【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年7月13日                      
「花婿が一緒にいる」

マルコによる福音書2章18-22節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

神を畏れ敬う人は、しばしば断食をもって神との静かな対話の時を持ちます。ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は当時その模範とされる敬虔なユダヤ教徒でした。彼らのように敬虔な人々の目にはよく食べ、よく飲むイエスとその弟子たちの生活スタイルは理解できないことでしたから、驚いて主にお尋ねしました。これに対して主イエスは、婚礼に譬えてその理由をお教えになりました。

旧約聖書を読むと、神とイスラエル共同体との関係を夫と妻として譬えていますが、主イエスは聖書に預言されているその花婿こそ御自分であり、招待された客とは主を信じる弟子たちであるというのです。ではもう一方の主役である花嫁はどこにいるのでしょうか。それはやがて主のお選びになった弟子たちがキリストの福音を宣べ伝えることによって形成されて行くキリストの教会を指します。旧約聖書に預言された神とイスラエルの関係はキリストと教会の関係をもって成就されるというのです。だから、「今はめでたい時、今は喜ばしい日だ。どうして断食などしていられようか」とお答えになりました。

しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」と主が予告されたように、確かにユダヤ人自身がこのめでたい婚宴を台無しにする日が来ます。十字架がその日です。その日を境に弟子たちは暫くの間哀しみ、断食しないでいられなくなります。今もキリスト教会の中には主が十字架に上げられた悲しみを記念してイースターまでの40日間、ある人は断食を、ある人は出来る限り質素な振る舞いをしながら復活の朝を待ちます。この期間をレント(受難節)と言います。しかし悲しみに代えて喜びを爆発させる日が来ます。主の十字架の死と甦りを経て昇天の後、聖霊が弟子たちに降り、聖き力と宣教の言葉を与えて下さいましたから、花嫁であるキリストの教会が誕生しました。全世界に主の福音が行き渡ったとき、主は再びおいでになって、キリストの弟子たちを天に招き寄せ、贖われた教会を花嫁として迎え、盛大な婚宴が開かれます。その日は近いと主は言われます。そしてこのめでたい席にファリサイ派の人々、ヨハネの弟子たちをも招いておられます。そしてこのメッセ−ジに耳を傾けているあなたを招いておられます。感謝して主のみもとに参りましょう。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                   2003年7月13日                      

「花婿が一緒にいる」

マルコによる福音書2章18-22節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 神を畏れ敬う人は、しばしば断食をもって神との静かな対話の時を持ちます。ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は当時その模範とされる敬虔なユダヤ教徒でした。断食はユダヤ教徒にとって特に重要な意味を持っています。例えば旧約聖書によると、ユダヤ暦チスリの月、太陽暦で言うところの9〜10月の10日を「贖罪日」と定めました。この日「あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである」(レビ記16:31他)とありますが、ここに言う「苦行」こそ断食のことです。バビロン捕囚から帰国後には、贖罪日に加えて4回(4,5,7,10月)の断食が定められました(ゼカリヤ8:19)。これはバビロン捕囚、エルサレム陥落、神殿破壊、ユダヤの総督ゲダルヤが暗殺されると言った一連の国家的悲劇(列王記下25:1〜、エレミヤ書52:6〜)を忘れない為の断食でした。新約聖書によると、ファリサイ派は頻繁に断食を実行していました(1週に2度。ルカ18:12;モーセがシナイ山に登ったとされる木曜日と下山したとされる月曜日)。以上ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たちのように敬虔な人々の目にはよく食べ、よく飲むイエスとその弟子たちの生活スタイルは理解できないことでしたから、驚いて主にお尋ねしました。これに対して主イエスは、婚礼と織りたての布、そしてぶどう酒を題材にした3つの譬をもってその理由をお教えになりました。

 先ず、主イエスは今を婚礼の時と理解しなさい言われます。旧約聖書を読むと、神とイスラエル共同体との関係を夫と妻として譬えていますが、主イエスは旧約聖書に預言されているその花婿こそ御自分であり、招待された客は御自分がお選びになった弟子たちであるというのです。ではもう一方の主役である花嫁はどこにいるのでしょうか。それはやがて主のお選びになった弟子たちがキリストの福音を宣べ伝えることによって形成されて行くキリストの教会を指します。旧約聖書に預言された神とイスラエルの関係はキリストと教会の関係をもって成就されるというのです。だから、「今はめでたい時、今は喜ばしい日だ。どうして断食などしていられようか」とお答えになりました。

 しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」と主が予告されたように、確かにユダヤ人自身がこのめでたい婚宴を台無しにする日が来ます。花婿であるキリストが突如取り去られるときが来ます。十字架がその日です。その日を境に弟子たちは暫くの間哀しみ、断食しないでいられなくなります。今もキリスト教会の中には主が十字架に上げられた悲しみを記念してイースターまでの40日間、ある人は断食を、ある人は出来る限り質素な振る舞いをしながら復活の朝を待ちます。この期間をレント(受難節)と言います。レントの期間、確かにキリスト教会とそのメンバーは一時期悲しみに暮れますが、やがて喜びを爆発させる日が来ます。主は十字架に死にましたが、3日目に復活されました。主が天に上げられる前に約束して下さった聖霊が弟子たちに降り、聖き力と宣教の言葉を与えて下さいましたから、花嫁であるキリストの教会が誕生しました。そして全世界に主の福音が行き渡った時、主は再びお出でになって、キリストの弟子たちを天に招き寄せ、贖われた教会を花嫁として盛大な婚宴が開かれるのです。その日は近いと主は言われます。そしてこのめでたい席にファリサイ派の人々、ヨハネの弟子たちをも招こうとしておられます。今主イエスの御前にあって礼拝を献げておられるあなたを招いておられます。感謝をもって主の御許に参りましょう。

 

 次の譬は婚宴に招かれた人が身に着ける礼服のことです。礼服はかなり古びて所々破れています。まさかこのままで行くわけにも行かず、応急処置をします。問題は、礼服は古いのに継ぎ当てをする生地が新しいという場合です。その結果主イエスが指摘された通りの悲劇が起こります。

 この譬えの意味は何でしょうか。一方で自分の価値観こそ絶対であるという自信過剰、生まれながらの古い性質から抜け出せない生き方にこだわりながら、他方新しい生地のような主の教えにも魅力を感じて聖書をつまみ食いするような人のことです。聖書はただの文字の羅列ではなく、言(ことば)そのものです。聖書に、「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)とありますように、それは生ける神のみ言葉です。み言葉はもの凄いエネルギーとなってその人を内側から突き動かします。

 わたしのところに寄せられる聖書に関するさまざまなお尋ねの中に、今の自分に何が足りないのかというのがあります。また、これからの生き方に、何か役に立つ聖書のあちこちを見繕って教えて欲しいというお尋ねもあります。このようなお尋ねを読むとき、思い出す一つのお話しがあります。ある金持ちで身分の高い青年が主イエスのもとに走りより、ひざまずいて尋ねました。「どうしたら天国に行けるでしょうか」と。主は「殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証するな。父母を敬え。また、隣人を自分のように愛しなさい」と十誡の後半部分を示して「これを実行しなさい」と諭されました。青年は答えて、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言いました。確かにこの青年は立派です。もう、これだけで天国に行けるのでは、と思うのですが、主は言われました。「もし、あなたが完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。これを聞いた青年はどうしたでしょうか。悲しみながら立ち去ったということです(マタイ19:16〜21)。これが、古い生き方を守りながら、刺激を求めて主イエス・キリストのみ言葉で継ぎ当てをしようと考えた人の姿です。主は言われます。「あなたの古い生き方に拘る時代は終わった。弾力性を失った古い上着ではなく、わたしが与える新しい服、天の御国に開かれる婚宴に相応しい新しい礼服をわたしから受け取りなさい」と。

 キリストを見出せないまま古い律法の世界にしがみつくファリサイ派の人々やヨハネの弟子たち、そしてここにいるあなたがた一人ひとりにこのメッセ−ジは与えられました。

 

 3つ目の譬は新しいぶどう酒のお話です。ユダヤ人の結婚披露の宴に欠かせないのはぶどう酒です。カナの婚宴のお話しがありますが、「ぶどう酒がなくなった。なんとかしてくれ」と母親のマリヤに頼まれた主イエスは、水を最高のぶどう酒に変えて上げたというエピソードがあります(ヨハネ2:1〜)。主イエスはここで婚宴のぶどう酒とそれを貯蔵しておく革袋に譬えてお教えになっています。古びて弾力性のなくなった革袋は新しいぶどう酒を貯えるのに相応しくありません。新しいぶどう酒は時間と共に発酵するエネルギーを増して行きます。だから新しいぶどう酒には新しい革袋が必要なのです。

 では、ここに言う「新しさ」とは何なのでしょうか。政治改革、経済改革、教育改革、司法制度の改革など、この世も国家ぐるみで古いものに拘らず、新しい何かを求めて努力しています。一般社会でも古いやり方では時代について行けないので、改良、改善、果ては改革を断行しようと懸命です。特に金融機関の様変わりには目まぐるしいものがあります。どんどん片仮名文字やアルファベットの名前の銀行が増え、以前どの銀行とどの銀行が合併した結果この名前になったと覚えている人はそこに勤めている人と預金者くらいのものでしょう。では、政治にしても経済にしても教育にしても司法界にしてもまた企業にしても改革の結果本当に外環だけでなく、内実も新しくなったのでしょうか。当事者が言う新しさは果たして国民の暮らしを、心を豊かにしてくれるものでしょうか。幸せにしてくれるのでしょうか。答えはノー!です。

 話を戻しましょう。主イエスがここで言うところの新しさとは何でしょう。断食を強調するファリサイ派の人々やヨハネの弟子達が普段口にする食事はどんなものであったか分かりませんが、彼らの食事風景は主イエスが弟子たちとなさる食事風景と明らかに違っていたと思われます。恐らく前者の食事は沈黙の時であったことでしょう。昔の日本人の食事風景と似たところがあります。上座に父親が座り、以下男女の別、年齢の順に家族が座り、水を打ったように静まりかえった中で、物音一つ立てずに粛々とお箸を進めるというものです。それに比べて主イエスが共にされる食事には笑顔が満ち、会話も弾んでいたことでしょう。静かな食事が間違いというのではありません。間違いではないのですが、交わりには喜びが伴うものだというのが主イエスのいわんとするところであります。神との交わりは粛々としたものと言うよりも、自由と喜びと笑顔が伴うのです。断食が否定されているわけではありません。しかし、今がどう言うときであるかと言うことが分かるなら、むしろ主イエスの下に来て、主イエスが主催して下さる食卓に、主イエスと共に着くことを求めるはずだと言っておられるのです。新しい革袋、それは弾力性を失った自分のやり方に拘ることを捨てて、主イエスにあって新しいわたしに造り変えていただくことなのです。新しい革袋として造り変えていただこうではありませんか。あなたの心がけでそれはできません。主イエスの下にあなた自身を明け渡すとき、あなたは新しくされるのです。

 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント5:17)。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

主イエスが、「新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と諭された時、「今更この歳で」とニコデモは反論しました。同じ心が私たちの中にもあります。悲しみに満ち、争いの続く日々、そして人生はこんなものと諦め、いつの間にか長いものに巻かれて保守的で安全な道を行こうとしていたわたしたちでした。しかし、今私たちはあなたのみ言葉に聴くことの中で、あなたの下に来ることによって自分を、そして人を喜ぶことのできる新しい生き方のあることを知りました。あなたはわたしたちに新しい礼服を身に纏わせ、命溢れたあなたのみ言葉というワインを貯えることのできる新しい革袋としてくださいます。主よ、どうかこのわたしをあなたのみ言葉によって新しく創造してください。。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。


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