【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年7月27日                      
「真ん中に立て」

マルコによる福音書3章1-6節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝は主イエス・キリストが安息日に片手の萎えた人をお癒しになったお話しです。

 今日建物のバリアフリーが叫ばれ、また実行に移されても、心のバリアフリーは遅れています。自分は行きたいところに行きながら、障害者の行動を制限してしまっていることがあります。自分は身の危険に敏感なのに、障害者の危険を予測することは苦手です。ましてや今から2000年も昔のこと、ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々は、片手の萎えた人の癒しをよりにもよって安息日にしなくても良いではないかという、極めて冷淡な発想です。しかし、主イエスの御心は違います。この片手の萎えた人の必要に今すぐ答えて上げたいのです。危険な状態から一時でも早く解放して上げたいのです。行きたい所に今すぐ行けるようにして上げたいのです。旧約聖書によると、障害者に対する厳しい規制で溢れています。健常者には分からない苦痛を障害者に負わせるものです。主イエスの御心とは、この病人を一時も早く健康な状態に戻して上げることです。厳しく制限されている主の宮に、早急に大手を振って出入りできるようにして上げたいのです。そして主イエスは今それを成し遂げてくださいました。

 しかし、周りの反応は冷ややかなものです。それどころか、主イエスが手の萎えた人のために善い業をなさったにもかかわらず、手の萎えた人の命を賜ったそのことには沈黙して、ただ安息日の規定を破ったという形式論でイエス暗殺計画を練り始めました。この会堂の中はとても重苦しい空気に満ちています。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々はどちらも聖書を頂く集団、人民の指導者的存在です。しかし今聖書を読みながら、片手の萎えた人の人間性を否定し、病の人に憐れみをかけた主イエスを逆恨みして、安息日にもかかわらず暗殺計画を練るために礼拝もそこそこに。一方一般会衆も愛を学ぶべき会堂で、愛を忘れかけています。それで主イエスは病気の人を敢えて真ん中に立たせました。全員に注目させるためです。「この人もあなたたちと同じく主なる神の憐れみを求めてここに来たのだ、この人も聖書の説き明かしと救いのみ言葉、永遠の生命を求めてこの会堂に来たのである」と。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年7月27日                      

「真ん中に立て」

マルコによる福音書3章1-6節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先週は弟子たちが安息日について掟破りをしたとファリサイ派の人々から追求されましたが、今日の聖書では主イエス御自ら安息日に癒しの業をなさったことによって、またまたファリサイ派の人々との間に新たな火種を作ることになります。元々安息日は労働から解放されて自由と平和を賜った天地創造の主なる神さまに感謝と讃美を献げる日でありました。しかし時代の流れに従って、世の中が複雑になるに連れ、人の心も素直でなくなっていきます。安息日には何の業もしてはならないと聖書にはあるが、一体どこまでが仕事で、どこからが普通の生活なのかと疑問を投げかける人が増えてきました。そこで律法の教師であるラビ達が安息日の過ごし方について事細かな規則を作ることになったわけです。一旦規則ができてしまうと、今度はその規則に縛られて、自己管理に神経をとがらせると共に、人の行動にまで目を光らせるようになりました。今日の聖書テキストがまさにそれです。

 主イエスが会堂に入られると、そこにはファリサイ派の人々やヘロデ派の人々がいました。この人々はつい数時間前にあの麦畑事件のもう一方の当事者であったように思われます。彼らは麦の穂をつんで食べている弟子たちを見て、主イエスに「彼らは安息日にしてはならないことをしています」と非難した人々です。今この会堂においても安息日に病気の人を癒されるかどうか、ことと次第によっては当局に訴える口実になると固唾を呑んで見守っています。そこで主は片手の萎えた人を真ん中に立たせておき、彼らに対して「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかけられました。病気の癒しは「安息日にしてはならない部類に入るのか、それとも許されるのか」と逆に問い返しました。しかし何と言うことでしょう。彼らは黙して答えようとしません。悲しい光景です。会堂はしんと静まりかえっています。それは主イエスのみ言葉を待ち望む沈黙ではありません。主イエスがこの病気の人に対してどうするのかという期待と不安の入り交じった何とも言えない息苦しさの漂う沈黙です。口語訳聖書で5節を読むと、「そこで、イェスは怒りを含んだ目で彼らを見回し」と訳されています。この訳の方がその時の緊張した空気を良く伝えていると思いませんか。

 もっとも仕事を禁じる安息日規定の中に例外もあります。「命にかかわる事態が発生し、一刻を争う場合に限って治療を行う」ことが許されていました。しかしこの病人さんの場合、確かに片手が萎えていて不自由でしょうが、急を要する状態ではありません。命にかかわるほどでもなさそうですから、律法学者たちの作った例外規定には当てはまりません。わざわざ安息日でなくても、他の日でも遅くはないというのがファリサイ派の人々やヘロデ派の判断です。片手が萎えている人、今日の言葉で言えば、体や心に障害を負わされている人々の一人です。こうした人々が普段味わっている苦しみは、健常者になかなか分からないのです。健常者の目に大したことはないと見えるものでも、障害者にとって命に関わることが少なくありません。建物のバリアフリーは進んでも、心のバリアフリーは遅れているのです。自分は行きたいところに行きながら、障害者の行動を制限してしまっていることが結構あります。自分は少しの身の危険にも敏感なのに、障害者の危険を予測することは苦手なのです。今日でもこうした問題が見え隠れしています。ましてや今から2000年も昔のこと、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々が、片手の萎えた人の癒しをよりにもよって安息日にしなくても、明日でも、明後日でも良いではないかという、極めて冷淡な発想につながっていくのです。しかし、主イエスの御心は違います。この片手の萎えた人の必要に今すぐ答えて上げたいのです。危険な状態から一時でも早く解放して上げたいのです。行きたい所に今すぐ行けるようにして上げたいのです。

 聖書に、「だれでも、障害のある者、…主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない。…彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない」(レビ記21:18〜23)とあります。モーセの律法によると、このように障害者に対する厳しい規定で溢れています。これは健常者であるファリサイ派の人々やヘロデ派の人々には分からない苦痛です。主イエスの御心とは、この病人を一時も早く健康な状態に戻して上げることです。厳しく制限されている主の宮に、早急に大手を振って出入りできるようにして上げたいのです。そして主イエスは今それを成し遂げてくださいました。

 しかし、周りの反応は主の御業の前にも劣らず冷ややかなものです。それどころか、ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々は主イエスが手の萎えた人のために善い業をなさったにもかかわらず、手の萎えた人の命を賜ったそのことには沈黙して、ただ安息日の規定を破ったという形式論でイエス暗殺計画を練り始めました。

 最近の世の中はどこか歯車が狂い始めています。とても息苦しくなりました。自己中心の人が余りにも目立つからです。間違ったことをしている人をたしなめると、暴力で逆恨みされてしまいます。しかし、とても清々しい経験をしました。京王線府中駅から調布まで特急電車に乗りました。ぎゅうぎゅう詰めと言うほどではありませんが可成り混んでいました。ところがわたしの目の前に座っている若者が満員電車の中なのに足を組んでいます。どうしようかと思いましたが、意を決して眠っているその若者の膝に手をあてて、「込み合っているので、足を組まないでくれませんか」と声をかけました。青年はハッと目を覚ましたかと思うと、「気が付きませんで済みませんでした。」と言うが早いか立ち上がりかけるので、こちらの方が些か慌てて、「いや、足を組まないでくれればよいのでそのまま座っていて」と辞退しました。しかし、「次で降りますので」とそのまま立ち上がってドアの方へ行ってしまいました。余りに爽やかな青年の態度に込み合っていた車内ですが、その場の雰囲気がとても和みました。わたしも調布で降りるので、隣で立っている女性にどうぞと席を譲りました。ああ、こういう青年がいる日本はまだ捨てたものでもないなと救われた思いでした。

 それとは打って代わって、この会堂の中はとても重苦しいものがあります。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々はどちらも聖書を頂く集団、人民の指導者的存在です。しかし、今聖書を読みながら、片手の萎えた人の人間性を否定し、病の人に憐れみをかけた主イエスを逆恨みして、安息日にもかかわらず暗殺計画を練るために礼拝そっちのけにして出ていってしまいました。一方一般会衆も愛を学ぶべき会堂で、愛を忘れかけています。彼らは皆自分だけ礼拝の恵みに与ればそれで良いという印象を受けます。主の怒りの眼差しは卑怯で自分本位の会衆にも向けられていたと言えないでしょうか。主イエスはどうして病の人を真ん中に立たせたのでしょうか。全能の主であれば、御自分の前に座っているその人をその状態のままでも癒せたはずです。しかし主イエスは敢えて真ん中に立たせました。全員に注目させるためです。「この人もあなたたちと同じく主なる神の憐れみを求めてここに来たのだ、この人も聖書の説き明かしと救いのみ言葉、永遠の生命を求めてこの会堂に来たのである」と。

 皆さん、その席で立ち上がってください。わたしたちは今日を限りに古い会堂とお別れです。しかし、ただ目に見える古い会堂と別れて新しい会堂を楽しみ待つだけでよいのでしょうか。主イエスは今もわたしたちの前に一人の人を真ん中に立たせていらっしゃいます。今、あなたの隣に立っている人がその人です。今あなたの心は冷えていませんか。自分だけが恵みに与りたいと思ってこの会堂に入ってきたのではありませんか。あなたの隣の人も聖書の説き明かし、と救いのみ言葉、永遠の生命を求めて礼拝を献げるていることを忘れてはいなかったですか。今暫く、一人ひとりそのまま右左の隣人と手をつないでください、そして、心の中でも声に出しても良いですから、全員祈ってください。祈ったことのない人も勇気を出して祈って下さい。祈ってみて初めて神を信じることができるのです。祈ってみて初めて神がおられることを実感できるのです。何を祈ればよいかお教えしましょう。「神さま、今日礼拝にくることができてありがとうございました。今週も自分を大切にすることができますように、また人を愛することができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通しておささげします。アーメン」と。

 またキリスト者であるあなたは、あなた自身の悔い改めと隣人の癒しのために、そしてお互いの救いと祝福を祈ってください。新しい会堂が新しい宣教ビジョンと共にあなたのものとなるようにと、そのことも合わせて祈って下さい。今静かにピアノを弾いていただきます。この音が止むまで祈り続けて下さい。この音が止んだら静かにお座り下さい。わたしが最後に祈ります。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。

 41年間慣れ親しんだ会堂とも今日でお別れです。しかし、4ヶ月もすれば、永年の祈りであった新会堂を主は私たちのために備えて下さいます。その新しい会堂でわたしたちがなすべきことが何であるかをあなたは今朝示してくださいました。「真ん中に立て」と主イエス・キリストは言われました。今朝私たちは主イエスのみ言葉に従って立ち上がった隣人を見ました。そしてこの人もあなたの癒しと憐れみ、救いと永遠の生命を求めていることを知りました。主よ、新しい会堂でわたしたちが為すべき事は自分のために憐れみと恵みを求めるばかりでなく、人間性を否定されている人々のためにこの会堂が用いられるようにと祈ること、関わりを持ち続けることでした。新しいぶどう酒を頂くために、わたしたちの心こそ新しくしてください。

私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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