【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年8月10日                      
「12人の任命」

マルコによる福音書3章13-19節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 福音書の中に12人のリストが紹介されるとき、必ずイスカリオテのユダがその最後に置かれた上に、「このユダがイエスを裏切った」と断り書きをしています。このような言い方は日本人として馴染みにくいものがあります。死人に鞭を打つ言葉に聞こえます。しかし福音書はためらうことなくこう言いきっています。では、11人とユダの間の線引きは何でしょうか。主イエスに対する裏切りの内容です。裏切った後の身の処し方です。他の弟子とは違って彼は積極的に主イエスを売り渡しました。更にその罪に気付いた後も己の罪と向き合うだけで主イエスと向き合い、主イエスに立ち帰ることをしなかったのです。これは主ご自身に人を見る目がなかったのではなく、主イエス・キリストの模範に最後まで気付かなかったユダの側の責任と言うほかないのです。

 今日は平和の貴さを思い起こす礼拝です。確かに平和は座して向こうからやってくるまで待てば得られるというものではありません。聖書も平和は戦い取るべきものだと教えています。問題は平和の意味を知ることとそれを勝ちとるための戦い方です。わたしたちは熱心党のシモンを受け入れて下さった主イエスの懐の深さを学びました。しかしそのシモンから誤った熱心さを取り去られたことを見落としてはなりません。わたしたちは全く反対にこの世の権力と結びついて世渡りしていた徴税人マタイを受け入れて下さった主イエスの慈愛を学びました。しかしそのマタイから間違った権力の下で生きることを継続することをお許しにならなかったことを見落としてはなりません。わたしたちは全てを受け入れながら全ての者をきよめ分かち、十字架上で栄光の御国のために戦い、そして勝ちとられた主イエス・キリストによって生きることを学ばなければなりません。

 あの12人のように使徒と呼ばれる者ではありませんが、わたしたちもそれぞれの生い立ちの中から救われて主イエスの弟子の一人に加えられました。そして日々「世界に平和が来ますように」と祈る者です。ではその平和の実現のためにわたしたちのできること、また為すべき事は何でしょうか。目立たないことですが、一粒またひとつぶと十字架の福音という種を播き続けることです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年8月10日                      

「12人の任命」

マルコによる福音書3章13-19節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 福音書の中に主イエスとの関わりで欠くことのできないものの一つに山があります。主イエスにとって山は祈りの場でした。父なる神と静かな、そして深い交わりを得る場でありました。ここでもただそこに山があるから登ったというのではなく、祈るためであったとルカによる福音書6:12は書いています。この祈りには特別な目的がありました。それは12使徒の選任という大いなる目的であります。ルカによると徹夜の祈りでした。そして明くる朝12人を任命しました。12という数字はご存知の通りイスラエル12部族と関係があります。イスラエル民族の始祖アブラハムから数えて三代目のヤコブに12人の息子たちがいてこの小さな集団から大いなるイスラエルの民となりました。主イエスもまた12人という小さな群れから新しいイスラエル、キリストの教会を起こす御業をお始めになるのです。

 主イエスはこの12人の弟子に「使徒」という職名をお与えになりました。使徒はギリシャ語でアポストロスと言い、原語の意味としては「派遣された者」、また「使者」ですが、元々は海外遠征などで戦況を伝える使命を帯びた人のことです。ヘブル語ではシャリアハと言い、「全権を委託された者」という意味です。ヨハネによる福音書13:16とヘブライ人への手紙3:1にその用例を見ることができます。主イエスが12人に使徒という職名を与えたのは勿論ヘブル語のシャリアハに由来しています。即ち神の独り子イエス・キリストの使命を帯びた全権大使という意味です。

 16節以下にその名簿を見ることができます。先ずシモンです。シモンには「聞く」という意味がありますが、主イエスは彼に「ペトロ」というあだ名を与えました。「岩」という意味です。12使徒が全ての教会の礎として選ばれましたが、ペトロはこの12使徒の更に牧会者として選ばれたと理解する人もいます。岩のようにどっしりとした信仰で仲間を導いて上げなさいという主イエスの期待を感じさせるあだ名です。彼の元の職業は漁師ですが、ルカによる福音書5章やヨハネによる福音書21章前半から、漁師仲間の間でもリーダー的存在であったことを窺(うかが)わせます。主イエスは彼を選び、彼の中に宿っているリーダーシップを福音宣教のために用いようとされたのです。勿論彼も人間ですから時に岩のように頑固な一面もありました。また時には事に当たって揺るぎない岩というわけにはいかない弱さもありました。しかし主は彼を使徒として、またその牧会者として用いてくださったのです。

 次にボアネルゲとあだ名されたヤコブとヨハネという兄弟がいます。彼らもまた元漁師でした。職業柄小さな声の人ではなかったでしょう。多分この二人はその漁師仲間の中でもとりわけ雷のように大きな声の持ち主であったのかも知れません。こういう人は小声で話すのが苦手です。ある日、「イエスさま、わたしたちが天国に行けたらあなたの右大臣・左大臣にしてください」と自分たちは小さな声でお願いしたつもりですが、他の仲間の耳にも聞こえてしまったという逸話があるほどです。しかし主は彼らの内に備わっている雷のように正義感の強い熱血漢的性格をご存知でした。ですから時間をかけて彼らを福音のために生き、福音のために死ぬ信仰の戦士、雷のように、ストレートに混ぜもの無しに神のみ言葉を宣べ伝える者に育て上げようとして選んで下さったのです。

 マタイについては先日学んだとおり、かつては虎の威を借りる狼のようにローマという超大国の力を利用して温々(ぬくぬく)と自分の地位を保つ世渡りをしてきた人です。しかし主イエス・キリストこそローマに優る権威を持つ方ですから、御自分の力の下でこの世に仕える福音の奉仕者として生きるべく導いてくださいました。

 トマスの人と成りについてはヨハネによる福音書に詳しく紹介されています。彼には双子の兄弟がいたようです(11:16)。同時にそれはまた彼の二面性を言い当てているのかも知れません。主イエスのためには命も惜しまないと仲間を鼓舞するかと思えば、一度死んだ者が甦るなど信じられるものかと主イエスの復活の事実を頭から否定する死生観は他の誰も覆すことができませんでした。ただ復活の主イエスだけが彼のかたく、また冷たく閉ざされた心をとかし、開くことができました(20:24〜)。

 熱心党のシモンと呼ばれる弟子がいます。熱心党とはイスラエルの独立のために戦う政治結社で、目的のためにはテロリストとして暴力も辞さないグループの一人です。主イエスは彼をも受け入れて下さいました。国を改革し、人の心を変えるものは暴力ではなく、福音であること、愛の革命こそ天国に相応しいと自ら十字架への道を踏みしめる模範を示して彼を造り変えて下さったのです。

 イスカリオテのユダという弟子がいました。イスカリオテとは「ケリオテ出身の人」という意味で、彼にだけ出身地が紹介されています。他の11人はみなガリラヤ出身ですが、彼だけはユダヤ地方の人だからでしょう。ケリオテとは元々「懐刀(ふところがたな)」とか、「匕首(あいくち)」という物騒な意味を持っています。ユダはきっと頭の切れる人であったのでしょう。主イエスは彼の高い教養と広い視野を持つユダに期待して彼を使徒の一人に任命されたのですが、しかし彼は結局主イエスを裏切ってしまいました。これは主イエスに人を見る目がなかったのでしょうか。このことについては後でご一緒に考えてみたいと思います。

 このような人々が「これと思う」一人ひとり、口語訳聖書でいえば「御心に適った」使徒として任命を受けました。しかし12人を使徒として選ぶにあたってしなければならないことが主の側にあります。先ずみそばに置くこと、そしてやがて宣教の野に遣わすことであります。いってみれば福音の使者としての召命に応えて献身させ、神学校に入学させて訓練を与え、学ばせ、そして派遣することであります。さまざまな背景を抱えて召されてきた弟子たちを一つの聖なる目的のために働く奉仕者としてこの世に仕える者となるために、またこの世に向かって人は何を基準にして生きるべきかを教える霊的な指導者となるために主イエスは先ずみそばに彼らを置いて学ばせます。

 わたしもかつて神学校に学んだ一人ですが、あの神学校で果たして自分はいったい何を学んだのかと静かに振り返ってみるとき、正直言って沢山の科目をこなし、それなりの及第点を貰ったのは事実です。しかしそれが全て身についているかというと恥ずかしながら否定せざるを得ません。しかし、一つだけ確かに学んだと言えることがあります。教授方の愛と謙遜と忍耐です。授業の始まる前に祈り、閉じるときに祈る先生方の謙虚さを今も忘れることができません。教える者が学ぶ者に感謝する祈りの言葉を聞いたとき、授業中の自分たちの態度を悔い改めずにいられませんでした。この姿勢こそ主イエス・キリストが12人をみそばに置かれた意義深さと結びつくものではないでしょうか。12人誰も彼も多くの長所を持っていましたが、短所も少なからずありました。主イエスは決してその一人一人を強制的に教え導こうとはされませんでした。ひたすら忍耐と愛と執り成しをもって導かれたのであります。弟子たちは主イエスから多くのことを学んだでしょうが、とりわけ「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」と、筆頭弟子であるペトロ自身学び得た第一のことして証言しています(ペトロの手紙一 2:21)。

 福音書の中に12人のリストが紹介されるとき、必ずイスカリオテのユダがその最後に置かれた上に、「このユダがイエスを裏切った」と断り書きをしています。このような言い方は日本人として馴染みにくいものがあります。死人に鞭を打つ言葉に聞こえます。しかし福音書はためらうことなくこう言いきっています。では、11人とユダの間の線引きは何でしょうか。主イエスに対する裏切りの内容です。裏切った後の身の処し方です。他の弟子とは違って彼は積極的に主イエスを売り渡しました。更にその罪に気付いた後も己の罪と向き合うだけで主イエスと向き合い、主イエスに立ち帰ることをしなかったのです。これは主ご自身に人を見る目がなかったのではなく、主イエス・キリストの模範に最後まで気付かなかったユダの側の責任と言うほかないのです。

 今日は平和の貴さを思い起こす礼拝です。確かに平和は座して向こうからやってくるまで待てば得られるというものではありません。聖書も平和は戦い取るべきものだと教えています。問題は平和の意味を知ることとそれを勝ちとるための戦い方です。わたしたちは熱心党のシモンを受け入れて下さった主イエスの懐の深さを学びました。しかしそのシモンから誤った熱心さを取り去られたことを見落としてはなりません。わたしたちは全く反対にこの世の権力と結びついて世渡りしていた徴税人マタイを受け入れて下さった主イエスの慈愛を学びました。しかしそのマタイから間違った権力の下で生きることを継続することをお許しにならなかったことを見落としてはなりません。わたしたちは全てを受け入れながら全ての者をきよめ分かち、十字架上で栄光の御国のために戦い、そして勝ちとられた主イエス・キリストによって生きることを学ばなければなりません。

 あの12人のように使徒と呼ばれる者ではありませんが、わたしたちもそれぞれの生い立ちの中から救われて主イエスの弟子の一人に加えられました。そして日々「世界に平和が来ますように」と祈る者です。ではその平和の実現のためにわたしたちのできること、また為すべき事は何でしょうか。目立たないことですが、一粒またひとつぶと十字架の福音という種を播き続けることではないでしょうか。この世がどれほど乱れても、ただそれを嘆くだけならわたしたちはこの世の人と少しも変わりないのです。世の乱れが清められる道は主イエス・キリストの十字架以外にないのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙一1:18)と書かれているとおりです。平和を乱す敵はこの世の権力者でも、軍隊の力でもありません。むしろ彼らの目を覆って戦争へと駆り出す悪しき霊の力、サタンの働きによるものであることを忘れると、わたしたちは聖い目的をもって召されながら、目に見えるものに振り回され、この世の権力者や為政者を敵と見間違い、神ならぬ私たち自身が彼らを裁いてしまいます。それは救われる以前の熱心党のシモンと同じ道を歩むことになりま。主イエスに従いながら、見るところ何の変化も見られないからと失望して主に対して踵(きびす)をかえす者はイスカリオテのユダと同じ道を歩むことになるのです。

エフェソの信徒への手紙6:10〜18を読んで祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。

 この世は不正に満ちています。戦争と暴力が謳歌しています。しかし思い返すと、わたしたちもまたかつてはそうした不正を働く一人でした。戦争はいけないと言いながら、身の回りの事柄の中で小競り合いを繰り返していました。今もその傾向は続いています。自分を棚上げにして人を裁く思いが時に言葉となって人々を傷つけてしまいます。

 今朝、わたしたちは主イエス・キリストがあの12人を不完全なまま受け入れてこの世から選び出し、使徒という光栄に満ちた職務につかせた上、深い愛と忍耐をもって育て上げてくださったように、今も矛盾に満ちた弱いわたしたちを、なおもキリストの僕として受け入れ、訓練を与え、平和の道を学ばせてくださっています。主よ、どうかわたしたちに愛すべき者、主が赦されたように赦すこと、戦うべき対象が誰であるかを見定める知恵をお与え下さい。。

私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


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