【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年3月30日
                      
「イ エ ス の み」
 
詩90編3〜6節
ルカによる福音書9章28〜36節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 確かに私たちの肉体は罪を宿す器ですから、神の御怒りによって、この世から消え去らなければなりません。それではわたしたちの人生には一体どのような意味があるのでしょうか。詩人は言います。たとえ私たちがこの世にあって塵に帰るべき者、土に帰るべき者であり、確かに死は神の怒りの表れであっても、その神がわたしたちに言われるのです。「人の子よ、帰れ」と。わたしたちには帰るべき所があるのです。既にこの世を去った人を思い、その亡骸を前にして自分の牧会の至らなさを主の御前に詫びるしかないこのわたしのためにも、「人の子よ、帰れ」と天の故郷への道を開き示してくださっているのです。故人は既に神の主権の中にあります。私たちにはこれ以上どうして上げることもできません。唯この神の御前に謙り、この方を主と告白し、主のなさることに姉妹を委ねるしかないのです。「死人を葬ることは、死人に任せよ」(ルカ9:60)とはそう言う意味なのです。

 今一つわたしの心を慰め、支えて下さった主イエスのみ言葉はルカ9:28〜36です。主の弟子たちは山の上で光り輝く主イエスを真ん中に、モーセとエリヤが立ち、主の十字架について語り合っています。しかしその直後、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という天からの声を聴きましたが、その時は既にモーセとエリヤの姿はなく、そこにはイエスだけがおられたと言うことです。この出来事の意味は、旧約聖書全体(モーセの律法も、エリヤに代表される数々の預言)はイエス・キリストを証言するものです。「イエスのみ」、これが聖書全体なのです。

 例えあなたのこの地上における生涯を通して、地位も名誉も家も財産も、この世の財産の何も子どもたちや孫たちに遺してやれるようなものがなくても、そんなことは少しも恥ずかしいことではありません。しかし、「イエスのみ」と言える信仰の宝をこの世に遺せないとすれば、それは悲しいことです。「人の子よ、帰れ」というみ言葉を聴くことが出来ないまま終わる人生はこの世で最も悲劇です。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                       2003年3月30日

                      
「イ エ ス の み」
 
詩90編3〜6節
ルカによる福音書9章28〜36節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 キリスト受難節第4週に入りました。今朝は特に2月25日早朝に急逝された今野高子姉を記念して主イエス・キリストのみ言葉に聴いて参りたいと思います。

 今野高子姉は1918年(大正7年)12月25日、メリヤス問屋を営む近藤家7人兄弟の長女として、東京は神田に生を受けられました。23歳で刀匠と結婚しましたが、そのお連れ合いは30数歳の若さで病に倒れ、この世を去られました。幸せな結婚生活も僅か15年と言う短いものでした。その日からずっと一人暮らしを通してこられました。先達て弟さんの近藤靖さんからお聞きして初めて知ったことですが、結婚後間もなく身籠もったそうですが、何と子宮外妊娠で、胎児を産み出すには至らず、加えて二度と子どもを産むことができない体になったそうです。思えばそのようなことも再婚に踏み切らなかった理由の一つなのかも知れません。それからというもの、姉妹は和裁や洋裁の技術を身につけ、また茶道師範の免許を取り、晩年には三鷹市新川の公団に居を定め、お茶の教授を生業(なりわい)にしてこられました。4年前に仙波志げ子姉が配って下さった一枚の案内チラシを見て、教会を訪ねてこられました。わたしの日記によりますと1998年8月2日、折しもチョウウィンディン兄とミャヌエティン姉の結婚式の日でした。それから毎週礼拝に出席しておられましたが、11月に入って間もなく持病の心臓病で杏林大学付属病院に入院されました。早速妻と共にお訪ねし、手を按いてお祈りをささげたことでした。退院後、再び礼拝に来られるようになりましたが、お茶の先生をなさっていると聞き、弟子入り志願しました。「宜しう御座います」と二つ返事で入門を許されました。その内に、ポツリポツリと御自分のことを語って下さるようになり、「礼拝に行っても聖書のお話が良く分かりません。折角おいで下さるのですから、お時間の許す限り、聖書の手ほどきをお願いします」と、今度はあちらがイエスさまへの弟子入り志願を申し出られました。それからというもの、前半は今野高子姉がお茶の先生で、後半はわたしが聖書の先生と言うようなことを繰り返している内に御自分の方からイエスさまを信じる決心をされました。1999年12月19日、クリスマス礼拝の中で信仰告白をし、翌年4月23日、イースター礼拝の中でバプテスマをお受けになりました。教会の人たちとも親しみが深まり、これからと言うときに脳梗塞で倒れて「北多摩病院」に入院されました。退院後は老人保健施設「太郎」に入所することになりました。施設のケアマネージャさんと相談の上、親戚でもないのですが、わたしが牧師と言うことで信頼して下さり、月1回外出が許され、私たち夫婦が車で送迎して、教会で共に礼拝を献げることができるようになりました。所が突然消息を絶ち、行方を心配していましたが、昨年1月頃、姉妹からの便りで厚木市にある有料老人ホーム「みどりの丘」に入居なさっていることを知り、1月29日(火)にホームを探し当てて訪ねて行きました。改めて3月10日、礼拝後吉野夫妻と共に訪ねて行き、主の晩餐式に与り、讃美歌を歌っていましたら、1人また1人と交わりに入ってこられました。彼女たちもクリスチャンであることを知り、施設長の山埼さんと相談の上、4月から定期的に主の晩餐式とミニ礼拝を献げることができ、ようやく彼女にも平和で幸せな日々が訪れたと喜んでいた矢先、今年の2月25日早朝、天の父なる神の主権の下に置かれてしまいました。齢84年でした。今野姉の死を知らされたご兄弟も気持ちの整理のつかぬまま、弟の近藤さんが中心に葬儀を執り行い、遺骨は今野家ご長男が住む栃木県佐野市にある菩提寺に埋葬したそうです。そこには今野高子姉のお連れ合いが眠る墓があるからです。

 実は私自身、あの日の朝、「今野高子さんが今朝早く急逝されました。」という施設長さんからの電話を受けた時から数日の間、「何故?どうして?」と言う謎の森から抜け出せず、眠られぬ夜を過ごしました。吉野純子姉や妻と共に姉妹の遺体のそばにあって、「主よ、何故ですか」と御心を尋ね求めながら、姉妹の霊を主の御手に委ねますと祈るのがやっとでした。それは余りに突然のことだったからです。しかしそのわたしに、主への信頼を回復させて下さったのはやはり主ご自身でした。今日は一部だけ読みましたが、詩90編全体のみ言葉でした。

「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り

人生はため息のように消え失せます。

人生の年月は七十年ほどのものです。

健やかな人が八十年を数えても

得るところは労苦と災いにすぎません。

瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」

 

 確かに私たちの肉体は罪を宿す器ですから、神の御怒りによって、この世から消え去らなければなりません。それではわたしたちの人生には一体どのような意味があるのでしょうか。詩人は言います。たとえ私たちがこの世にあって塵に帰るべき者、土に帰るべき者であっても、確かに死は神の怒りの表れですが、その神がわたしたちに言われるのです。「人の子よ、帰れ」と。わたしたちには帰るべき所があるのです。既にこの世を去った人を思い、その亡骸を前にして自分の牧会の至らなさを主の御前に詫びるしかないこのわたしのためにも、「人の子よ、帰れ」と天の故郷への道を開き示してくださっているのです。故人は既に神の主権の中にあります。私たちにはこれ以上どうして上げることもできません。唯この神の御前に謙り、この方を主と告白し、主のなさることに姉妹を委ねるしかないのです。「死人を葬ることは、死人に任せよ」(ルカ9:60)とはそう言う意味なのです。

 今一つわたしの心を慰め、支えて下さった主イエスのみ言葉はルカ9:28〜36です。このみ言葉は既に1月に入ったばかりの頃、受難節第4週を迎える今日の礼拝のために与えられていたものですが、今野高子姉を記念する礼拝を献げることになった今、私たちの心の内に平安を回復させて下さいました。このみ言葉について詳しくお話ししている時間がなくなってきましたが、主の弟子たちは山の上で聖なる瞬間を目撃しました。光り輝く衣を身にまとった主イエス・キリストを真ん中に、モーセとエリヤが立ち、主が間もなく付けられる十字架について語り合っています。しかし、次の瞬間弟子たちは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という天からの声を聴きましたが、その時は既にモーセとエリヤの姿はなく、そこにはイエスだけがおられたと言うことです。これは何を意味するのかというと、モーセの律法も、エリヤに代表される数々の預言、即ち旧約聖書全体はイエス・キリストを証言するものです。更に大事なことがここには隠されています。モーセも、エリヤも旧約聖書を代表する偉大な神の人です。この出来事の目撃者である主イエスの弟子たちも新約聖書を代表する偉大な人々です。しかし、この世でどんなに偉大な人物も主イエス・キリストの御前にはその光を失います。「イエスのみ」が最も尊いお方なのです。何故なら神の人も使徒たちもみな主イエス・キリストの証言者として選ばれた人々ですが、イエス・キリストだけは全世界の罪の贖い代となって下さった主なる神なのですから。イエス・キリストの十字架によってこそ永遠の生命の道が開かれるということです。「イエスのみ」、これが聖書全体なのです。人は誰でもいずれは死にます。しかし、その死を無駄にしない道が開かれていることを教えているのがこのみ言葉です。

 あなたがこの世で何を持っていなくても、地位も名誉も家も財産も何も子どもや孫に遺してやれるようなものを持っていなくても、そんなことは少しも恥ずかしいことではありません。しかし、「イエスのみ」と言える信仰の宝をこの世に遺せないとすれば、それは悲しいことです。「人の子よ、帰れ」というみ言葉をあなた自身に語られたみ言葉として聴くことが出来ないまま終わる人生はこの世で最も悲劇です。あなたのために十字架への道を歩んで下さったイエス・キリストによって、あなたの罪は既に清められているのです。あなたがその罪を悔い改めさえすれば、あなたは救われるのです。この世に生を与えられている今と言う時に、イエス・キリストをあなたの個人的な救主と信じ、告白して下さい。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を讃美します。

 今私たちは、もはや還らぬ人となった愛する今野高子姉妹の在りし日を忍び、記念する礼拝を献げています。しかし、私たちは今私たちの心に希望を与えて下さいました。全ての命はあなたから出てあなたに帰るのだということを知ったからです。この世にあってどんなに大きな試練が襲ってきても、わたしの心を支え、その試練を耐え忍ぶ力を与えて下さるのは、「イエス・キリスト」このお方だけであることを知りました。何故なら、イエス・キリストこそ最も大きな試練、あの恐ろしい十字架の苦しみを通って下さいました。その死によって私たちの罪は救われ、この世に生かされているときは勿論、死んだ後も天の父なる神との交わりが許され、永遠の生命の御国に至る道が開かれていることを確信することができます。どうか私たちの心に愛する姉妹をあなたの主権のみ手に委ねる心を与えて下さい。寂しさと言い知れぬ悲しみの中にある近親の方々全ての心を慰めて下さい。

私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。

アーメン


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