【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年7月20日                      
「誰のための安息日か」

マルコによる福音書2章23-28節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われました。これは、「そもそも安息日は誰が誰のために定めたか」と言うことをはっきりさせようとするみ言葉です。「安息日」は神が人のために定められたのです。神は6日で天地創造の業を完成させ、喜びと満足の内に7日目にお休みになりました。ですから私たち人間も感謝と喜びの内にこの日に安息するこことができるのです。

 主イエスはまた「人の子は安息日の主でもある」と言われます。主イエスが御自分のことを人の子と呼ぶ場合、それには二通りの意味が含まれています。一つは全き人としての御自分を言い表す言葉です(フィリピ2:8〜9主イエスこそ全き人であり、同時に全き神であります。)。今一つは全き神としてのご自身を言い表す呼び方です(マルコ2:10、28)。

 ある安息日に主イエスの弟子たちは麦の穂を摘み取り、それを口に含ませていました。ファリサイ派の人々は主イエスの弟子たちが麦の穂を摘み取ってから口に含ませるまでの一連の行為を労働と見なしました。これは明らかに、「安息日には何の業もしてはならない」と言う戒めに抵触(ていしょく)する行為である。見逃すことのできない罪だというのです。しかし主イエスははっきりと、「人の子は安息日の主でもある」と言われました。安息日をどう過ごすかは人それぞれの責任です。誰かがコントロールすべき事柄ではありません。確かに安息日は誰のものでもなく、全ての人のために備えられたものであります。一日中遊びほうけるも、商売や仕事に熱中するも自由です。しかし、主イエスのみ言葉の中で忘れてならないことは、安息日の主は人間ではなく、神ご自身です。イエス・キリストご自身であるということです。十字架と復活の主イエス・キリストが安息日の主であるということは、イエス・キリストを通して救いの御業を完成して下さった日曜日こそ真の安息日であるという意味ですから、復活の主イエス・キリストの前に恥じることなく過ごしてこそ安息日の意義があると言えるのです。日曜日の朝、先ず主の宮に出て礼拝を献げることから一週が始まります。そして礼拝後、兄弟姉妹や家族とくつろぎながら主イエス・キリストを喜び祝うのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                 2003年7月20日                      

「誰のための安息日か」

マルコによる福音書2章23-28節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今日の聖書の箇所で問題になっているのは「安息日」の意義とその過ごし方です。主イエスの行くところどこにでもファリサイ派の人々の目が光っています。「ある安息日に、…」という書き出しで始まるこの出来事について、今日のキリスト新聞やクリスチャン新聞なら、「安息日問題で火花!」という見出しを付けるかも知れません。わたしたちが先程読んだ交読文は十誡(出エジプト記20章)です。十誡の中に安息日の規定があります。この規定については申命記(旧約聖書)に詳しく説明されていますので、次週の礼拝の中で読むことになると思います。ただ一つだけ申命記に説明されている安息日の過ごし方について紹介しますと、神がどうして私たち人間に「休みなさい」といわれたのか、その理由が良く分かります。「安息日」に自分が休むと使用人も休むことが出来ます。家畜も休むことができます。無駄な電気やガスや水道などエネルギー資源の節約にもつながります。つまり家の主人が率先して休むことによって周囲も心身共に安息できるというのです。しかも他の規定でも同じように、もしこの戒めを破る者があれば死罪にかけられます。しかし、ユダヤ教の指導者たちは最初から厳しい処置をしません。一度目は警告を発します。もしそれでも聞かないで同じことをすると今度は罰せられるのです。ですから今主イエスの弟子達がとった行動をファリサイ派の人々が咎めたのは、いわば警告のつもりであったと言えます。しかし主イエスはこれに対して反対にファリサイ派の人々をお教えになりました。

 最初は、ダビデが神の家で祭司のためのパンを食べた事件を取り上げての教えです。これはサムエル記上21章からの引用ですが、但しこの時の祭司はアビアタルではなく、アヒメレクです。多分著者の記憶違いでしょう。ダビデはこの時、サウル王から命を狙われて逃れる日々でしたが、ついに空腹も限界です。ようやくのことで神の家に仕える祭司アヒメレクの前に立ちました。その日は「パンを供えかえる日」であったということですから、安息日であったと思われます。アヒメレクは祭壇から下ろしたばかりの冷えた「供えのパン」をダビデとその従者に与えました。ここに言う「供えのパン」の数はレビ記24章によると12個で、安息日毎に供え替えることになっていました。12という数字はイスラエル12部族を象徴しています。「供えのパン」は直訳すると、「神が見ておられるパン」という意味で、祭司は安息日毎に12個のパンを主の御前に供え替えることによって、イスラエル12部族を絶えず見ておられる神に対する感謝と悔い改めの祈りを込めていました。いわばこの12個のパンはイスラエルの民を代表する祭司の執り成しを意味する奉仕であります。主イエスはこの出来事を取り上げて、「神に見られているパンを通して命を永らえることができたダビデの行為、それを差し出した祭司を後世の人々は誰も非難してはいない。では、今神のご用に忠実な弟子たちが同じことをしたからといって、どうして彼らを非難するのか」と言われたのです。

 

 続いて主イエスは27節を通して、「安息日はそもそも誰が誰のために定めたか」と言うことをはっきりさせようとしておられます。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と主は言われました。安息日は神が人のために定められたのです。神は6日で天地創造の業を完成させ、喜びと満足の内に7日目にお休みになりました。ですから私たち人間も感謝と喜びの内にこの日休むのです。

 ある教会員の夫は永年サウジアラビアを初めアラブ諸国の石油基地で送油管を敷設する工事に携わっていました。連日日中の温度は40度を超えます。しかも砂漠の真ん中ですから体感温度はそれ以上です。そんな厳しい環境の中でも国民性の違いは現れるもので、とかく現地の人と緊張を醸(かも)し出すことが少なくなかったそうです。日本人の技術者は休憩時間が来ても、就業時間になっても仕事が途中ですと、ある程度のきりをつけて後の仕事をスムースに運ばせたいと考えてもう少し、もう少しと頑張ってしまうのです。ところが現地の人たちはちっとも協力してくれません。そうした気持ちのずれが少しずつ蓄積し、とんでもない事態を引き起こすことが少なからずありました。しかし現地の人に言わせると、休みの時間も神さまからの賜物であるから、これを無視して仕事を延長させることは神を冒涜することであるという考えです。イスラム教徒には日本人とは違った意味で時間の観念があります。「休むときは休む、それでこそ仕事をこなすことができるというのがアラーの教えだ。コーランにはそう書いてある」というのです。神を持たぬ日本人から見て、全ては神の御心に従ってというイスラム教徒の生活スタイルは、ただ文化の違いでは済まされない、畏敬の念が湧いてくると聞きました。これこそ安息日規定の精神につながるものではないでしょうか。神なき人々にとって休みはただの休みでしかありません。だから休みとなるとどうしても自分勝手な時間の用い方になり、羽目を外してしまいます。しかし全ては神の御旨のままにという人々にとって休みは神が人間のために与えて下さった貴い賜物なのです。キリスト者であるわたしたち日本の教会はここまで徹底した安息日理解を持っているか考えさせられます。いや、反省させられます。

 

 第3のみ言葉は28節です。主イエスは福音書の中で御自分のことを「神の子」とか、「キリスト」とは呼ばないで、「人の子」と呼んでおられます。ここでも27節を受けて、「人の子は安息日の主でもある」と言われます。主イエスが御自分のことを人の子と呼ぶ場合、それには二通りの意味が含まれています。一つは全き人としての御自分を言い表す言葉です。聖書に、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:8〜9)とある通りです。今一つは全き神としてのご自身を言い表す「人の子」としての呼び方です。主イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました(2章10節)。そしてこの28節でも「人の子は安息日の主でもある」と言われます。主イエスこそ全き人であり、同時に全き神であります。

 この方こそ私たちに安息日を与え、安息日を通して私たちをお導き下さるのです。そこでもう一度麦の穂を積み始めた弟子たちの行動を考えてみましょう。並行記事のマタイによる福音書、ルカによる福音書を見ると、彼らは空腹の余りそうしたのです。それを見たファリサイ派の人々は主イエスに、「あなたは弟子たちにどんな教育をしているのか。彼らは安息日にもかかわらず労働をしているではないか」と噛みつきました。ファリサイ派の人々にとって主イエスの弟子たちが麦の穂を食べたことは問題ではありません。では何が彼らの逆鱗(げきりん)に触れたかと言いますと、歩きながら麦の穂を摘み取ったことです。並行記事ではそれを口に入れたとありますから、彼らは穂を摘み取っただけでなく、揉みしだいて中身だけを食べたでしょうから、大袈裟に言うと刈り入れと脱穀と精麦という仕事をしたことになります。これは明らかに、「安息日には何の業もしてはならない」と言う戒めに抵触します。見逃せない罪だというのです。しかし主イエスははっきりと、「人の子は安息日の主でもある」と言われました。安息日をどう過ごすかは人それぞれの責任です。誰かがコントロールすべき事柄ではありません。確かに安息日は誰のものでもなく、全ての人のために備えられたものであります。一日中遊びほうけるも、商売や仕事に熱中するも自由です。

 しかし、主イエスのみ言葉の中で忘れてならないことは、安息日の主はあなたでもなければわたしでもありません。神ご自身です。イエス・キリストご自身です。十字架と復活の主イエス・キリストが安息日の主であるということは、私たちのために備えられた安息日とは古い律法のままの土曜日ではなく、イエス・キリストを通して救いの御業を完成して下さった日曜日こそ真の安息日であるということが分かってきます。この復活の主イエス・キリストの前に恥じることなく過ごしてこそ安息日の意義があるのです。そうすると「安息日の主」であるイエス・キリストの御前に恥じない安息日の過ごし方が見えてきます。日曜日の朝、先ず主の宮に出て礼拝を献げるることから一週が始まります。そして兄弟姉妹や家族とくつろぎながら残された時間を共にしながら主イエス・キリストを喜び祝うのです。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。

 「安息日は誰のものでもなくあなたたちのものである。但し、安息日の主がわたしであることを忘れるな」と主イエスは今朝私たちに語って下さいました。人の目を気にしてではなく、また自我の赴くままにでもなく、安息日を安息日として身も心も魂までもリフレッシュされる神から賜った一日として過ごし得ますように、あなたを喜び、あなたに感謝と讃美をささげる喜びの一日とさせて下さい。

私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


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