【主日礼拝・メッセージ要約】                   2003年10月12日                      
命の尊さ

マルコによる福音書5章1-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは嵐をしずめてガリラヤ湖の対岸に到着しました。そこはゲラサ人の地方です。しかし一行を迎え出た者はたった一人の男でした。その人は何度鎖や足枷(あしかせ)で縛りつけられてもそれらを引きちぎり、また砕いては墓場や山に逃げ込み、大声で叫び、また自分の体を石で打ち叩くというまことに悲惨な生活でした。その人が主イエスの姿を見て走りよってひれ伏しました。主イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と叫ばれたからです。主イエスがわざわざ危険を冒してガリラヤ湖を渡ってこられた謎が今解けました。この不幸な人を救う為です。汚れた霊は「レギオン」と言います。レギオンとはラテン語でローマ軍の一単位=5,000人ほどの数です。厳密には名前ではありません。彼の中に住み着いている汚れた霊の数を指しているのです。これだけの数の汚れた霊が一人の人間の中に入り込んでいたのです。汚れた霊にとってそこはいかにも住み心地のよいものでした。しかし、いと高き神の子イエスのご命令は絶対です。この人から出て行かなければなりません。ついに2,000匹の豚と共に、定められた奈落の底へと落ちて行きました。この瞬間彼は救われました。

 キリストの救いに与るとは、霊的な死から生へと移されることです。なぜなら、「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−あなたがたの救われたのは恵みによるのです− キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(聖書)とある通りです。彼はかつて汚れた霊に魂を売り渡し、その支配を許した時から神に対して死んでいた者でした。しかし、今主イエスが悪霊を追い出して下さったので、彼は罪に死に、キリストの命に甦らされました。こうしてキリストの弟子とされたのです。

 今、あなたの生活は充実していますか。神無く、また望みも無い墓場を棲家(すみか)とする毎日ではありませんか。汚れた霊にあなたの心の王座を明け渡してしまってはいませんか。今すぐに救い主イエスの懐(ふところ)に飛び込んで下さい。

 

 
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【主日礼拝・メッセージ】                     2003年10月12日                      

命の尊さ

マルコによる福音書5章1-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは嵐をしずめてガリラヤ湖の対岸に到着しました。そこはゲラサ人の地方です。しかし一行を迎え出た者は多くの住民ではなく、たった一人の男でした。しかも彼は町中の嫌われ者です。何度か鎖や足枷で縛りつけられてもそれらを引きちぎり、また砕いては墓場や山に逃げ込み、大声で叫び、また自分の体を石で打ち叩くというまことに悲惨な状況にありました。そのような人がどうして主イエスの姿を見て走りよってひれ伏したのでしょうか。主イエスの方から先に、「汚れた霊、この人から出て行け」と叫ばれたからです。主イエスがわざわざ危険を冒してガリラヤ湖をわたってこられた謎が今解けました。この不幸な人を救うためでした。汚れた霊は主の御前にひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでくれ」と言いました。「後生だから」、とは仏教的な訳し方ですが、意味は分かります。言語どおりに訳しますと、「神かけて誓う」となります(口語訳)が、確かに汚れた霊が神に誓うとは分かりにくい表現です。翻訳者の苦労の跡が見えます。でもどうせ意訳するのであれば、もっと思い切って、「お願いだから」と訳した方がその場の緊張した空気を伝えることができたのでは、と素人のわたしなどは無責任に考えています。話を進めましょう。この汚れた霊は「レギオン」と言います。レギオンとはラテン語でローマ軍の一単位を表します。日本的に言うと一師団で、5,000〜6,000人ほどの数です。厳密には名前ではありません。「大勢だから」という説明に見られるように、汚れた霊の数を指しているのです。これだけの数の汚れた霊が一人の人間の中に入り込んでいたのかと考えるだけでぞっとします。汚れた霊にとってそこはいかにも住み心地のよい環境でした。しかし、いと高き神の子イエスのご命令は絶対です。この人から出て行かなければなりません。ついに2,000匹の豚と共に、定められた奈落の底へと落ちて行きました。

 話はここで終わっていません。むしろ14節以後にメッセージが見えてきます。これまで主イエスと弟子たちと汚れた霊に支配された男の人以外に見ることができませんでした。しかしいつの間にか複数の人々が集まっています。豚が大挙してガリラヤ湖に落ちていくのを目撃した飼い主たちの外に、汚れた霊どもが男から豚へと乗り移るさまを目撃した人々。豚飼いたちから聞いて町の人々など、随分多くの人々の姿があります。彼らはかつて墓場を棲家(すみか)としていた人が今は正気になって、しかも誰が着せたのか、服まで身につけて座っているのを見て喜ぶどころか恐怖に駆られています。この恐怖は誰に向けられたものでしょうか。もちろん主イエスに対してです。そこで彼らは主に向かってこの町から出て行ってほしいと申し出ました。これが嵐を越えて訪ねて下さった救い主に対する彼らの答えです。人々は5,000もの汚れた霊が追放され、それによって一人の魂が救われたことを喜ぶよりも、2,000匹の豚が失われたことを悲しんでいます。これが神を知らない人々の価値観です。何を恐れるか、何を嫌悪すべきかを正しく認識できないのです。

 主イエスはゲラサの人々の意向を受けて静かにこの町を出て行かれます。どうして踏みとどまらなかったのでしょうか。どうして福音の土着化のために戦わなかったのでしょうか。戦う必要はなかったのです。主はすでに勝利されたからです。一人の人が救われた、それで十分なのです。

 わたしは今朝示されたメッセージに「命の尊さ」という主題をつけました。この話の流れとどう結びつくのか、訝りながら聞いておられる人が少なくないと思います。そのような人も次の使徒パウロの言葉を引用することでご理解いただけるのではないでしょうか。

 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−あなたがたの救われたのは恵みによるのです− キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ2:1〜6)

 キリストの救いに与るとは、死から生へと移されることです。彼は墓場を棲家としていましたが、それ以前に汚れた霊、すなわち悪霊どもに魂を売り渡し、その支配を許したときから神に対して死んでいた者でした。しかし、今主イエスが彼の許にきて、悪霊を追い出して下さったので、彼は罪に死に、キリストの命に甦らされました。キリストの弟子とされたのです。

 今、あなたの生活は充実していますか。神無く、また望みも無い墓場を棲家とする毎日ではありませんか。汚れた霊にあなたの心の王座を明け渡してしまってはいませんか。今すぐに救い主イエスの懐(ふところ)に飛び込んで下さい。

 

 もう一点見逃せないメッセージが見えてきます。かつて汚れた霊に苦しめられていたこの人が今は救われて、他の弟子たちのように船に乗ろうとしました。しかし主イエスはそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言って帰らせました。これは救われた者に対する主イエスの派遣命令です。彼はもはや以前の彼ではありません。主は彼を生活の場で証人として派遣されました。事実彼はご命令に従い、家に帰ったばかりか、救われた次第を証しする為にデカポリス地方に言い広め、人々の驚きを誘いました。デカポリスは文字通り町の名ですが、実際には10の町(ゲラサ人の町もそのひとつ)を巡り歩いたのです。デカとはギリシャ語で10という意味、ポリスとは町という意味があります。

 ある町に小さな教会がありました。そこに10年間地道に働いた牧師が定年を迎えて辞任することになりました。教会ではささやかな感謝の宴を開き、牧師を送り出しました。しかし牧師自身は忸怩(じくじ)たる思いで教会を去って行きました。在任10年の間にたった1人しか救いに導けなかったからというのがその理由です。しかし牧師を通して主の救いに与った彼は喜びに満たされ、また感謝のうちに文字通り会う人毎に救われた証を続けたので、何人もの人が教会を訪れ、救いに与ったということです。もし、この事実をあの牧師が知ったらどれほど慰められたことでしょうか。

 「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言う主イエスのご命令があなたの耳に聞えているはずです。なぜならあなたもかつては墓場を棲家としていたのです。しかし、今は主の弟子に加えられました。主に従う道はいろいろあります。牧師になってどこかの教会で働くもよし、一信徒として教会にとどまるもよし、しかし忘れないで下さい。デカポリスがあなたを待っているのだということを。  祈りましょう。

 

天の父なる神さまあなたの御名を崇めます。

 「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と使徒パウロは言いました。わたしたちも確かにあの墓場を棲家にしていた人と似た過去を持っている一人です。もし、あなたがわたしたちの許に来て下さらなかったら、あなたの弟子であるクリスチャンを遣わしてくださらなかったら、わたしたちは今なお絶望の淵をさまよう者でした。あの豊かな愛の御心と、伸ばされた救いの御手を感謝します。今、あなたはわたしたちをデカポリスにお遣わしになります。あなたの遣わされるところにお従いする者とならせて下さい。

わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。 

アーメン。


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