【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年4月13日
                      
茨の冠
 
マタイによる福音書27章27〜31節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 きらびやかな王冠と王衣をまとい、人々を威圧するこの世の支配者は永遠ではありません。ひととき栄えた彼らは、やがて歴史の彼方に消えてしまっています。しかしあの時兵士の手で赤いマントと茨の冠をきせられ、無抵抗に十字架にかけられた主イエスは死んで葬られましたが、間もなく墓から甦り、この世の悪しき力の前に虐げられる者の保護者、また罪人の救い主、信じる者を永遠の御国に、信じない者を滅びの国へと振り分ける真の王、キリストとして今も生きて働いておられるのです。

 昔、この場面を映画で見たことがあります。ローマ兵が皮のむちを主イエスの背中に何度も打ち、ついに背中は破れて血が吹き出ています。別の兵士が茨の冠を編んで主イエスの頭にかぶせます。額に食い込んだ茨のために主の御顔からいくすじもの血が流れ落ちてきます。また別の兵士が自分のまとっている赤いマントを主イエスに着せ、葦の棒を持たせておいて、おどけて敬礼してみせます。また下士官のような兵士がその棒を取り上げて頭をしたたか打ちました。顔に唾を吐きかける者もあります。その映画で俳優が演じるイエスは自分を嘲っている兵士一人ひとりの表情を見つめていた場面がとても印象的でした。しかもその眼差しは怒りや憎しみを感じさせるものではなく、実に赦しと慈愛のこもった眼差しです。もしかしてあの時主イエスもそうされたのではないかと思ったほどです。あの時以来わたしの聖書を読み方が変わりました。それまでは主イエスが兵士たちのあざけりを受ける箇所を読む度に、わたしのためにこうまで苦しんで下さった主にただただ申し訳ないという気持ちで一杯でした。それも間違ってはいなかったと思います。しかしそれはわたしの側から主イエスを見ているだけの聖書の読み方だったのです。本当は違っていました。主イエスは、無知の故に神の子をいたぶる兵士たち一人ひとりを赦しと慈愛のこもった眼差しで見つめておられたのです。主イエスは彼らのためにも十字架上で「彼らをお赦し下さい」と祈って下さったのです。

 主イエスは今、同じように無知故に主イエスを蔑(さげす)み、拒むわたしたちをも慈愛と赦しの眼差しで見つめていて下さっているのです。

 

 
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【主日礼拝・メッセージ】                   2003年4月13日

                      
茨の冠
 
マタイによる福音書27章27〜31節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 この箇所にはローマ兵の侮辱を黙って受けておられる主イエスのお姿が描かれています。それがいつの時点なのかは福音書によって若干の齟齬(そご;くいちがい)が見られます。例えばマタイによる福音書とマルコによる福音書ではローマから派遣された総督ピラトの判決が下ってからのことですが、ヨハネによる福音書ではまだ裁判の過程で、むしろピラトが何とかして主イエスの無実・無罪を−屈強なローマ兵の前に為す術(すべ)もなく嘲笑の対象になり果てている無力なイエスの姿を公衆の前に曝(さら)すことによって−証明しようとする努力の一貫として記されています(ヨハネ19:1〜8)。しかし今となってはその違いに余り意味を感じることができません。結局ピラトは主イエスを十字架に処する判決を下してしまったからです。

 あの時主イエスの身柄を任されたローマの兵士たちは、皇帝こそ全能の神であることを確信したかも知れません。皇帝は今や地中海世界を支配しています。それと引き比べて、今彼らが目にするイエスという男はユダヤ人の王とか、来るべきメシヤではないかといわれていたのに、惨めにも後ろ手に縛られ、茨の冠をかぶせられながら、何一つ反抗らしいこともできないでただ沈黙するだけです。兵士だけではありません。今日多くの人も地上の支配者の前に無力に見えるイエス・キリストに失望し、つまずき、信仰を捨てています。

 しかし、きらびやかな王冠と王位をまとい、人々を威圧するこの世の支配者は永遠ではありません。彼らは皆歴史の彼方に消えてしまっています。一方あの時兵士の手で赤いマントと茨の冠をおしきせられた主イエス、無抵抗に十字架にかけられた主イエスは確かに死んで葬られましたが、彼は墓から甦り、今も真の王、この世で虐げられた者の保護者、また罪人のための救い主、信じる者を永遠の御国に、信じない者を滅びの国へと振り分けるキリストとして今も生きて働いておられるのです。

 

 イエス・キリストの御生涯を題材にした音楽や映画の作品がこれまで数多く世に出ています。その一つにいつ頃の映画であったか忘れましたが、ローマ兵が石や貝殻のようなものを埋め込んだ皮のむちを主イエスの背中に何度も打っている場面を見ました。背中は破れて血が吹き出ています。その間に別の兵士数人が茨の冠を編んで主イエスの頭にかぶせます。何度やっても頭からずり落ちるので、一人の兵士が剣の束をハンマー代わりに茨を打ち込みました。額に食い込んだ茨のために主の御顔から いくすじもの血が流れ落ちてきました。また別の兵士が自分のまとっている赤いマントを主イエスに着せ、葦の棒を持たせておいて、主の御前におどけて敬礼してみせます。周りの兵士たちはそれを見てどっと笑います。最後に下士官のような兵士がその棒を取り上げて頭をしたたか打ちました。主の御顔に唾を吐きかける者もありました。それはわたしの心に強烈なパンチを食らわせるものでした。

 特にこの場面でわたしが忘れられなかったのは、主イエスを取り囲む兵士たちの嘲りもさることながら、黙ってその仕打ちを受けておられる主イエスの役を演じている俳優の目の動きです。もしかしたら、あの時主イエスもそうされたのではなかったかと思ったほどですが、その俳優が演じる主イエスは御自分を嘲りの対象にして楽しんでいる兵士一人ひとりの表情を見つめていた場面がとても印象的でした。しかも主イエスのその眼差しは怒りや憎しみを感じさせるものではなく、実に赦しと慈愛のこもった眼差しであったのです。「ああ 主のひとみ、まなざしよ」の讃美歌を思い出させる場面でした。

 あの時以来わたしの聖書の読み方が変わりました。わたしはあの映画を見るまで、主イエスが兵士たちのあざけりを受ける箇所を読む度に、わたしのためにこうまで苦しんで下さった主にただただ申し訳ないという気持ちで一杯でした。それも間違ってはいなかったと思います。しかしそれは同時に、わたしはわたしの側から主イエスを見ているだけの読み方でした。本当は違っていました。主イエスは兵士のなぶり者にされていたあの時でさえ、無知の故に神の子をいたぶる兵士たち一人ひとりを赦しと慈愛のこもった眼差しで、見つめておられたのです。主イエスはこの兵士たちのためにも十字架上で「彼らをお赦し下さい」と祈って下さったのです。ここが地上の王と真の王なるキリストとの違いなのです。

 

 英国のジョン・バンヤンという人は「天路歴程」という本の中で、主人公に見立てて自分の半生を物語風に書いています。

 主人公はある日、聖書に出会います。すると今まで感じなかった罪の重荷を背中に感じました。急に神の怒りと裁きが怖くなりました。どうしたらこの重荷から解放してもらえるだろうかと途方に暮れていますと、伝道者と言う名の男が彼の前に現れて、主イエス・キリストの十字架を指し示します。主イエス・キリストのもとに行けば、その重荷を取り去ってくれるから、彼のもとに行きなさい、と助言してくれました。彼は途中失敗を重ねながらも何とか命に至る門であるキリストの十字架のもとに行き、罪の重荷を取り去ってもらえました。そこから厳しい信仰の戦いを始めて行くという物語です。

 私たちは聖書を読むとき、私たちの方から一方的に主イエスを見ようと探し求めている間は、本当は主イエス・キリストのこと、神さまのことが少しも分かっていないのです。私たちの方から主イエスを捜し求めているだけの読み方をしている間は、主イエス・キリストを訴えて十字架に死なせたユダヤ人や弱さのために死刑の判決を下したローマの総督ピラト、そして主をなぶり者にするローマの兵士たちに義憤してただ裁くだけの一人で終わってしまいます。そして「わたしはこんな連中とは違う」と自己弁護をしている自分をそこに発見するでしょう。そうではなく、私たちが聖書を読むときに気を付けたいことは、主イエスのお姿を追い求めている内に、実は主ご自身の方から私たちの一挙手一投足を見つめておられることを感じとらなければなりません。主なる神を見ているつもりの私たちが、実は反対に見つめられていたことに気が付くとき、私たちは自分が恥ずかしくなります。思い返せば私たちは何という厚顔無恥な者であったことでしょうか。私たちはこれまで無意識に何度主イエスをむち打つような生活、茨の冠を押し被(かぶ)せるような傲慢で罪深い生活をしてきたことでしょうか。しかし、主イエスがそのような私たちを静かに見つめながら、「わたしはお前のその罪のために十字架に死んだ者だよ」と語りかけて下さっている声が聞こえてきます。その時、私たちは罪深い自分を認めて悔い改めないではいられなくなるのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 わたしたちの主イエス・キリストは茨の冠をかぶせられ、額に血を流しながら、それでも無知の故に罪を重ねる者を前にして、その全ての者のために十字架の道を踏みしめてくださいました。きっとあの時、主イエスはその一人ひとりに対して赦しと慈愛のこもった瞳で見つめておられたことでしょう。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈ってくださった祈りは、彼らのための祈りでもあったことでしょう。わたしたちの王は煌びやかな王位をまとって、暴力と恐怖で支配するこの世の王のようにではなく、黙々と茨の冠を被って十字架への道を歩み続けながら、私たち全ての罪を執り成すことによって、わたしたちの心を捕らえて神さまとの和解を成し遂げてくださる真の支配者であります。私たちは今あなたこそ真の王、救い主と信じます。どうかわたしたちの心を造り変えて、あなたの僕としてください。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。


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