ、既に体中を病魔が襲っていました。そのことを知った彼女は牧師館を訪ねてきました。「先生、わたしには分かりません。わたしのような罪深い者がバプテスマを受けたことは間違いだったのでしょうか。これは神さまの罰ですか。それならどうして神さまはわたしの体に罰をあてて下さらないのでしょうか。どうか夫に代わってわたしに罰が下るように祈ってください。そしてわたしの罪が赦されるように祈ってください。」と。わたしと彼女は机を挟んで泣きました。そして、「神さま、あなたの御心を教えて下さい」と祈りました。暫くして彼女のお母さんが、愛媛県からやってこられました。一緒に礼拝を献げた後、Aさんと一緒に牧師館に来られました。そして開口一番、神さまはどうしてこんな酷いことをなさるのですか。どうしてわたしのような年寄りでなくて、あの真面目な働き者で子煩悩な婿さんが死ぬのですか。神さまは何をしているのですか。娘は幸せになるのでしょうか。」とわたしの膝を揺すりながら泣きじゃくるばかりでした。わたしは答える言葉を知らず、暫く沈黙するしかありませんでした。その時、わたしの脳裏にあるみ言葉が浮かびました。それが先程のこの气Rリントのみ言葉です。わたしは泣きじゃくるお母さんの手をとって、「神さまは必ずあなたの娘さんと子どもたちを幸せにしてくださいます。そればかりか、あなたがたご両親をも幸せにしてくださいます。神さまのなさることに間違いはないと信じてください。」と心の中でひたすら祈りながら答えました。確かに神さまは彼女の祈りに答えて下さいました。この試練を通して、神さまは彼女の子どもたちを、そして妹さんを、最近では彼女のご両親を教会に導き、イエスさまを信じる者としてくださいました。一粒の麦が地に落ちて死にましたが、神さまは彼女の家族、近親の内に豊かな霊の収穫を与えて下さったのです。主にある幸せな家族に造り変えて下さったのです。祈りは聞かれるのです。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝、私たちは私たちの思いを越えて人を持ち運んで下さるあなたの深い御心を学ぶことができました。詩140編の祈り、ルカ11章の主の御業は今も私たちに引き継がれるべきことを私たちに確信させてくださいました。どうか今あなたの御前に礼拝を捧げている愛する兄弟姉妹、そして苦難の中にあるこの方々を慰めてください。試練に耐える力を与えて上げて下さい。あなたがたが今も生きて働き、あなたを頼る者に必ず勝利の人生を約束して下さる方であることを確信させてください。私たちを救うために十字架への道を歩み続けて下さるイエス・キリストのこそ何よりの印であることを信じる者とさせて下さい。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。


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