【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年9月7日                      

み言葉に聴く

マルコによる福音書4章21-25節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝、わたしたちの教会では人生の先輩であり、信仰の先駆けである高齢の方々に敬意を表し、また共に健やかな信仰生活の日々が与えられていることを共に喜び、主の父なる神に感謝のひと時をささげげることが出来ますことを嬉しく思います。今日もこの方々とご一緒に聖書を紐解くことが出来ることを心から主に讃美します。

 

 「あなたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」というこの教えの意味は何でしょうか。わたしたちは一方で、「わたしはまだまだ信仰が未熟でして」としおらしいことを言いながら、その舌の根の乾かないうちに、「どうもあの牧師の説教は陳腐でしかも、浮世離れしていてつまらない」とか、「あの教会の役員は礼拝をよく休むし、聖書の読み方、交読文のリードのしかたが下手で聞くに堪えない。訓練が出来ていない」などと軽々しく、自分の信仰の秤で人の信仰を量る癖があります。しかし、そういう人は必ず神ご自身の大いなる秤できっちり量り返されるときがきます。謙虚に神と人の前に立つ人に対しては主イエスの恵みが豊かにはかり与えられ、更にたくさん与えられるのです。ある日、弟子たちが主イエスに、「わたしどもの信仰を増してください」と申し出たことがあります。素直に読めば、なんと謙虚な願いだろうかと思います。しかし、主イエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』といっても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:6)と、彼らの不信仰を指摘なさったことがあります。からし種一粒ほどの信仰がありさえすれば、神は更にそれを豊かに増し加えてくださいますが、自分の信仰をひそかに誇る人は持っていると思うそのものまでも根こそぎ取り上げられてしまうのです。わたしたちキリストの僕のとるべき姿勢は常に学ぶ者であり、聴き従う者でなければなりません。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                    2003年9月7日                      

み言葉に聴く

マルコによる福音書4章21-25節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝、わたしたちの教会では人生の先輩であり、信仰の先駆けである高齢の方々に敬意を表し、また共に健やかな信仰生活の日々が与えられていることを共に喜び、主の父なる神に感謝のひと時をささげげることが出来ますことを嬉しく思います。今日もこの方々とご一緒に聖書を紐解くことが出来ることを心から主に讃美します。

 

 さて、皆さんと共に読む聖書の箇所には、四つの教えがまとめて書かれています。しかし、主イエスはマタイによる福音書やルカによる福音書を見ると、いろいろな時と所でこれらを語っておられます。ここにマルコの編集意図が見られます。「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。」と主イエスは言われました。今の時代升という計量器を知っている人が何人おられるかわかりませんが、昔はお米のようなものを計る木の器です。ともし火はオリーブ油を布にしみこませて、それに火をつける、まさにともし火です。ともし火というのですから、赤々と燃えるたいまつほどの光を放つことは出来ませんが、少なくとも縫い物をしたり、書物を読む程度のことは出来ます。それを蓋するような形で升をかぶせる人はいません。ましてや寝台の下に置く人もいません。そんなことをしたら火事になると心配する人の親切もわかりますが、ここで言われていることの意味は少し違います。いや、大いに違うのです。

 次のみ言葉は一見わかりにくい言葉だと思いませんか。わたしは最近忘れ物が多くなりました。探してもさがしても見つけ出すことが出来ないで、とうとう諦めたということが一度や二度ではありません。少なくともわたしに関して言うと、隠されているものであらわにならないものはあるのです。しかし、次の「秘められたもので公にならないものはない」というみ言葉は少しわかる気がします。ある友人が、「出来るだけ早く、より多くの人に知らせたいと思うことがあったら、口の軽そうな人に、『これは秘密のことだから、絶対に人に言わないで』と念を押しておけば、まず間違いなく思惑通りにことが運ぶ」とわたしに教えてくれたことがあります。しかしこのみ言葉をそのような次元で受け止めるのは危険です。

 升や寝台の上にともし火を置けとの教えと、隠れたもの、秘められたものが必ずあらわにされ、公になるという二つの教えは共通する大切なひとつの真理をわたしたちに与えようという主イエスの御心なのです。それは何でしょうか。このともし火こそ「わたしたちはヨハネの光である」と言われた主イエスご自身であります。ですからこの福音の光を人の手で暗くしたり、遮ってはならないのです。キリストの弟子は、いつでもどこでもこの光を高く掲げる者でなければなりません。キリストの僕としての旗印を鮮明にする者でなければなりません。わたしたちを通して福音を聴く全ての人が父なる神に向かって、「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともし火」と讃美することが出来るように、証することが求められているのです。仮にあるクリスチャンがキリストの福音を宣べ伝えることを恥ずかしいとか、難しいとか、あるいは怖いからなどと言い訳ばかりして、「言わず語らず」を決め込み隠し通すなら、主イエスは別の人を用いて隠された福音を必ず明らかにし、かつ公にされるのです。

 ここで主イエスは三つ目の教えに入る前に弟子たちの注意を喚起して言われます。「何を聞いているかに注意しなさい」と。わたしたちは毎週、この礼拝でただの世間話を聞いているのではありません。政治問題を論じることも、平和について、また福祉について語ることも、差別の解消や高齢・少子化の問題について、最近の危機的な学校教育について論じること、更にはこの厳しい社会情勢、ことに経済について語り合うことなど、確かにどれもこれもみな大切です。「しかし」、と申しましょうか。「それでも」と言うべきでしょうか、主イエスは言われます。「何を聞いているかに注意しなさい」と。主イエスはいつでもどこでもまた誰に対しても十字架の贖いと復活、終わりの日の神の裁きと再臨以外のことは何一つ語ってはおられないのです。罪の悔い改めを迫る言葉以外のことを主の口から何一つ聞くことは出来ません。だからこの講壇から語るべき言葉もまたイエス・キリストの十字架と復活の出来事、再臨と永遠の命の約束、終わりの日の裁きに備えよという福音以外何一つ語ることはできないのです。会衆の皆さんもこの礼拝において、「何を聞いているかに注意し」て、聴く耳を持って聞くことが求められているのです。主イエスはこのようにわたしたちの注意を喚起して三つ目と四つ目の教えを与えます。

 「あなたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」というこの教えの意味は何でしょうか。わたしたちは一方で、「わたしはまだまだ信仰が未熟でして」としおらしいことを言いながら、その舌の根の乾かないうちに、「どうもあの牧師の説教は陳腐でしかも、浮世離れしていてつまらない」とか、「あの教会の役員は礼拝をよく休むし、聖書の読み方、交読文のリードのしかたが下手で聞くに堪えない。訓練が出来ていない」などと軽々しく、自分の信仰の秤で人の信仰を量る癖があります。しかし、そういう人は必ず神ご自身の大いなる秤できっちり量り返されるときがきます。謙虚に神と人の前に立つ人に対して主イエスの恵みが豊かにはかり与えられ、更にたくさん与えられるのです。ある日、弟子たちが主イエスに、「わたしどもの信仰を増してください」とおねだりしたことがあります。素直に読めば、なんと謙虚な願いだろうかと思います。しかし、主イエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』といっても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:6)と、彼らの不信仰を指摘なさったことがあります。からし種一粒ほどの信仰がありさえすれば、神は更にそれを豊かに増し加えてくださいますが、自分には信仰があると思っても、それは錯覚であって、持っていると思うそのものまでも根こそぎ取り上げられてしまうのです。わたしたちキリストの僕のとるべき姿勢は常に学ぶ者であり、聴き従う者でなければなりません。わたしたちのうちに秤が与えられているとすれば、それは人を量るためにあるのではなく、主ご自身から量り与えられるためのものであるということを忘れず、肝に銘じておかなければなりません。わたしたちは礼拝する者であって、評論家であってはなりません。わたしたちは人をあれこれ評価するためではなく、この目で聖書から主イエスの清きご生涯を読み取り、この耳で主イエスの恵み深い福音を聞き分け、この口で罪の悔い改めと主なる神を讃美するために造られているのです。

祈りましょう。

天の父なる神さま

あなたのお名前をあがめ、心から讃美いたします。

今朝、わたしたちは先週に引き続きその福音の種を受ける場としての礼拝において何を聴いているかによく注意して、またいろいろな生活の場で人を量るためにこの目と耳と口を用いるのではなく、常にへりくだり、その心のうちに、『信仰なき僕をお赦しください』と祈ることの大切さを学びました。新しい一週間が始まりました。主よ、この週もまっすぐにあなたと向き合い、あなたから賜った福音のともし火を隠すことがありませんように、心込めてあなたから受けた救いと恵みを大胆に証する者とならせてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。アーメン。


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