【主日礼拝・メッセージ要約】                   2003年9月28日                      
嵐を越えて

マルコによる福音書4章35-41節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 今朝与えられた聖書の物語はいったいわたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。この物語のどこに中心をおいてわたしたちは読み、かつ学べばよいのでしょうか。それは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」という主イエスのお言葉です。このお言葉の意味するところは何でしょうか。主への信頼の欠如に対するお叱りです。命の主キリストがおられるのに彼らの目には風と波しか見えなくなってしまっていました。このお叱りを受け、静まった湖面を見ながら、弟子たちは別の恐れを抱きます。しかしこの恐れはもはや恐怖心からくる恐れではなく、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という驚きからくる神への信仰の告白としての畏れです。彼らは今改めてイエスを神として畏れる心へと導かれたのです。

 皆さんの人生においても突如として襲いかかる嵐のような問題に飲み込まれそうになったことがこれまであったかもしれません。そのときあなたはどのようにその嵐を乗り切ってこられたのでしょうか。苦しい時の神頼みで、「主よ、助けてください」と思わず叫ぶことはあったでしょうが、その問題の波が消えて、再び静かで平穏な生活を取り戻せたとき、あなたはそれを主の恵みのみ業とは考えないで、偶然のなせる業と考え、さらっと忘れてしまうことはなかったでしょうか。

 わたしたちはもっと真摯に主のお叱りに耳を傾けなければなりません。「まだ信じられない」でいる不信仰を悔い改めましょう。恐れる対象を間違ってはならないのです。経験した問題の大きさに対する恐れの回顧はできても、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という驚きを言葉にしたことがあるでしょうか。嵐を恐れるだけで、あなたの祈りに耳を傾けて襲い掛かる嵐のような問題を解決して下さる主ご自身に対する畏れをこそ、あなたは本当に告白しなければなりません。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年9月28日                      

嵐を越えて

マルコによる福音書4章35-41節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは3章9節からガリラヤ湖の西岸で教えておられましたが、夕方になって向こう岸に渡ろうと言い出されました。これまでは耳に聞いていたメッセージを今度は実践するときです。主ご自身はこのときから弟子たちに実践訓練をしようとしておられるのです。この湖の地理的条件を詳しくお話することはしませんが、地形上天候に関係なく突然強い風が湖面に吹き込み、嵐のようになることを漁師上がりのペトロやヨハネたちには分かっていたはずです。しかしお言葉に従って船を漕ぎ出しました。

 今から14年前、当時日本バプテスト大阪教会の中島義和牧師を団長にイスラエル旅行したツアー客の一人がやはりガリラヤ湖を向こう岸に渡ったときの話をしてくれました。湖の真ん中まで来たとき、船のエンジンを止めてそのまま祈祷会を開くことになりました。聖書を読み、祈り、中島牧師のメッセージが始まって間もなく激しい風が吹き込み、波も泡立ち、船は木の葉のように揺れ始めました。牧師であったはずの彼はそのとき「主よ」、とは祈りませんでした。それどころか、「祈祷会なんかやめて早く船を出してよ」と、そればかり考えていたそうです。エンジンのついた大きな船でさえ乗客にそれほどの恐怖心を与えました。

 ましてや2千年も昔のことです。いくら漁師上がりの弟子たちであっても、小さな船の中でその恐怖たるやどれほどのものであったか少しは察しがつきます。船を戻すためか、進めるためか分かりませんが、とにかく沈まないように必死に櫓を漕ぐ者、容赦なく船に入り込む水を少しでもかき出そうとする者、総出で格闘しているその視線の向こうに主の姿がありました。自分たちと一緒に船が沈まないように何かしてくれていると思いましたが、何もしないで艫(とも)を枕に居眠りをしているではありませんか。弟子たちは頭にきたのかどうかわかりませんが、主を揺り起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。それほど恐ろしかったのです。弟子たちは最初突風が吹きつけてきたとき、いつものことと高をくくってこれまでの経験と技術で乗り切れると思ったかもしれません。こういう修羅場を何度もくぐってきたのだからという自負があったのではないでしょうか。しかし生死の境をさまようぎりぎりのところに立たされたとき、そうした高慢な思いは吹き飛んでしまったのです。ここにはこれ以上の言葉は見られませんが、マタイ8:25を見ると、弟子たちはこのとき眠る主を見て頭にきたのでも、腹を立てたのでもありません。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」と救いを求めています。「この嵐を何とかしてください!」そういう必死の叫びを上げたのです。主イエスは直ちに起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、すっかり凪になったとマルコは伝えています。

 聖書は無駄な世間話を一切省いた内容になっています。どの頁にも神のメッセージが取り次がれているのです。それではこの物語はいったいわたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。この物語のどこに中心をおいてわたしたちは読み、かつ学べばよいのでしょうか。それは何と言っても、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」という主イエスのお言葉です。漁師上がりのペトロやヤコブでもこれほどひどい嵐に遭遇したのは初めてだったのかもしれません。怖いと思うのは無理からぬことではないでしょうか。ではこのお言葉の意味するところは何でしょうか。主への信頼の欠如に対するお叱りです。命の主キリストがおられるのに彼らの目には風と波しか見えなくなっていました。死への恐怖に閉じ込められてしまっていたからです。しかし今主イエスからお叱りを受けたことによって弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という驚きからくる畏れ、主イエスを神として畏れる心へと導かれたのです。

 

 皆さんの人生においても突如として襲いかかる嵐のような問題に呑み込まれそうになったことはなかったでしょうか。そのときあなたはどのようにその嵐を乗り切ってこられたのでしょうか。嵐の真只中にあったときは苦しいときの神頼みで、「主よ、助けてください」と叫ぶことはあったでしょうが、神がその叫びに答えて、あなたに襲い掛かっているさまざまな嵐を鎮めてくださったのですが、そうとは知らないあなたはその問題の波が消えて、再び静かで平穏な生活を取り戻せたとき、あなたはそれを主の恵みのみ業とは考えないで、偶然のなせる業と考え、さらっと忘れてしまうことはなかったでしょうか。

 嵐を乗り越える信仰、それはいかなる人生の危機におかれても泰然自若していると言う意味ではないと思います。だれでも嵐は怖いのです。その嵐を前にしてじたばた空しい努力を続けて結局詮方尽き、「主よ、お助けください」と祈る祈りへと導いてくださる方が与えられていることに気づくことではないでしょうか。更に、「なぜ、怖がるのか、まだ信じないのか」と叱ってくださる方が与えられていたことを思い起こし、その問題の只中にあって自分を見捨てずにいてくださる不思議な導きに感動して、「この方はどういう方だろうか」と素直に驚く心が与えられていることではないでしょうか。あなたは突風が吹きつけたような大きな問題に対するあの恐怖を回顧はできても、あなたの祈りに耳を傾けてあなたに襲い掛かる嵐のような問題を解決してくださる主ご自身に対する畏れをもって、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という驚きと感謝を言葉にしたことがあるでしょうか。  祈りましょう。

天の父なる神さま

 人生はガリラヤ湖の上を行く小船のように、不意の嵐に巻き込まれることがあります。そのときわたしたちは必死になってあなたの救いを呼び求めます。しかし問題が解決すると、あなたへの感謝もあなたの不思議なみ業に対する畏れの告白も忘れてしまう全く不信仰な者です。わたしたちは今朝、あなたのお叱りの声を聞きました。「なぜ怖がるのか。まだ信じられないのか」と。あなたに対する信仰の不徹底さを今悔い改めます。あなたこそわたしたちのまことの主であることを畏れをもって告白します。これからの人生も、あなたが共におられることを忘れずに、祈りとさ、感謝を忘れることのないようにわたしたちをお導きください。

わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。

アーメン。


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