【主日礼拝・メッセージ要約】                      2003年6月1日                      
「すぐに従った」

マルコによる福音書1章16-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは漁師であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネたちの職場に出向き、「わたしに従ってきなさい」とお招きになりました。すると彼らは船も網も捨ててすぐに従いました。家の大黒柱と頼む彼らが船も網も捨て、仕事を捨ててしまったのでは残された家族は路頭に迷わないのでしょうか。確かに世の常識から見ると、このようなことが許されて良いとは思えません。「何が救い主か、何が信仰か」と非難の声が上がるのももっともなことです。しかし、この主イエスのなさり方を非難する人に対して、聖書は実例をもって誠実に答えていることを見逃してはなりません(列王記上17:8〜16)。主イエスは、先ずご自身に従う者に対して余りある恵みを添えて下さるお方なのです。

 今日わたしたちも教会に来ると、メッセ−ジを通して、「わたしに従ってきなさい」という主イエスの招きを聞きます。その時、あなたは世の常識を基準にして、「主は何にも分かっていない。わたしが今どんなに大変な状況にあるか、ちっとも分かっていない。今のわたしに全てを捨てて従ってきなさいなどとよくも言えたものだ」と拒むのでしょうか。それとも、エリヤのメッセ−ジを聞いてそれを神の約束の言葉として従ったあのやもめのように(列王記上17:8〜16)、またこの4人の漁師のように、何もかもご存じの主イエス・キリストに信頼して「すぐに」立ち上がって従うか、あなたの応答にかかっています。

 20節最後の言葉を見てください。主イエスに従うと言うことは、「主イエスの後について行く」ということです。わたしたちは時折先走って主イエスの前を歩きたがります。主イエスに信頼できないで、先走っていろいろなことを思い煩(わずら)うのです。まるで自分のことは自分が一番よく知っていると言わんばかりにです。そうではないのです。キリストの弟子になると言うことは、主イエスの歩まれるその足跡に従って行けばよいのです。先走る必要はないのです。あなたの全てを知っているのはあなた自身ではなく、主イエスだけです。わたしたちは明日のことも分からない身なのです。ですから、「わたしに従いなさい」と言われたら、今すぐに従えばよいのです。あなたの人生の祝福と勝利の道はここにしかないのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                    2003年6月1日                      

「すぐに従った」

マルコによる福音書1章16-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 新約聖書の正典として選ばれた四つの福音書の中、「第四福音書」と呼ばれているヨハネによる福音書は時期的には最も遅い紀元1世紀の末頃に書かれたものですが、反対に最も古い書物はマルコによる福音書です。マタイによる福音書とルカによる福音書はマルコによる福音書を原資料として書かれたもので、この3つをまとめて共観福音書(きょうかん ふくいんしょ)と言われています。では、どうしてマルコによる福音書が新約聖書の最初に置かれていないのでしょうか。これは恐らく使徒マタイに敬意を表して最初に、次に使徒ではありませんが、主イエスが復活された後に弟子となったユダヤ人マルコの著書を2番目に、ルカはギリシャ人なので3番目に、ヨハネによる福音書は特別の福音書なので、最後の締めくくりにというような順序で編集したものであろうと言われています。

 例えば今朝皆さんと一緒に読む箇所をマタイによる福音書で読んでみると、殆ど変わりなくそのまま書かれています。しかし、ルカはマルコを資料にしながらも、4人が主イエスの弟子になった経緯(いきさつ)をかなり詳しく書いています(ルカによる福音書5:1〜10)。恐らくペトロやその他の弟子たちからの聞き書きと言って良いと思われます。一つの物語にもこのように共観福音書を対照して読むと、物語の豊かさが伝わってきます。こうしたことを心に留めながらわたしたちはマルコによる福音書から、主イエス・キリストの物語を学ぶことにしましょう。

 

 主イエスは先ずシモンとシモンの兄弟アンデレが網を打っているのを御覧になりました。シモンとは後に主イエスからペトロ(ギリシャ語で「岩」という意味)と呼ばれた人のことです。ここで「御覧になった」という動詞ですが、かなり強い意味の単語が用いられています。ただ物見遊山(ものみ ゆさん)のつもりで湖岸に来られたのではなく、またシモンたちの仕事を何となく見ておられたというのでもありません。きちんとした目的を持ってここに来られたのです。そして彼らをじっと見つめるかのように御覧になっています。彼らは漁師でした。主イエスは彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とお招きになりました。彼らは主イエスと出会ったこの時のことを忘れることができなかったと思います。礼拝や祈り会、また普段の会話の中で、幾人もの人から何度となく、「ペトロさんとアンデレさん、あなたたちはどうして伝道者になったのですか? 使徒とされた切っ掛けは何ですか?」と尋ねられたことでしょう。ヤコブやヨハネも同じような質問を受けたことでしょう。そんな時、彼らは喜びも新たに、「実はね」とこの時のことを証(あかし)したことでしょう。

 今日のクリスチャンは主イエス・キリストに従おうと決心した時のことを思い出してみて、使徒パウロのように劇的な回心の経験をしたという人は少ないのではないでしょうか。殆どの人はそれなりの切っ掛けがあったとは思いますが、気持ちとしてはたまたまこの教会に来るようになり、礼拝や特別の集会で牧師や伝道者の話を聞いている内に、イエスさまにお従いします。バプテスマを受けます、という意志表示をしたのではないでしょうか。

 この4人とて似たようなものです。弟子として選ばれた彼らではありますが、何か特別主イエスの目を惹くような正しい行いや親切な行いをしていたわけではありません。それとは反対に、彼らは何か特別に悪いことをしたから、「こっちへ来い」と呼びつけられたわけでもありません。これで分かるように、主イエスが弟子としてお選びになる基準は、わたしたちの行いによるのではなさそうです。彼らはいつものように自分たちの生活に忙しくしていたのです。普段の生活をしていただけなのです。ただ一方的に主イエスの方から、「わたしについておいで」と呼ばれたのです。彼らが主イエスの弟子とされたのは、主イエスの方からの一方的な恵みによる招き、選びに尽きるのです。

 今日教会の仲間であるクリスチャンの中にも、「わたしは何か劇的な回心をしてクリスチャンになったわけではありません。思い返せば今がその時かなと言う軽い気持ちで決心をしただけです。こんなわたしでもクリスチャンと呼ばれていて良いのでしょうか」と謙遜して仰(おっしゃ)る方があります。そのような人は是非、この4人の物語を何度も読み返して下さい。わたしたちが主イエスの弟子と呼ばれるのは、人の評価の結果ではありません。自分で納得の上でももちろんありません。シモンを初め、この4人のように、ある日主イエスがあなたの生活の中に割り込んで、あなたをじっと御覧になって、「わたしに従ってきなさい」と呼んで下さったのです。その呼びかけにあなたは、「はい」と応えた、ただそれだけなのです。そしてそれで良いと主イエスは言って下さるのです。

 

 もう一つ教えられることがあります。主イエス・キリストの招き方と彼らの応答の仕方です。家族を支えるために一生懸命に働いているこの4人を主イエスはためらうことなくお招きになりました。彼らにも都合というものがあったでしょうに、主はそのようなことをまるで頓着していないかのように、「ついてこい」と呼ばれたのです。そして彼らは「すぐに」従いました。ヤコブとヨハネには両親が、ペトロには妻と妻の母がいたと聖書は書いています。その人たちを捨てて、彼らは本当にすぐに従ったのでしょうか。家の大黒柱と頼む彼らが船も網も捨て、仕事を捨ててしまったのでは残された家族は路頭に迷わないのでしょうか。聖書を読む多くの人は心配しながらここを読むでしょう。確かに世の常識から見ると、このようなことが許されて良いとは思えません。「何が救い主か、何が信仰か」と非難の声が沸き上がるのももっともなことです。しかし、そのように主のなさり方を非難する人に対して、聖書は無言できちんとした答えを出していることを見逃してはなりません。

 このことで旧約聖書から一つの実例を見ることができます。預言者エリヤは神から遣わされて、ひとりのやもめの家に身を寄せることになりました。エリヤは彼女に、「水を飲ませてください。それとパンを一切れ食べさせてください」と言いました。しかし彼女は、「小麦粉も油も残り僅かで、これからその小麦粉を練ってパンを焼き、わたしと息子のために最後の食事をするつもりです。後は死ぬのを待つばかりです。」と答えました。それを聞いてもなおエリヤは、「恐れることはない。まずわたしのために小さなパン菓子を作って持ってきなさい。それからあなたと子どものために残りの粉でパンを作りなさい。」と言いました。彼女がその言葉に従ったたところ、エリヤが預言したとおり、壺(つぼ)の粉は尽きることなく、瓶(かめ)の油はなくならず、彼らはその日から何日も何日もパンに困ることはなかったと記されています(列王記上17:8〜16)。

 今日わたしたちも教会に来ると、メッセ−ジを通して、「わたしに従ってきなさい」という主イエスの招きを聞きます。その時、あなたは世の常識を基準にして、「主は何にも分かっていない。わたしが今どんなに大変な状況にあるか、ちっとも分かっていない。わたしに従ってきなさいなどとよくも言えたものだ」と拒むのでしょうか。それとも、エリヤのメッセ−ジを聞いてそれを神の約束の言葉として従ったあのやもめのように、またこの4人の漁師のように、何もかもご存じの主イエス・キリストに信頼してすぐに立ち上がって従うか、あなたの応答にかかっています。20節最後の言葉を見てください。主イエス・キリストに従うと言うことは、「主イエス・キリストの後について行く」と言うことです。わたしたちは時折先走って主イエスの前を歩きたがります。主イエスに信頼できないで、先走っていろいろなことを思い煩うのです。まるで自分のことは自分が一番よく知っていると言わんばかりにです。そうではないのです。キリストの弟子になると言うことは、主イエスの歩まれるその足跡に従って行けばよいのです。先走る必要はないのです。あなたの全てを知っているのはあなた自身ではなく、主イエスだけです。わたしたちは明日のことも分からない身なのです。ですから、今、「わたしに従いなさい」と言われたら、今すぐに従えばよいのです。あなたの人生の祝福と勝利の道はここにしかないのです。  祈りましょう。

 

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

あなたはいつも私たちの生活の直ぐそばに立っておられます。わたしたちの視野は狭く、いつも自分のことで追い回されています。しかし、あなたは今朝、わたしたちにみ声をかけて下さいました。「そのままのあなたで良い、わたしに従ってきなさい」と。

わたしたちはあなたの後からついて行けばよいのに、困難や苦痛が忍び寄ってくると、あなたの御心を尋ね求めるより、先走っていろいろなことを思い煩ってしまいます。

しかし、あなたは今朝、わたしたちの弱さ、頑なさを知りながら、それでも「わたしに従いなさい」と招いて下さいます。主イエスよ、感謝します。わたしたちはもう先走って思い煩いません。わたしたちのあるがままと、これからの人生をあなたに委ねて、今こそあなたの後から従って参ります。

わたしたちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお捧げ致しします。アーメン。


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