【主日礼拝・メッセージ】                  2003年9月14日                      
「重要な掟」

マタイによる福音書22章34-39節

メッセージ 平山かおり姉

 

 2つの重要な掟に関してお話しさせていただこうと思います。ここでの状況は、旧約聖書の律法を厳格に守ることに一生懸命なファリサイ派のある律法の専門家が、イエス様がメシア(救い主)であることが認められず、イエス様を試そうとして、どの掟が最も重要であるか、と質問をしました。

そこで、イエス様は、最も重要な掟として2つお答えになりました。第一の掟を、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。第2の掟は、第一の掟と同じように重要であるとして、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。このファリサイ派の学者は、イエス様が旧約聖書の中の申命記6章5節、レビ記19章18節を最も大切な掟とお答えになったことに対してどう思ったことでしょう。このマタイによる福音書にはそのあとの記述はありませんが、マルコによる福音書では(12章28節〜34節)、その律法学者は、イエス様が申命記4章35節を引用し、「神は唯一である。ほかに神はない」と伝えたことに同意し、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」と答えたと伝えています。

 さて、第一の掟では、「神様を愛する」ということです。この「愛する」という意味は何でしょうか?ある辞書の定義では、「愛する」という意味を、自分を満足させる何かに対して抱く感情、とありました。なるほど、と思います。人は自分を満足させる物は愛するでしょう。自分を満足させる、つまりそれは、自分の趣味嗜好であるかもしれないし、子ども、家族、恋人、ペットなどなど・・・です。例えば、わたしは、音楽を愛します、旅行が大好きです、焼き肉が何よりも大好物です、などと言うことができます。自分を満足させる、楽しませる対象は、私たちの生活の中にはたくさんあふれています。

私は、以前勤め先において、職員も利用者も一緒になり「自分が生活する上で大事なものベスト3」を皆に発表してもらうということをしてみました。その答えは、映画をみること、おいしいご飯を食べること、ゲーム、電車にのること、友達、家族、家・・・など様々な答えがでました。やはり身近な人や、自分が好きな娯楽を挙げており、それらをどうして好きかを発表するときの皆の表情は、とても活き活きとして私も楽しくなったことがあります。皆、それらによって満足を得、楽しませられているということが分かります。反対に、人は、自分を楽しませないものに対しては、興味関心をもたず、嫌なものであれば否定し、避けることもできます。

 さて、私は、この今日の御言葉を前に考えます。確かに神様は、私たちの全ての必要を満たしてくださると知っており、アーメンと言えます。神様を愛しています。けれど、神様を愛するということは、先程述べた他のものを愛することと同じでしょうか。いいえ、違います。神様が私たちの必要を満たしてくださるから、また、楽しませてくれるから、だから神様を愛しているわけではないのです。なぜならば、必ずしも自分を満足させないことが起こった時は、あっという間に神様が神様でなくなってしまうからです。また、神様以外のどんなものも、明日にはどうなるか分からないし、変化するものであり、不確で、永遠ではないからです。この聖書で言う「愛する」ということは、ギリシャ語では「アガペー」に当たるそうです。「アガペー」の意味は、「神様の私たちに対する愛」という意味です。ローマ人への手紙5章8節に、「しかしわたしたちがまだ罪人であったときキリストがわたしのために死んでくださったことにより神はわたしたちに対する愛(アガペー)を示されました。」とあるように、まず神が、私たちを愛してくださった。自分中心で、過ちを繰り返してしまう罪人であるわたしたちに、神様は、神様の方から、わたしたちが望む、望まないにかかわらず、私たちがどんな罪を犯した、犯さないに関わらず、どんな良い行いをしようが、しまいが、神様は、イエス様を私たちの罪のあがない人としてこの世に送ってくださり、どんな時でも私たちを愛してくだる方なのです。このような神の愛(アガペー)に勝るものはなく、私たちは神様の憐れみをただ受けるものであるのです。私たちは、その神様をどのように愛しますか?自分の状態が良いときも悪いときも愛してくださる神様に対して、この「心を尽くして、精神を尽くして、精神を尽くして神を愛しなさい」という掟にどう答えますか?全知全能の神を「愛しなさい」と言われているのです。この御言葉の前に、わたしなどは神様を愛するなんて自分にはとてもできないと思ってしまい、自分自身の愛をどう神様に表しているの?と、問われる思いです。でも、「愛しなさい」と言われている神様に対して、「はい、愛します」と素直に答えるものでありたいとも思うのです。

 ある人は、救い主としてイエス様を信頼することにおいて神様を愛している、またある人は、他の人に仕事や家庭において自分自身を与えて奉仕すること、イエス様を手紙やメールで人々に伝えること、ある人は、他の人にイエス様の愛を示すこと、教会に献身すること、お祈りをすることであるかもしれません。どれも尊い愛の業ですね。わたしの周りにも、そういった素晴らしいクリスチャンがいることを神様に感謝したいと思います。神様は、その一つ一つの愛の業を知ってくださっているに違いありません。

 第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」です。これもまたすごみのある御言葉です。自分を愛するように、とありますが、みなさんは、自分を愛していますか?今、様々な理由で落ち込んでいたり、自分にほとほと嫌気がさしている方もいらっしゃるかもしません。自分を愛せない時、そんな時はとてもつらいです。神様はいるのかしら?神様にもう見捨てられてしまった・・・、自分なんて・・・などと思い詰めてしまうかもしれません。無理もありません。その人の心の中は、その落ち込む原因になったものでいっぱいになってしまっているのですから。しかし、神様は、愛して止まない私たちの心が落胆や悲しみでいっぱいの時に知らぬ顔をしたり、放っておかれる方ではありません。たとえ、つらく苦しいことが身の上に起こったとしても、神様は何かそのことによりメッセージを送ってくださっているのです。そのことを通して、神様を神様であることをもっと知るようにしてくださっているのです。神様は、私たちが落胆していて主を思えない時でさえ、ずっと傍らに居てくださり、再び主を讃美する日までじっと待っていてくださる方なのです。そして自分を愛せるようにと導いてくださるのです。

「自分を愛するように」、「隣人を愛しなさい」といわれます。ヨハネ13章34節にもあるように、イエス様は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることをみなが知るようになる」と言われました。

 この「愛」は言うまでもなく、神の愛(アガペー)です。神様の愛によってつながっている兄弟姉妹の関係や交わりは確かに強く、その人の信仰を支え、故に、だんだんと、そして根強く伝わって行くのです。また、同じくヨハネによる福音書、13章14節では、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」、と語っています。イエス様が、自ら神様の愛(アガペー)を示してくださったのだから、あなたがたも、つまり私たちも互いに愛し合いなさい、と私たちは促されているのです。

わたしたちが倣うべき、またそうありたいと求めている神様の愛を示した有名な聖書の箇所があります。それを最後にお読みします。

第Iコリント13章4節から。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

これは、わたしたちの罪のために十字架にかかってくださったイエスキリストの姿です。私たちは、イエス様のようには隣人を愛することができないと思うのではなく、神様の本当の愛を知ったとき、また、神の愛の中にいるときに隣人へと促され、神様の愛と自分が受けた恵みを、その自分のおかれたそれぞれの場所において伝えることができるのです。

 


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