【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年7月6日                      
「罪人だから招く」

マルコによる福音書2章13-17節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 レビは見える世界と見えない世界を結ぶお方、主イエスと出会ったことにより、彼はその後自分のために生きるのではなく、自分のために救い主を遣わしてくださった神さまのために生きようと決心したのです。こうして彼は立ち上がって主イエスに従いました。主イエスに従う決心をした彼が最初にしたことは友を呼び集めて感謝の宴を開くことでした。集まってきた顔ぶれを見ると、徴税人仲間と罪人(つみびと)と呼ばれる人たちです。俗に「類は友を呼ぶ」と言いますが、主イエスに出会うまでの彼はこうした人々と酒を酌み交わしては憂さ晴らしをするだけでした。しかし今は違います。主イエスを主賓として、かつての悪友にも主との出会いを体験させたい、許されるなら彼らにも自分と同じ新しい人生を踏み出して欲しい、そう願って盛大な宴を催したのでした。

 けれどもこの宴を素直に喜べないグループがあります。ユダヤ教の中でも特に厳格なファリサイ派の律法学者たちでした。律法学者たちから見て主イエスがこのような人々の招待を受けて食事を共にしていることは理解できないのです。それは驚きであり、由々しいことなのです。彼らは主イエスの弟子に尋ねました。「どうして彼は罪人や徴税人と一緒に食事をするのか」と。律法学者たちにとって「罪人」とは神に背く者、非聖書的な生き方をしている人と理解していましたから尚更のことです。このような人々と付き合うイエスの神経が分からないというわけです。

 律法学者の非難めいた問いかけに対する主イエスのお答えは実に単純ですが、その意味するところは彼らの伝統的な教義を根底から突き崩すものでした。主イエスは言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。このみ言葉の前には全ての者が沈黙します。またこのみ言葉には全の人を悔い改めへと導く力があります。主は罪を悔い改めて御自分に従う者との交わりを喜んでくださいます。

 私たちもこれから主の晩餐に与ろうとしています。レビがそうしたように、私たちも同じように主イエスに招かれた1人として感謝の内にパンと杯に与ろうではありませんか。主イエスはこのわたしを招くためにわたしのお客になって下さったのだという信仰と共に。

 

 
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝・メッセージ】                  2003年7月6日                      

「罪人だから招く」

マルコによる福音書2章13-17節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝ご一緒に読む聖書は後にマタイと呼ばれた徴税人レビが主イエスの弟子として回心する有名なお話しです。日本の税法は紀元689年飛鳥時代に始まり、701年の大宝律令による租・庸・調の施行をもって更に整備されました。 田の面積に対する農作物、加工食品や繊維製品、特産品などに対する一定割合の物納で、その税率は大体3%が基準でした。また一定期間の労役という税もありました。

 西アジアやヨーロッパでは紀元前の時代から、支配者は非占領民に対するいろいろな名目で納税義務を課していました。紀元6年以降ローマはパレスチナを直轄領地として南からユダヤ、サマリヤ、ガリラヤの3つに区分けして税を徴収していました。そこにつけこんで税金徴収権を多額の金で買い取り、支配者や権力者のおこぼれに与ろうとする徴税人のような人々がいました。特にカファルナウムは国境の町でしたから、ここに税関を設けて諸外国から搬入される交易品の関税を徴収していましたが、その税収は総督を通してローマの国庫に入る仕組みになっていました。更にガリラヤ州の領主ヘロデ・アンティパスも人頭税や物品税などの税を課し、その実務を彼ら徴税人に任せていました。今日の税務署は法に基づいて正規の税を徴収していますが、今から2千年も昔のこと、徴税人たちはローマの総督やヘロデからの信任を良いことに好き放題に税率を算出していましたから、住民は二重、三重の税負担に喘(あえ)いでいました。当然徴税人に対する民衆の風当たりも強く、異邦人や権力者の手先になっていると言うことで、徴税人を罪人と同列に扱い、彼らとの交際を一切断っていました。ルカ福音書に登場するザアカイと同じです。これまで仕事以外のことで彼に近寄り、語りかけてくる人はなかったでしょう。彼は机に向かって座りながら、道行く人を見ていますが、それは人間を見ているのではなく、通行する人の手にしているもの、懐中に隠し持っているものを見抜く目でしかありませんでした。周囲の人も同じです。レビを見ていますが、それはレビという人間を見ると言うよりも、権力者の犬に成り下がった裏切り者に対する憎しみのこもった瞳でしかなかったのです。いわば両者は鋭い監視の視線と、激しい憎しみの視線がぶつかり合う関係でした。仕事に精を出せば出すほど、行き場のない空しさが彼を捕らえます。レビの人生は来る日もくる日も孤独の二文字で縛り付けられていたのです。

 ところが彼の人生に転機が訪れました。レビの収税所はこの町を出入りする人を監視するような位置にありましたから、彼は主イエスがこの町に入ってこられるのが直ぐに分かったことでしょう。大抵の人は多額の関税を逃れたさに、レビに気付かれないよう、そっと通り抜けようとします。しかし主イエスだけは真っ直ぐに彼の事務所を目指して近づいてこられました。納税の申告に来たか、それとも何か文句を言いに来たかと彼は身構えたことでしょう。そうではありません。主イエスは、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけられました。「見かけて」と書かれていますが、偶然気が付いたと言うよりも「(彼の顔を)じっと見つめて」というほどの意味があります。直訳すると、「完全に掴む」ということになります(英語のperceiveに同じ?)。これにはレビの方が驚きました。こんなにも親しく、こんなにも自分を気遣ってくれる呼びかけをこれまでも聞いたことがなかったのです。

 人にはその後の人生を決定するような出会いというものがあります。それは書物との出会いがあります。芸術品との出会いがあります。或いは尊敬する人との出会いがあります。確かにそれらとの出会いの一つひとつに重い意味があります。しかしレビの場合は特別でした。ただこの世の人生にヒントが与えられただけではありません。魂の琴線に触れる出会いをしたのです。見える世界と見えない世界を結ぶお方と出会ったことにより、彼はその後自分のために生きるのではなく、自分のために救い主を遣わしてくださった神さまのために生きようと決心したのです。こうして彼は立ち上がって主イエスに従いました。主イエスに従う決心をした彼が最初にしたことは仲間を呼び集めて感謝の宴を開くことでした。孤独と思っていた彼にも仲間がいたとは不思議です。しかし、集まっている顔触れを見ると、徴税人仲間と罪人(つみびと)と呼ばれる人たちです。俗に「類は友を呼ぶ」と言いますが、主イエスに出会うまでの彼はこうした人々と酒を酌み交わしては憂さ晴らしをするだけでした。しかし今は違います。主イエスを主賓としてお招きして、かつての悪友にも主との出会いを体験させたい、許されるなら彼らにも自分と同じ新しい人生を踏み出して欲しい、そう願って盛大な宴を催したのでした。

 けれどもこの宴を素直に喜べないグループがあります。ユダヤ教の中でも特に厳格なファリサイ派の律法学者たちでした。彼らは聖と俗を几帳面に分別する人たちで、汚れたものにはそれが人であれ、物であれ一切触れることをしない人々です。ですから律法学者たちから見て主イエスがこのような人々の招待を受けて食事を共にしていることは理解できないのです。それは驚きであり、由々しいことなのです。彼らは主イエスの弟子に尋ねました。「どうして彼は罪人や徴税人と一緒に食事をするのか」と。これは中風患者の救いを巡って、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(2:7)という見解に基づくものです。律法学者たちは「罪人」とは神に背く者、非聖書的な生き方をしている人と理解していましたから尚更のことです。このような人々と付き合うイエスの神経が分からないというわけです。現代のキリスト教会もしばしばファリサイ派になる誘惑を感じます。神のために熱心の余り、越えてはならない一線を越えてしまうという罪があります。例えば礼拝を欠席しがちな信徒のことを、「彼らは教会を大事にしない罪人だ。それこそ神を冒涜する罪人だ」と裁いてしまうことがあります。多くの信徒は礼拝に来たいという思いを持ちながら、いろいろな妨げのために出席できないでいるのです。実際積極的に礼拝をさぼっている人がいるかも知れません。仮にそうであっても、その人を裁くのは神であって、私たちのすることではありません。私たちは全ての信徒のためにひたすら執り成し、祈り、呼びかけを続けるだけでよいのです。それ以上に干渉することは罪なのです。まさに律法学者たちの罪は神のために熱心すぎて神の座に着いてしまうところにありました。私たちも気を付けないと同じ轍を踏みかねません。

 律法学者の非難めいた問いかけに対する主イエスのお答えは実に単純ですが、その意味するところは彼らの凝り固まった教義を根底から突き崩すものでした。主イエスは言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。このみ言葉の前には全ての者が沈黙します。そしてこのみ言葉には全の人を悔い改めへと導く力があります。主イエスは罪を悔い改めて御自分に従う者との交わりを喜んでくださいます。主イエスはレビの招待を受けて共に食事の席について下さいました。

 Kという牧師はドイツに留学中、バーゼルという町におられたそうです。その町で多くの友人から食事に招かれました。それぞれの家庭で聞いた食前の感謝祈祷で、心を惹く共通した祈りの言葉に気付きました。「主イエスよ、来てください。私たちのお客になって下さい。そしてあなたが与えてくださったものをここで祝福して下さいますように」という祈りです。それ以来先生は誰と、そしてどこで食事をする時も、時には1人で祈る時も口に出して、或いは心の中でこの祈りを献げてから食事をするそうです。

 私たちもこれから主の晩餐に与ろうとしています。レビがそうしたように、またK牧師がi学んでこられた祈りに倣って。私たちも同じように主イエスに招かれた1人として感謝の内にパンと杯に与ろうではありませんか。主イエスはこのわたしを招くためにわたしのお客になって下さったのだという信仰と共に。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

 「健やかな人は医者を必要としない。病人のみこれを必要とする」と主は言われました。この世には霊的に病んでいる人が余りにも多くいます。でも、彼らは殆ど例外なく自分は健康で正しい生活を送っていると思い違いをしています。主イエス・キリストがこの世に来てくださったのは罪人を悔い改めに導き、神さまの下に立ち帰らせることでした。どうかこの教会の人々、この町の人々、この国の人々、世界中の人々をあなたの下に立ち帰らせてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む