【主日礼拝・メッセージ要約】                      2003年5月18日                      
「福音の初め」

マルコによる福音書1章1〜8節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先ずバプテスマのヨハネという人物から書き始められています。彼は神から選ばれ、イエス・キリストの露払い(つゆはらい)のように登場します。著者はヨハネこそ旧約聖書に預言されていた人であったと言います。ヨハネに対するわたしたちのイメージは酒も飲まないし、肉も食べない、人を寄せ付けない孤高の人、何の面白味もない真面目人間です。それはわたしたちの誤解です。彼は、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(イザヤ40:1)と言われて登場した人です。人を寄せ付けない孤高の人ではなく、人々の心に神の慰めを与えるメッセ−ジをもたらしたのです。彼は人々に呼びかけて言います。「悔い改めよ、あなたたちの心に神の子イエス・キリストを迎える道備えをしなさい」と。

 ヨハネの時代にはさまざまな宗教家たちがバプテスマを施し、禁欲的な集団を組織しては隠遁生活をしていました。しかし、ヨハネのそれは違っています。彼自身いかにも禁欲的で、質素倹約の生活でしたが、だからといって、人々にそれを強要する教祖的な人ではありません。そうではなく、この荒野で、荒野のように飢え渇いている魂の人々に、真の泉であるイエス・キリストに出会う備えをなさしめたのです。聖書の言う「悔い改め」とは倫理的な悟りの世界ではなく、真の神に180度心の向きを変えて、真の神に立ち帰るという意味です。

 皆さんは今朝この教会に来て礼拝を献げておられます。それは正しいことです。ある意味で荒野のように、見るところ何もないキリストの教会ですが、ここでこそ真の神に出会えます。真の神と対話が許されるのです。今日の牧師はヨハネのような生活では必ずしもありませんが、しかし語る内容は同じです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言うメッセ−ジを取り次ぐことでは同じなのです。しかし、皆さんが教会で受けるバプテスマはヨハネ以上のものであることを忘れないで下さい。それは罪の赦しを期待して悔い改めるバプテスマではありません。あなたは父と子と聖霊の御名においてバプテスマを受けました。或いは受けるのです。これによって十字架の主と共に、罪に死んで葬られ、復活のイエス・キリストと共に甦る新生のバプテスマを受けることが許されているからです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                      2003年5月18日                      

「福音の初め」

マルコによる福音書1章1〜8節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」、これが四つの福音書の中で最初に書かれたと言われているマルコによる福音書冒頭(ぼうとう)の言葉です。この1節は後に続く文書の書き出しと言うよりも、この福音書全体の表題と言うことができないでしょうか。

 聖書をいろいろな訳で読むと意外なことを発見するものです。例えばリビング バイブルという聖書では、「神の子イエス・キリストの素晴らしい物語の始まりはこうです」となっています。まるで、紙芝居の語り手が子どもたち相手に、「イエスさまのすばらしい物語の始まり、始まり」と呼びかけているような書き出しです。紙芝居といえば、毎週礼拝の後、浦辻千景さんが近くの公園に行って、集まってくる子どもたちや時にはお父さん、お母さん方に紙芝居を読んでくれていますが、それはそれは上手なものです。臨場感(りんじょうかん)に溢れ(あふれ)ていて、目も耳も心まで引き込まれます。わたしなども時々ご一緒させていただきます。それは、この礼拝の中で、何とか子どもたちにメッセ−ジを伝えるための参考にしたいからですが、なかなか浦辻さんのようなわけには行きません。もともとリビング バイブルの由来(ゆらい)は、幼い子どもの一言にあるといわれています。子どもは言いました。「パパ、パパが呼んでくれる聖書のお話はとても面白いのに、どうして聖書はあんなにむつかしく書かれているの?」と。それを聴いた父親は自分の持っている聖書を自分流に、というよりも子どもに分かる言葉で書き直しました。もちろんそれは原典から翻訳し直したわけではないので、神学上いろいろ問題があるという人がいますが、彼は意に介しません。というのは何よりも子どもには好評だったからです。いや、大人の目にも大変好評で、結構読者層を広げています。

 もう一つ、わたしが読んだ聖書で心に残った翻訳聖書はルター訳の聖書です。そこには、「これが、イエス・キリストの福音の始まりですよ」と書かれています。「神の子」の部分が欠けているのは、用いた写本のせいでしょう。それはともかくとして、そもそもマルチン・ルターがドイツ語訳の聖書を書こうとしたきっかけは、ラテン語を読めないドイツの同胞に読んでもらうためです。こう言うことは今の時代なら何でもないことでしょうが、当時ヨーロッパ一帯を支配していたローマ・カトリック教会の指導者層は、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語、旧・新両訳聖書はラテン語でなければ聖書と呼べないと主張して、教会ではそれ以外の国語で聖書を読むことを厳しく禁じていました。ルターはそれに疑問を抱き、敢えてドイツ語訳の聖書を発行しました。

 リビングバイブルもルター訳の聖書も、またその他の聖書全ての目的は年齢、身分、学識を問わず、誰でも自由に聖書が読めること、誰でも自由に神さまと直接対話できるようにということにあります。聖書は全ての人に与えられた、「イエスさまの素晴らしい物語」なのです。そこでわたしは皆さまに申し上げたい。今は自由にどんな訳の聖書でも読むことができる時代です。しかし、国によってはまだまだ聖書を読むことさえ厳しく制限されたり、禁じられているところが現実にあると聞いています。そのような国や地域にもクリスチャンはいるのです。聖書を読みたくて読みたくて、魂の渇きを覚えている人々が大勢いるのです。私たちはその人々のために祈る必要があります。敢えて国禁を犯して聖書を送り届けようと命がけの働きをしている人々のあることを覚えて彼らの働きをできる限りサポートしたいものです。それだけではありません。自由に聖書を読むことのできるわたしたちが、今以上に熱心に聖書を読むことです。一生の内に聖書をほんの数頁しか開かないとは余りにももったいないことです。礼拝に来たときにしか聖書を開かない人がいるとすれば、更にもったいないことです。マルコは言います。「これがイエス・キリストの素晴らしい物語の初めです。是非最後まで読んで下さい」と。わたしたちも熱心に読もうではありませんか。

 さて、2〜8節にはバプテスマのヨハネという人物から書き始められています。彼は神から選ばれ、イエス・キリストの露払い(つゆはらい)のように登場します。著者はヨハネこそイザヤ書40:3〜4に預言されていた人であったと言います。ヨハネに対するわたしたちのイメージは質素倹約の人、謹厳実直で近寄りがたい人と映ります。確かに彼は酒も飲まないし、肉も食べない、人を寄せ付けない孤高の人、何の面白味もない真面目人間のようです。しかし本当にそうでしょうか。イザヤ書40章(旧約聖書p.1123)をよく見ると、それはわたしたちの誤った先入観であることが分かります。その1節をご覧下さい。彼は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言われて登場した人です。人を寄せ付けない孤高の人ではなく、人々の心に神の慰めを与えるメッセ−ジをもたらしたのです。彼は人々に呼びかけて言います。「悔い改めよ、あなたたちの心に神の子イエス・キリストを迎える道備えをしなさい」と。

 彼が悔い改めのバプテスマを施す預言者としてデビューしたのは荒野でした。ルカによる福音書を見ると、彼の父親は祭司でした。本来なら彼もその後継者であるはずでした。しかし、彼は祭司として神殿に止まる道ではなく、神の召命に従って荒野に退きました。ここに意味があります。人は言うでしょう。どんなにありがたいご高説を垂れても荒野にいては人の耳に届かないではないかと。しかし果たしてそうでしょうか。彼はこの荒野でサソリやエリマキトカゲではなく、人間に語ることができたのです。荒野にあっては彼の方から人々を呼び集めることはできませんでしたが、人々の方から荒野にいるヨハネのもとにやってきてメッセ−ジに耳を傾け、そして悔い改め、バプテスマを受けました。一体これはどう言うことでしょうか。

 確かに巷には人が溢れ、神殿には祭司がいます。レビ人たちもいます。そこでは律法学者に基づく礼拝が献げられています。しかし礼拝者は残念なことにみ言葉に飢えていたのです。だから、ただひたすら神の声に聴き、それを伝える真の預言者バプテスマのヨハネのもとに続々と集まって来たのではないでしょうか。いや、彼らの心の中こそ荒野のように渇いていたのです。渇ききった心にみ言葉の泉が必要であったのです。彼らは今ようやくヨハネのもとにあって真の泉である神の子イエス・キリストに出会うためにこの方を迎え入れる備えをしました。それがヨハネの施す悔い改めのバプテスマでありました。

 既にヨハネの時代には様々な宗教家たちの手でバプテスマが施されていました。そして禁欲的な集団を組織しては隠遁生活をしていました。しかし、ヨハネのそれは違っています。彼自身如何にも禁欲的で、質素倹約の生活でしたが、だからといって、人々にそれを強要する教祖的な人ではありません。そうではなく、この荒野で、荒野のように飢え渇いている魂の人々に、真の泉であるイエス・キリストに出会う備えをなさしめたのです。皆さんもご承知の通り、聖書の言う「悔い改め」とは倫理的な悟りの世界を言うのではなく、真の神に180度心の向きを変えて、真の神に立ち帰るという意味です。

 

 皆さんは今朝この教会に来て礼拝を献げておられます。それは正しいことです。ある意味で荒野のように、見るところ何もないキリストの教会でこそ真の神に出会えるからです。ここでこそ皆さんは真の神と対話が許されるからです。今日の牧師はヨハネのような出で立ち、また食生活では必ずしもありませんが、しかし語る内容は同じです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言うメッセ−ジを取り次ぐことでは同じなのです。しかし、皆さんが教会で受けるバプテスマはヨハネ以上のものであることを忘れないで下さい。それは罪の赦しを期待して悔い改めるバプテスマではありません。あなたは父と子と聖霊の御名においてバプテスマを受けました。或いは受けるのです。これによって十字架の主と共に、罪に死んで葬られ、復活のイエス・キリストと共に甦る新生のバプテスマを受けることが許されているからです。

 今朝このみ言葉を通してのメッセ−ジを聴いて心に悔い改めが起こされていることを自覚した人は罪の赦し、新生を保証するバプテスマを今受けることを心からお勧め致します。  祈りましょう。

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

 私たちは今朝、バプテスマのヨハネのメッセ−ジを通してわたしたちの心の荒野にあなたのみ言葉という潤いを頂くことが出来ました。それによってわたしたちの荒野のように寂しい心、あれすさんでいた心にあなたの愛が今満ちあふれています。今、わたしたちはあなたがたの御前にこれまでの罪の思い出の数々が甦ってきました。今こそその全てを悔い改めます。今、わたしたちの心はヨハネの促しを受けましたから救い主を仰ぎ見ます。どうかわたしたちを赦し、わたしたちにバプテスマを施し、わたしたちを受け入れてください。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってお願い致します。

アーメン。

 


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