【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年8月17日                      
「聖霊を汚すな」

マルコによる福音書3章20-30節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスの奉仕について、「エルサレムから下って来た律法学者たち」の評価は冷淡です。「あの男はベルゼブルに取りつかれている。…悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と、何やらわけのわからない言葉で酷評(こくひょう)します。これは主イエスが汚れた霊を追い出したことを指して言っているのです。ベルゼブルとは「悪霊の頭」、また「家の支配者」という意味で、悪魔、またサタンと呼ばれている者のことです。しかし主イエスは律法学者たちのこうした非難の言葉を逆手にとって、人間の心を「家」と呼び、ベルゼブルに支配されやすい私たちの心をご自身のものとして取り戻そうとしておられるのです。これまでわたしたちの心の家主はベルゼブルでした。律法学者たちも神に仕える者としてこの事実をよく承知していました。問題はイエスが何者であるかという理解にあります。彼らはイエスをベルゼブルに取りつかれた人と決めつけて、「汚れた霊を追い出しているのは彼の力ではなく、彼の内に取りついているベルゼブルの力によるものである」と言います。イエスこそベルゼブルに取りつかれた魔術師で、この上ない危険人物だと言うのです。そこで主はこの誤解を正すために、ご自身を家に押し入る強盗に譬えておられます。主はご自身についてこのような譬え方を外にもなさっています。例えば、世の終わりの日、盗人のように再びこの世に来て全ての人を裁かれるというのです(ヨハネの黙示録 3:3、16:15)。

 このように主イエスはわたしたちの心を支配して罪を犯させるベルゼブルを縛り上げて私たちの心から追い出して下さいました。しかし私たちの主となるために示してくださった具体的な方法は主ご自身が十字架につくことでした。この瞬間ベルゼブルは自分が勝ったと思ったことでしょう。人々もイエスが十字架に死ぬのを見て「神から見捨てられて」敗北したと誤解しました。「気が変になった」と思ったのに続く二度目の誤解です。主は確かに十字架に死なれましたが、しかし復活されました。その時ベルゼブルは縛り上げられ、砕かれたのです。わたしたちの内に働き、私たちの口に「イエスは主である」という告白を与えてくださる聖霊に従うなら、神はわたしたちの一切の罪を赦し、受け入れて下さるのです。今こそ、あなたも聖霊の導きに従ってイエスこそ真の救い主キリストと信じる信仰の告白をなさることを心よりお勧めいたします。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年8月17日                      

「聖霊を汚すな」

マルコによる福音書3章20-30節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝共に読む御言(みことば)は、2章から続く主イエスの超多忙な生活が背景になっています。また31節以下に言われている家族の意味を学ぶ道筋であります。

 「イエスが家に帰られた」とありますが、奇妙なことに身内の人々やイエスの母と兄弟たちはこの家にいません(31節)。何故でしょう。恐らくここは主がお育ちになった家ではなく、弟子の一人(ペトロ?)の家を指していると思われます。そこはまた御自分の家と同じくらいくつろぐことのできる家だったのでしょう。忙しく働く主イエスの姿を見て、世間の人々は「あの男は気が変になっている」と噂しています。噂というものはそれを振りまいた人の顔が見えません。しかし恐るべき力をもって、たちまち町中を虜にしてしまう恐ろしいものです。身内はそうした噂を聞くにつけ、次第に肩身の狭い思いになってきました。「呼び戻しに」という穏やかな言い方をする余裕を失ってしまったのでしょうか、かなり感情的になって、「取り押さえに」来ました。「気が変になっている」とは、エクセステーというギリシャ語が用いられています。直訳すると「自分自身から出てしまっている」ということになります。元のギリシャ語はエクシステーミで、ここからエクスタシーという英語が生まれました。世間の人々はもちろん、身内の人々でさえイエスが忘我の境(ぼうがのきょう)というか、恍惚状態(こうこつじょうたい)になってしまっているように見えたのです。

 突然のプログラムでさぞ驚かれたことと思いますが、執事会の了解を得てこの礼拝の中で、いよいよ会堂建築が始まったことを心に刻む節目として皆さんとご一緒に、ごく短い時間ですが、「起工式」を持つ予定にしております。それは今朝与えられた御言をテキストにメッセ−ジの準備をしている中で示されたことによります。わたしたちは41年間住み慣れた会堂に別れを告げて装い新たな会堂を建てて、そこをわたしたちの魂の養いを頂くホームにしようとしています。確かに教会堂はわたしたちの生まれ育った家ではありません。しかし、わたしたちにとって教会堂はわたしたちの魂をくつろがせてくれる霊的なホームです。わたしたちはわたしたちのたましいを解放し、永遠の生命を賜った主イエス・キリストの父なる神に礼拝をささげるために、毎週ここに帰ってくるのです。けれどもわたしたちが足繁(あししげ)くこの家に帰って、一所懸命奉仕している姿を見る身内や家族、或いは世間の人々は必ずしも喜んではくれません。主イエスが誤解されたように、わたしたちも周りから誤解されて、「あの人は気が変になっている」。「教会も良いが、ほどほどにしないと世間体(せけんてい)が悪い」と足止めを食うこともあるのです。

 主イエスの奉仕について、「エルサレムから下って来た律法学者たち」の評価は更に冷淡です。「あの男はベルゼブルに取りつかれている。…悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と酷評(こくひょう)します。ベルゼブルとは「悪霊の頭」、また「家の支配者」という意味で、悪魔、またサタンと呼ばれている者のことです。しかし主イエスは律法学者たちの、こうした非難の言葉を逆手にとって、人間の心を「家」と呼び、ベルゼブルに支配されやすい私たちの心をご自身のものとして取り戻そうとして下さっているのです。同じ家でも「わたし」が権利を所有する持ち家と、釘一本柱に打ち付けるにも自分勝手にしてはならない借家や官舎、また社宅のような家もあります。牧師館などもこの類です。わたしたちの心はいわばその借家のようなものです。確かに主イエスが言われるように、これまでわたしたちの心の家主はベルゼブルでした。律法学者たちも神に仕える者としてこの事実をよく承知していました。問題はイエスが何者かという理解にあります。律法学者たちの説によると、イエスこそベルゼブルに取りつかれた魔術師で、この上ない危険人物であるということになります。この誤ったイエス理解を正すために主は非常にユーモラスな譬(たとえ)を用いながら、果たしてご自身が何者であるかについてお教えになりました。「強い人を縛り上げてその家の家財道具を奪い取る強盗のように、汚れた霊の頭、すなわちベルゼブルをその人の心から追い出してわたし自身が本来の主人になる」とイエスは言われるのです。この譬の中で、主はご自身を強盗に譬えておられます。主はご自身についてこのような譬え方を外にも用いて、「主の日は盗人のようにくる」と言われるのです(ヨハネの黙示録 3:3、16:15)。

 ここまでは律法学者たちに対する主のユーモラスな教えですが、その先の28節では聞く者の襟を正す権威あるお言葉をもって、人は神の御前にいかなる姿勢をとるべきかをお教えになります。「はっきり言っておく」(アメーン レゴー フミーン)を元の語順に従って直訳すると、「真実に わたしは言う あなたがたに」となります。私たちが福音書を読むとき、しばしば見かける主イエスのみ言葉です。「はっきり言っておく」、「真実にわたしはあなたがたに言う」というみ言葉を読む時、わたしたちはその続きを何気なく読むのではなく、意識的に姿勢を変え、座り直してみてはどうでしょうか。そうするとただ字面を追うだけの読み方から、「しもべは聴きます。主よお語り下さい」という祈り心に導かれながら読むことができます。私たちも今祈り心で読み続けましょう。

 「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と主は言われます。その頃律法学者たちは勿論、ユダヤ人のほとんどは日々罪を犯さないように律法の言葉、聖書を暗誦しながら注意して生活していましたが、それでも罪を犯し、神のみ名を汚してしまうことがあります。例えば本当に人を殺さなくても心の中で憎しみが消えないとすれば、殺人を禁じる律法に違反している。また本当に姦淫の罪を犯さなくても、心の中でやましい思いがあるなら、姦淫を禁じる律法に違反していると主は言われます(マタイによる福音書5:21〜30)。このように主イエスは表面上の罪だけでなく、もっと深いところに隠されている心の罪を問題にしておられるのです。どんなに努力しても消えることのない罪をわたしたちは日ごと積み重ねてしまいます。どうすれば良いのでしょうか。感謝なことに主イエス・キリストは「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と実に慰めに満ちた言葉を下さいます。わたしたちの内面深くをさぐり、人知れず隠された数々の罪を問題にしながら、「わたしはそれでもあなたの罪を赦す」と言って下さる主イエス・キリストがおられるとは何とありがたいことでしょうか。人とは罪を犯す者です。私たちが旧約聖書の教えに従っていくら犠牲の生き物を山と積んで祭司のもとに足を運んでも犯した罪の事実は消えません。ただ神が備えて下さった小羊であるキリストだけが完全な宥(なだ)めの供え物となって下さいました。イエス、このお方だけがわたしたちの罪を全くぬぐい取ってくださる唯一人の救い主なのです。十字架の上で裂かれて下さったからだ、流して下さった血潮だけが一点の罪をも見逃すことのできない父なる神の満足を得る完全な犠牲の小羊なのです。今朝私たちに示されたメッセ−ジはこれです。主は言われます、「十字架の下に来て、心からその罪を悔い改める者は何人であってもわたしは赦す」と。では聖霊を汚す罪とはどういう罪かと言いますと、この福音を信じようとしない頑なな心を言います。

 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙 5:6〜8)

 また聖書はこうも言っています。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一 12:3)と。

 主イエス・キリストはわたしたちの心を支配して罪を犯させるベルゼブルを縛り上げて私たちの心から追い出して下さいました。その具体的な方法は主ご自身が十字架につくことでした。この瞬間ベルゼブルは自分が勝ったと思ったことでしょう。人々も主イエスが十字架に死ぬのを見て「神から見捨てられた者」、「敗北した者」と誤解したかも知れません。「気が変になった」と思ったことに続く二度目の誤解です。主は確かに十字架に死なれましたが、しかし復活されました。主が復活されたその時ベルゼブルは縛り上げられ、砕かれたのです。わたしたちの内に働き、私たちの口に「イエスは主である」という告白を与えてくださる聖霊に従うなら、神はわたしたちの一切の罪を赦し、受け入れて下さるのです。今こそ、あなたも聖霊の導きに従ってイエスこそ真の救い主キリストと信じる信仰の告白をなさることを心よりお勧めいたします。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 十字架への道を歩まれましたイエスを見て、世の多くの人は今なお誤解して信じようとしません。しかし、この道こそ私たちの心をベルゼブルの支配から解放してくださる唯一の道でした。私たちはあなたの憐れみと聖霊の導きにより主イエスの弟子に加えられ、主の教会に導かれました。今私たちは新たに会堂を建築しようとしていますが、これはあなたの弟子として召された仙川キリスト教会にお示し下さった主の御業です。わたしたちは装い新たな会堂で、再び主のご命令を聴くことでしょう。「出て行って、全ての造られた者に十字架の福音を宣べ伝えよ」と。「全ての者をこの会堂に呼び集めて、あなたの魂に安らぎを与える救い主をほめたたえよ」と。

 今私たちはあなたのみ言葉を頂きました。人は罪を犯す者です。わたしたちも罪を犯す者です。主よ、罪を犯すことのないように、聖霊を汚すことのないようにこの週もまたあなたが私たちの先駆けとなり、しんがりとなってわたしたちの心を日々十字架の主イエス・キリストによりすがらせてください。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。


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