【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年3月23日
                      
「み言葉はつながれない」

テモテへの手紙二 2章8〜13節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」とパウロは言います。彼の心にはいつもイエス・キリストがおられたのです。「思い起こす」とは、想像するという意味ではありません。憧れるという意味でもありません。また、イエス・キリストのあのこと、このことを断片的に思い出すという意味でもないのです。イエス・キリストの御生涯、特に十字架と復活の出来事を日々心の襞(ひだ)に織り込むことなのです。

 「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」とは、イエス・キリストは全き人としてお生まれになり、人として十字架の死をくぐりぬけた方でありながら、しかも彼のご本質が全き神であられる故に、死から復活されたと言うことを証した言葉です。これがパウロの福音であり、この福音を宣べ伝えることが彼にとって最高のライフ・ワークでありました。そして、この福音のために彼は今、この牢獄で犯罪人のように鎖につながれているのです。しかし、このことは彼にとって少しも恥ずかしいことではありませんでした。むしろ誇りなのです。彼は言います。「神の言葉はつながれていません」と。

 イエス・キリストは十字架の上で身動きできませんでした。しかし、彼が十字架の上で語られた言葉は十字架から全く自由に人々の耳に達し、その心を捕らえました。パウロは今この時、ローマ市内のどこか地下牢に閉じこめられ、鎖につながれていましたが、彼が書き遺したこの手紙は鎖につながれてはいませんでした。彼はその後間もなく殉教したことでしょうが、彼の手紙は今も自由を奪われてはいません。

 聖書は唯一人の方、イエス・キリストだけを指さして、「この人を見よ」と証しているのです。私たちが聖書を通読する意味はそこにあります。聖書を暗誦する意義もまたそこにあるのです。

 私たちの人生の節目節目を道徳的に正しく導いてくれるものとして聖書を読むことで満足してはなりません。十字架と復活の主イエス・キリストをいつも思い起こし、聖書を通して絶えずこの方と出会わせられる経験が何にもまして大切なのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年3月23日

                      
「み言葉はつながれない」

テモテへの手紙二 2章8〜13節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 使徒パウロは第三次伝道旅行を終えてエルサレムに帰ってきましたが、間もなく一寸した誤解でユダヤ教当局に逮捕されてしまいました。しかし神の御心とは不思議なもので、これを機会に念願のローマ行きが叶ったのです。もとよりローマ法に違反したわけではないので、間もなく釈放され、自由の身となりました。彼はその後もエネルギッシュに地中海世界を、伝説によればスペインに至るまで宣教活動を再開しました。しかし、その後ローマ皇帝のキリスト教会に対する政策が厳しいものとなり、帝国内で活躍する多くの指導者が逮捕、投獄されて行きました。使徒パウロ自身もこの頃にローマ当局の手で再び逮捕されました。この手紙はその頃に書かれたものと言われています。彼はトロアスで逮捕され(4:13)、ローマに移送されたことが分かります。季節は夏の終わり頃であったようです(4:21)。しかも状況は以前と比べものにならないくらい厳しいもので、彼自身、殉教を覚悟していることが窺えます(4:6)。実際その後の彼に関する伝記や、歴史書によると、この手紙が彼の絶筆になったと言うことです。

 私はこれまで多くのキリスト者の地上における最期を見届けてきましたが、殆どの人は永い短いを問わず、その人生を振り返るように語られたものです。パウロもまた、自分のこれまでの半生を振り返りますが(4:7以下)、彼には今何の不安も恐れもありません。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。」と、実に平安な心でその瞬間を待ち望んでいるのです。人が一番正直であり得るのは自分の死期を悟ったときだと言われています。パウロは自分の死の近いことを悟りながら、同時に少しの迷いもなく、天国への確信を語ることができるのです。

 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」とパウロは言います。彼の心にはいつもイエス・キリストがおられたのです。「思い起こす」とは、想像するという意味ではありません。憧れるという意味でもありません。また、イエス・キリストのあのこと、このことを断片的に思い出すという意味でもないのです。イエス・キリストの全生涯を日々心の襞(ひだ)に織り込むことなのです。

 「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」とは、イエス・キリストは全き人としてお生まれになり、人として十字架の死をくぐりぬけた方でありながら、しかも彼のご本質が全き神であられる故に、死から復活されたと言うことを証した言葉です。これがパウロの福音であり、この福音を宣べ伝えることが彼にとって最高のライフ・ワークであったのです。そして、この福音のために彼は今、この牢獄で犯罪人のように鎖につながれているのです。しかし、このことは彼にとって少しも恥ずかしいことではありませんでした。むしろ誇りなのです。彼は言います。「神の言葉はつながれていません」と。

 イエス・キリストは十字架の上で身動きできませんでした。しかし、彼が十字架の上で語られた言葉は十字架から全く自由に人々の耳に達し、その心を捕らえました。パウロは今この時、ローマ市内のどこか地下牢に閉じこめられ、鎖につながれていましたが、彼が書き遺したこの手紙は鎖につながれてはいませんでした。彼はその後間もなく殉教したことでしょうが、彼の手紙は今も自由を奪われてはいません。

 それにしても、パウロにとって神の言葉は聖書のどの箇所、どの部分を指すのでしょうか。モーセ五書の特定の言葉を指すのでしょうか。彼は元々律法学者ですから、彼の頭の中には聖書の文字は満載されていたことでしょう。或いはモーセ五書全書を暗誦することができるほどの人です。律法学者とはそう言う人なのです。裁判官、検事さん、弁護士さんは六法全書を自由に駆使することが出来る人ですから、聖書を語る者はそれくらい聖書を使いこなせなければならないのです。しかし、聖書の言葉をどれくらい覚えていても、それがそのまま天国と直結しているという保証にはならないのです。聖書が指し示す唯一人の方を、聖書を読む者もまたそこから見出せなかったら、百万べん聖書を通読し、すらすらと聖書のあちらこちらを自由に暗誦できるようにどれほど努めても、全く無意味な努力なのです。聖書は唯一人の方、イエス・キリストだけを指さして、「この人を見よ」と証しているのです。私たちが聖書を通読する意味はそこにあります。聖書を暗誦する意義もまたそこにあるのです。私たちの人生の節目節目を道徳的に正しく導いてくれるものとして聖書を読むことで満足してはなりません。十字架と復活の主イエス・キリストをいつも思い起こし、聖書を通して絶えずこの方と出会わせられる経験が何にもまして大切なのです。

 

 永年インドネシアの地で名も無く、力もなく、貧しい人々の中で黙々と仕え、共に過ごされた浅見祐三牧師と鈴子夫人を覚えておられるでしょうか。彼らは木村公一先生の前任者として日本バプテスト連盟から宣教師として派遣されたご夫妻です。毎日何十Hものでこぼこ道を古い車で往復しながら人々に福音を伝えて、教会を築き上げられました。もちろん教会というのは会堂建築を含むものですが、彼の残した教会は人々の心にイエス・キリストを思い起こすことを第一とするという意味でのイエス・キリストの足跡だったのです。その姿勢はあくまでも謙虚でしたから、宣教師の任を終えて年久しい今も土地の人々に慕われ、今年彼から頂いた年賀状によると、これから度々インドネシアに行き、彼らが福音から離れていない姿を目の当たりにしたいと書いて寄こして下さいました。私もいつの日か、彼らご夫妻と共に、その地を訪れてみたいと願い、祈っているところです。

 

 主にあって愛する兄弟姉妹、あなたの人生のどの部分にも神の言葉は生きて働きます。あなたがこの後どれほど不自由な環境に置かれても、神のみ言葉はつながれてはいません。もし、あなたがこの後も聖書を通して唯一人の方イエス・キリストを思い起こし、この方と出会うことを願うなら、神はあなたの人生を必ず祝福して下さいます。 祈ります。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を讃美します。

 今朝もまたあなたのみ言葉を感謝します。世界は今、イラク戦争という悲しい現実に直面しています。そうした中で、私たちは真の平和のために何を為すべきかを祈らずにいられません。教会を託された者は教会に於いて。然るべき所にいる人は、その遣わされたところであなたの導きを祈り求めております。戦争当事者の耳には最早どんな忠告も届かないのでしょうか。地球上で人間だけがどうしてこうも愚かなことを繰り返し、続けるのでしょうか。しかし、私たちにはこの世界を造り、今もその全てを支配しておられる全能の主イエス・キリストの父なる神がおられます。あなたのみ言葉はいかなる状況の中にあってもつながれることはありません。私たちはそれぞれに正しいと思うことをしておりますが、全てを益としてくださるのはあなたのみ言葉です。

 また今朝あなたの御前にあって礼拝を献げている一人ひとりの生活もまたもつれた糸のように、複雑に絡み合った環境の中で苦しみもがいています。この兄弟姉妹もあなたの救いを求めて祈り、待ち望んでおります。しかし、この兄弟姉妹の上にも全能の主なる神がおられます。あなたのみ言葉は決してつながれることはありません。

どうか、あなたの御前にあるこの人々を祝福して下さい。

救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン

 


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