【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年6月29日                      
「あなたの罪は赦される」

マルコによる福音書2章1-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスが、「あなたの罪は赦された」と宣言されたとき、居合わせた会衆の中に冷ややかな反応を見せるグループがありました。数人の律法学者です。彼らは心の中で、「罪の赦しを宣言するこの人は神を冒涜している」と非難しました。しかし主イエスは、「人を審(さば)く権威は神以外にない。わたしはあなたがたの罪をも赦そう」と言われたのです。律法学者は聖書の読み違いをしています。神は「互いに赦し合う」ことを求めておられます。「裁いてはならない」と戒めておられるのです。

 沖縄で永く伝道しておられる何人かの牧師方からこんな話を聞きました。先日23日にいくつかの教会が集まり、今年で58回目になる「沖縄慰霊の日」を記念して礼拝と祈りの時が持たれました。「魂魄(こんぱく)の塔」には戦争の犠牲となった35,000もの遺骨が眠っています。付近のサトウキビ畑には今なお数多くの名も知れぬ遺骨があるそうです。本土から見ていたときと比べものにならないほど沖縄の現状は厳しいものがあると言います。目下沖縄県知事が所謂「日米地位協定」の改訂を求めて奔走しておられますが、その最中に米軍兵士によるレイプ事件がありました。犯行に及んだ兵士は相変わらず米軍基地にかくまわれているとのことです。沖縄県民の心は哀しみに包まれています。そう言う状況の下であの6月23日の慰霊の日、キリスト者の集会に参加された人々の中にも同様の苦しみを持つ人がいました。その方の口から出る祈りの言葉にじっと耳を傾けていると、意外なことに憎しみの言葉ではなく、復讐を願う祈りでもないのです。赦しの言葉であったと言うことです。その牧師はわたしに「沖縄の人々の優しさは半端ではない」と言いました。あの事件を経験した人にとっては、それこそ「簡単に人を赦す言葉を口にすること自体、被害者の神経を逆なですることになるし、それこそ神を冒涜すること」だと。その人の気持ちが痛いほど伝わってきます。ですから律法学者が主イエスのお言葉に反発を感じたとしても一概に責めることはできません。それでも主イエスは「人を裁くことは益々自分の心の傷を癒し難くする。赦してこそ平安になる」と言われるのです。あの沖縄の魂魄の塔において捧げられた多くの祈りの中に敵をも赦す愛を見た友人の牧師は、沖縄にある彼らの信仰の豊かさ、奥深さに教えられたと言いました。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                     2003年6月29日                      

「あなたの罪は赦される」

マルコによる福音書2章1-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは数日後、郷里のカファルナウムに帰ってこられました。1:45から2:1までの日数のことと思われます。主イエスがある人の家に身を寄せておられると聞きつけた人々によって、その家はたちまち足の踏み場もないほどの集会となりました。そこへ1人の中風を病む人が4人の男の人たちに運ばれてきました。しかし、主イエスの教えを聞きたいと願う人たちのために戸口まで塞がれて、そこから先に入ることができません。しかし彼らはそれでも諦めきれず、その家の屋上に病人毎運び上げて、主イエスがお話しておられる辺りに見当をつけて、屋根を剥ぎ、その人を吊り下ろしました。まさに、コロンブスの卵のような発想です。「どうにかしてこの人を主イエスのみそばに連れて行ってやりたい」という熱愛と、全ての解決は主イエスのもとにこそあるという純粋な信仰が生んだ知恵と言うことができます。勿論当時ユダヤ人の家は直方体で、屋根は平らです。屋上に通じる階段は外側に取り付けられていて、誰でも自由に上り降りして良いことになっています。屋根ははがしやすく、また簡単に修理できる構造で、その割には丈夫な造りになっています。長年の生活の知恵です。

 この4人の信仰と愛について聖書があなたに与えるメッセ−ジをお伝えしたいと思います。あなたもお家の人や親しい友達が救われて欲しいと願っておられる1人でしょう。その為にあなたはどんなことができるとお考えでしょうか。これまで色々な手段を講じてこられたでしょう。しかし全ては徒労に終わり、今ではもう半ば諦めて、あなただけが教会に来ておられるのかも知れません。しかし、諦めないでください。主イエスはあなたの愛する伝道対象者の為に、そしてあなたのためにあなたが用意した担架の残り三方を担ぐ協力者を主の教会の中に備えておられるのです。牧師がいます。執事がいます。兄弟姉妹がいます。皆で一人の人を担いで、屋根を剥がしてまでも、あなたの愛する人を主イエスのもとにお連れしようではないですか。

 この奇想天外な4人の行動を、主は信仰と見なしてくださいました。どうにかして病人を連れて行ってやりたいと考えに考え、祈りに祈って浮かんだアイデアでした。その信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦されている」と、謝罪の宣言をしてくださいました。これを直訳しますと、「子よ、あなたの数々の罪は赦されている」と言われました。特定のあの罪、この罪というのではなく、この人が生まれてから今日までの全ての罪に対する赦罪の宣告なのです。

 もう一つ聴き逃してはならないメッセ−ジがあります。主イエスは病人自身に信仰を見たからではなく、彼を主イエスのもとに連れてきた4人の信仰を見て彼らを祝福し、病人を救って下さいました。主の御前に赦されない罪は一つとしてないのです。しかし忘れてならないことは1人の人が救われるためには実に多くの信仰者が払ってくれた愛と犠牲が必要でした。何よりも、主イエスご自身の十字架の贖いという犠牲なしに、あなたの罪の赦しはなかったのです。この出来事は主イエスの十字架による贖いの前ぶれだったのです。使徒パウロは、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェソ2:8)と言っています。罪が救われるために順序が必要でした。先ず主イエスが、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださいました。救いには罪の赦しという主イエスの一方的な恵みが先行します。予期しない神の大いなる愛に触れたあなたは、生まれて初めて神と向き合い、真剣にあなた自身の内にある数えきれない罪を思い、悔い改めへと導かれるのです。そして、「あなたこそ神の子キリスト、わたしの救い主です。わたしはあなたを信じます」と信仰の応答へと導かれるのです。このように救いは先ず神からの一方的な恵みと、その恵みに対する応答として、あなたの信仰の告白をもって完成するのです。

 

 聖書に戻りましょう。主イエスが、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださったとき、そこに居合わせた会衆の中に冷ややかな反応を見せるグループがありました。数人の律法学者です。彼らは心の中で、「罪の赦しを宣言するこの人は神を冒涜している」と非難しました。これに対して主イエスは、「人を審(さば)く権威は神以外にない。わたしはあなたがたの罪をも赦そう」と言われたのです。律法学者は聖書の読み違いをしています。神は「互いに赦し合う」ことを求めておられます。「裁いてはならない」と戒めておられるのです。

 沖縄で永く伝道しておられる何人かの牧師方からこんな話を聞きました。先日23日にいくつかの教会が集まり、今年で58回目になる「沖縄慰霊の日」を記念して礼拝と祈りの時が持たれました。「魂魄(こんぱく)の塔」には戦争の犠牲となった35,000もの遺骨が眠っています。付近のサトウキビ畑には今なお数多くの名も知れぬ遺骨があるそうです。本土から見ていたときと比べものにならないほど沖縄の現状は厳しいものがあるということでした。今年に入ってからでも沖縄県知事が所謂「日米地位協定」(日米安全保障条約の一部)の改訂を求めて奔走しておられますが、その最中(さなか)に米軍兵士による忌まわしいレイプ事件がありました。犯行に及んだ兵士は相変わらず「日米地位協定」に守られて米軍基地にかくまわれているとのことです。沖縄県民の心は哀しみに包まれています。そう言う状況の下であの6月23日の慰霊の日、キリスト者の集会に参加された人々の中に、同じような苦しみに遭った人がいました。その方の口から出る祈りの言葉にじっと耳を傾けていると、意外なことに憎しみの言葉ではなく、復讐を願う祈りでもないのです。赦しの言葉であったと言うことです。その牧師がわたしに言いました。「沖縄の人々の優しさは半端ではない」と。あのような事件を経験した人にとっては、それこそ「簡単に人を赦すという言葉を口に出すこと自体、被害者の神経を逆なですることになるし、それこそ神を冒涜すること」だと、言いたくなるだろう。むしろその人の気持ちが痛いほど伝わってくるのです。ですから律法学者が主イエスのお言葉に反発を感じたとしても一概に責めることはできません。何故なら、もしかしてこの中風を病んでいる人がかつてはそこに居合わせた人の幾人かを苦しめた張本人であったかも知れないからです。

 しかし、それでも主イエスは「人を裁くことは益々自分の心の傷を癒しがたくする。赦してこそ平安になる」と言われるのです。あの沖縄の魂魄の塔において捧げられた多くの祈りの中に敵をも赦す愛を見た友人の牧師は、沖縄にある彼らの信仰の豊かさ、奥深さに教えられたと言いました。今朝、私たちに与えられたこの聖書を通してのメッセ−ジは私たちの心に爽やかな風を送ってくれます。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

 「あなたの罪は赦された」と主イエスは高らかに宣言されました。この言葉は赦しを受ける人にとって深い感動を与えます。しかし律法学者でなくとも被害者にとっては傷口に塩を擦り込まれる思いでこの言葉を聞くかも知れません。しかし、主イエスは「それでもわたしは彼の罪を赦さずにはおれない。なぜならわたしはあなたの罪をも赦したいからだ」と言われます。主の祈りの中に「わたしに罪を犯す者を赦しますから、わたしの罪をお赦しください」と祈れと教えられているからです。私たちが彼と自分との間だけを見ていると、憎しみが湧き、とても赦す心が芽生えてきません。しかしイエスさま、あなたを見上げたとき、わたしは自分の罪を思い起こさせられるのです。主はあの人のために十字架に死なれましたが、同時にわたしのためにも死んで下さいました。確かにあなたを見上げるとき、人を赦さずにいることの方がはるかに苦しく、赦すことによって今までにない平安を経験できるのです。主よ、私たちに人を赦すことを教えて下さい。そしてあなたがどれほど私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げてくださったか、その恵み深い事実をもっともっと分からせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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