【礼拝メッセ−ジ要約】―父母の日―                        2003年5月11日

心に納(おさ)める

カによる福音書2章41〜52

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 マリヤとヨセフは礼拝を終えて家路につきましたが、道連れにいるはずのイエスの姿がありません。両親はイエスをさがしながら尋ね歩く内にとうとうエルサレムの宮に辿り着き、そこで見つけました。驚いたことにイエスは学者たちの間に入って議論の真っ最中です。慌てたマリヤは母親らしくイエスを叱りますが、イエスは意外にも「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と答えます。両親はイエスの言葉の意味が分かりませんでした。しかし、マリヤは分からないのに親の権威を振り回して叱り続ける愚かな人ではありませんでした。彼女はこのイエスの言葉を全て心に納めておくことにしたのです。心に納めるというのは「まあ、いいか」と自分を押さえて、我慢することではありません。「今は分からない、けれどもいつか分かるときがくるまで心のポケットに忘れずにしまっておきましょう」という意味です。

 今朝、わたしたちも主イエスのみ言葉とマリヤの従順にならってわたしたちの心に納めるべきことがあります。わたしたちは毎週この教会で礼拝を献げています。しかし、わたしたちは礼拝が終り、家路についたその瞬間からみ言葉を忘れてしまうのです。にもかかわらず主イエスがわたしたちの人生の旅路、日常生活の道連れの中にいると思い込んで、実際には天の父の家から、そして主イエスから独立した生活を送ってしまっていることがあります。順調なときはそのままどんどん先へ進みます。しかし人生の歯車が狂い始めると、自分のことを棚に上げて「イエスさま、あなたはどうしてわたしから離れておしまいになったのですか」とつぶやくのです。さながら人生の放蕩息子です。聖書の中の放蕩息子は愛に満ちた父のもとから離れてついに行き詰まり、惨めな状況に追い込まれたとき、彼は本心に立ち帰ってその罪を深く悔い、「父のもとに帰ろう」と腰を上げました(ルカ15:11〜32)。わたしたちも主イエス・キリストのおられる天の父の家に帰りましょう。わたしたちの天の父はわたしたちが日々犯す罪を見て悲しんでおられます。しかし、どんなに大きな罪を重ねた者であっても、その罪を悔い改めるなら、喜び迎え入れてくださいます。

 

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【礼拝メッセ−ジ】  ―父母の日―                        2003年5月11日

心に納(おさ)める

カによる福音書2章41〜52

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 わたしたちの教会のカレンダーによると、今日は父母の日です。日頃子育てで苦労しておられる親御さんにとって、今日という日は子どもたちの成長を確かめる一つの節目になることでしょう。同時に幼かったあの日、あの頃のことが走馬燈のように甦ってくる日であるかも知れません。この節目に、子どもたちとの関わりのために必要なメッセ−ジが与えられています。同時にこれは親子の関係に止まらず、一つの所で共に過ごす時間の長い隣人との人間関係のために必要なメッセ−ジでもあります。特に印象的なのは、「心に納める」という51節の言葉です。皆さんもご自分の愛する子どもさんたちや隣人との関わりの中で、あれこれ心のポケットに忍ばせては時折思い出すと言うことはないでしょうか。

 母マリヤにとってイエスを見失った出来事は忘れられないことのひとつでした。当時のユダヤ人は日頃それぞれの町にある会堂で毎週の安息日に礼拝を守っていましたが、年に3度はエルサレムに上って特別の礼拝を献げることになっていました。春の過越祭、初夏の五旬節の祭り、晩秋の仮庵の祭りがそれです。この祭りには世界中に散らされたユダヤ人がそれぞれの国や地域から巡礼してきます。その年の過越祭もマリアとヨセフは子どもたちを伴ってエルサレムに上ってきました。この夫婦の間には少年イエスさまを長男として4人の息子と数人の娘がいました(マタイ13:55、マルコ6:3、ルカ8:19)。決して裕福ではなかった上に、沢山の子どもたちを連れて上京するのですから、経済的な負担は相当なものであったと思われます。生活を切りつめ、一年がかりで少しづつ旅費を貯えておいたのでしょう。子育ての経験のある人には小さい子どもを2人、3人と連れて外出するにはかなりの勇気と覚悟が必要であったことは容易に想像がつくと思います。そんなことを考えると、マリヤとヨセフの神への愛と信仰は並大抵のものではありません。ところが祭りを終えて郷里に帰ろうとした日に思わぬハプニングに見舞われました。礼拝を終えて帰りの集団の中に、こともあろうに日頃から頼りにしていた長男イエスの姿が見当たりません。どうしてこんなことになったのでしょう。しかも丸一日歩いてから気が付きました。実は当時の巡礼旅行には一つのルールがありました。どんなルールかと言いますと、昔からユダヤ人はお互いに一つの家族という思いにありましたから、こうした旅の時には集団の前の方には子どもたちの群れ、その後ろには母親や女性の群れが、そして最後尾の集団は男性が控えていました。ですから通常は迷い子事件が起こることなどあり得ないのです。しかし、そのあり得ないことが起こりました。道連れにいるはずのイエスの姿がありません。両親は真っ青になってイエスをさがしながら元来た道を引き返しました。尋ね歩く内にとうとうエルサレムの宮に辿り着き、そこでイエスを見つけました。驚いたことにイエスは学者たちの間に入って議論の真っ最中です。慌てたマリヤは母親らしくイエスを叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と。マリヤは「ご免なさい」という言葉を期待していたことでしょうが、イエスから意外な言葉を聴きました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と。マリヤもヨセフもこのイエスの言葉の意味が分かりませんでした。しかし、マリヤは分からないのに親の権威を振り回して叱り続けるという愚かな人ではありませんでした。母マリアはこのイエスの言葉を全て心に納めておくことにしたのです。心に納めるというのは「まあ、いいか」と、我慢することではありません。「今は分からない、けれどもきっとこれには深いわけがあるのだろうから、いつか分かるときがくるまで心のポケットに忘れずにしまっておきましょう」という意味です。主イエスが弟子の足を洗おうとしたとき、その弟子に、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)と言われたみ言葉が思い出されます。

 母マリヤの「なぜ」は人間の親として当然の問いかけです。しかしイエスの「どうして」という問いかけにはもっと深い意味があります。母マリヤはイエスを迷い子と見なしていますが、イエスはマリヤとヨセフに対して「あなたたちこそが迷い子です」と指摘なさったのです。彼らは確かに敬虔な礼拝者ではありますが、一番大切な方を置き忘れて家路につきました。49節の、「自分の父の家にいる」を、ある聖書は「わたしがわたしの父の務めに専念している」と訳しています。と言うのも元々原文に「家」という言葉はないのです。これはマリヤが、「あなたのお父さま」と言ったことに対して、「わたしの天の父」と呼ばれたことを意識しての意訳と言うことができます。イエスは地上の家族、ヨセフの子どもであることを決して否定なさってはいません。現に51節を見ると、日常のイエスは両親に仕えてお暮らしになっています。そのイエスがここで「天の父」を強調なさったのは、わたしたちの生活の中に占める礼拝の位置が如何にあるべきかを教える為なのです。私たちもまた礼拝を終えて家路につきます。その時、わたしたちの心はたちまち日常の事柄に立ち戻ってしまい、一番大切な主と主のみ言葉を主の宮に置き忘れてしまうことはないでしょうか。天の父なる神を礼拝すべき主の宮に主イエス・キリストを置き去りにしてしまうならば、わたしたちの人生はたちまち道に迷ってしまいます。その時わたしたちは主イエスに呟くのです。「主イエスよ、あなたはどうしてわたしから離れてしまったのですか」と。しかし、主イエスは言われます。「どうしてわたしを置き去りにして、わたしから離れてしまったのか」と。

 

 今朝、わたしたちは主イエスのみ言葉とマリヤの従順にならってわたしたちの心に納めるべきことがあります。わたしたちはわたしたちの人生の旅路にあって主イエスが日常生活の道連れの中にいると思い込んで、実際には天の父の家から、そして主イエスから独立した生活を送ってしまっていることがあるかも知れません。聖書の中の放蕩息子が愛に満ちた父のもとから離れてついに行き詰まり、惨めな状況に追い込まれたとき、本心に立ち帰ってその罪を深く悔い、「父のもとに帰ろう」と腰を上げたように(ルカ15:11〜32)、わたしたちも主イエス・キリストのおられる天の父の家に帰りましょう。わたしたちの天の父はわたしたちが日々犯す罪を見て悲しんでおられます。しかし、どんなに大きな罪を重ねた者であっても、その罪を悔い改めて父なる神に立ち返るなら、喜び迎え入れてくださいます。

 御子イエスが天の父から独立しておられなかったように、わたしたちも天の父から離れることなく、主イエス・キリストを忘れることのない人生を送ることをいつも心に留めながら日々生活してゆきましょう。

祈りましょう。

 

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

今朝、わたしたちはヨセフとマリヤのような敬虔な信仰の人であっても、主の宮に主イエス・キリストを置き去りにして自分の生活に帰って行きつつあったことを聖書から学びました。しかし、あの2人は主イエスからそれを指摘されたとき、謙ってそのみ言葉を心に納めました。

わたしたちもまた形ばかりの礼拝で満足してはしばしばあなたを置き去りにして自分の生活に帰り、み言葉を忘れ、あなたの御心を深く傷つけてしまっています。しかし、今朝、わたしたちは今一度主の御前に立ち帰ります。悔い改めます。主よ、わたしたちをいつもあなたの御許に立ち戻る者とさせて下さい。あなたのみ言葉をいつも心の内に留めておくことのできる者として下さい。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってお願い致します。

アーメン。


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