【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年10月19日
                      
「力が出て行く」

マルコによる福音書 5章21〜34節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 12年もの間忌まわしい病気に苦しんでいる女性がいます。そんな彼女にも希望の灯が微かにともりました。主イエスの噂を聞いたからです。「主がこの町にやってこられる。あの方なら、きっとわたしのこの病を癒して下さる」と確信しました。人ごみに紛れて列の一番前ににじり寄り、そっと主の衣服に触れたそのとき、彼女は彼女の体の中で出血が治まるのを感じました。同時に主イエスの方でもご自身の内側から力が出て行くのをお感じになられたのです。彼女は再び人ごみにまぎれてその場を去ろうとしました。しかしそのとき背後から、「わたしの服に触れたのは誰か。」という声が聞こえてきました。神の御子イエス・キリストには誰がご自分の服に触れたか、初めから分かっていたはずです。しかし、主イエスはそれでも、見回しておられます。彼女に信仰の告白をする機会を与えるためです。彼女はこれ以上隠し切れないと観念し、震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのまま話しました。とても勇気の要ることだったと思います。しかしそのおかげで、彼女は主イエスから、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という大いなる祝福を受けることができました。

 確かに自分の身の上を公衆の面前で明らかにせよという主イエスのご命令は残酷なようですが、信仰とはこういうことです。神と自分だけの個人的な関係では済まされないのです。神さまだけが知っていて下さったらよいと頑張っている間は信仰の出来事にはならないのです。主イエス・キリストの御許から出て行く力、それはどのような力でしょうか。絶望的な日々の中から命あふれる生活へと復活させる力です。また、受けた恵みを告白する勇気をその人に与える力です。神さまだけにそっと内緒話をするのではなく、みんなの前で証しする。これを教会では信仰告白といいます。自らの信仰を公にするとはこういうことなのです。それによって神さまとの縦のつながりだけでなく、他者との横の交わりの大切さを学び取ることができるのです。信仰は神の救いに与る前提条件ではなく、すでに救われている事実を過去の自分と照らして人々に証しする力を主イエス・キリストから賜ることを言います。

 
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝・メッセージ】                 2003年10月19日                      

「力が出て行く」

マルコによる福音書 5章21〜34節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先ほど読んでいただいた聖書には2人の女性の物語が紹介されています。今朝はその内の一人に焦点を絞って学びたいと思います。

 旧約聖書レビ記15:19〜27には、生理期間中、あるいは生理期間中でないのに何日も出血が続く女性に関する戒めが記されています。それによると、出血が続いている間は無限に汚れているということになるのです。具体的には出血が続く間、人に触れたり、物に触れたりすると、触れられた人も物も汚れたものとなってしまうという規定です。この女性はなんと12年もの間この規定に縛られ続けていたのです。まことに気の毒というほかありません。先週わたしたちは汚れた霊に悩まされていた男の人のことを学びました。あの男の人と今日の主人公の女性に共通するもの、それは二人とも社会から締め出されて生きなければならなかったという点です。自分の肉体と心に襲ってきた苦しみが世間の同情とはならず、かえって迷惑がられているという事実以上に辛いことはありません。

 わたしの子ども時代、肺結核という病気がわが国死亡率のトップを占めていました。小学生のころでした。近くの食べ物を商う店のおかみさんがその病に犯されているという噂を立てられていました。仮にその噂が本当だとしても、ご当人は店先に出て働いているのですから、治っていたのでしょう。しかし、周りの人はそれを信じていません。あの店で買ったら病気が移されるという無責任な言葉が囁かれ、やがてその声は誰の耳にも聞こえるほど大きくなって行きました。そのためにとうとう店は立ち行かなくなり、ご一家の行方も杳としてわからなくなりました。

 この女性も同じ苦しみの日々でした。きっと昔はそれなりに資産家のお嬢さまであったかもしれません。なぜならお金持ちでもなければ26節にあるように「多くの医者にかかる」ことなどできなかったはずです。何とか治してもらいたいとあっちの医者に行き、こっちの医者を尋ねしても、病気は一向によくならず、その内にお金も使い果たしました。すると、世間の目も「気の毒なお嬢さま」から、「気味の悪い女」と変わっていました。気がつくと家も家族も友達も失って独りぼっちの身の上となり、ついには病気であることを隠して巷をさまよう、そんな毎日であったと想像します。どうしてこうまで言い切れるかと申しますと、27節を見てください。彼女が病気を隠していたからこそ群集の中に紛れ込むことができたのです。人に同情を受けたり、求めたりすることのできる病の人は不幸な中にもまだ幸せな部類に入るのかもしれません。この女性はそれさえできなかったのです。まさにトルストイが何かの作品の中で言っているように、「幸せな人はみな一様に幸せだけれど、不幸せな人はさまざまに不幸せ」なのです。

 しかし人知れず12年間苦しみ続けてきた彼女にも希望の灯が微かにともり始めました。主イエスの噂を聞いたからです。「主がこの町にやってこられる。ラッキ− ! あの方なら、きっとわたしのこの病を癒して下さる。」と確信しました。それで人ごみに紛れて列の一番前ににじり寄り、そっと主の衣服に触りました。マルコはただ「イエスの服に触れた」としか書いていませんが、マタイとルカはもう少し詳しく「服の房に触れた」(マタイ9:20、ルカ8:44)と書いています。実はこの房にこそ深い意味があります。民数記15:38〜41をご覧下さい。

「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。」

 以上のように、イスラエルの男子はこの房を服の四隅につけることで自分と自分の民族はかつて奴隷であったエジプトの地から贖い出された者であるという自覚を深める意味があります。同時にそれを見る者も、自分はこのような歴史の民であり、イスラエルの一員であるという喜びと神への感謝を新たにする意味があります。今、彼女はその心の内で、「主よ、あなたはわたしの神、主です。どうぞ、このわたしもイスラエルの一人であることを思い起こし、顧みてください。そしてわたしを神に属する聖なる者と見なし、喜びを回復させてください。」という祈りを込めてこの房に触れたのだと思います。確かに祈りは聞かれました。彼女は彼女の体の中で出血が治まるのをその身に感じました。同時に主イエスの方でもご自身の内側から力が出て行くのをお感じになられたのです。

 彼女は再び人ごみにまぎれてその場を去ろうとしました。しかしそのとき背後から、「わたしの服に触れたのは誰か。」という声が聞こえてきました。ルカによると「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われたということです(8:46)。神の御子イエス・キリストには誰がご自分の服の房に触れたか、初めから分かっていたはずです。しかし、主イエスはそれでも、見回しておられます。彼女に信仰の告白をする機会を与えるためです。彼女はこれ以上隠し切れないと観念しました。震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。とても勇気の要ることだったと思います。しかしそのおかげで、彼女は主イエスから、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という大いなる祝福を受けることができました。

 考えてみてください。これを他人事として読んでいる分には美しい物語だ、と清々しい気持ちになることはできても、もし皆さんがこのような立場に置かれたらどうでしょうか。これ以上恥をかかせないでほしいとは思いませんか。イエスさまが愛の方であるなら、どうしてこのまま見逃して下さらないのですか。わたしはわたしの身に起こったことはあなただけには知られても、ほかの人には知られたくないのです。と言いたくなりませんか。確かに残酷なようですが、信仰とはこういうことなのです。神と自分だけの個人的な関係では済まされないのです。イエスさまだけが知っていて下さったらよいと頑張っている間は信仰の出来事にはならないのです。主イエス・キリストの御許から出て行く力、それはどのような力だったのでしょうか。御許に頼りくる者の問題に解決を与える力です。絶望的な日々の中から命あふれる生活へと復活させる力です。更にもう一つ、その人に一切を告白する勇気を与える力なのです。癒されたとはいえ、かつての傷口を人に知られることはつらいことです。恥ずかしいことです。しかし神さまだけにそっと内緒話をするのではなく、みんなの前で証しする。これを教会では信仰告白といいます。自らの信仰を公にするとはこういうことなのです。それによって神さまとの縦のつながりだけでなく、他者との横の交わりの大切さを学び取ることができるのです。信仰は神の救いに与る前提条件ではなく、すでに救われている事実を過去の自分と照らして人々に証しする力を主イエス・キリストから賜ることを言います。このようにして教会は形成されて行くのです。

 今朝礼拝に来られたあなたの内にもすでに主イエスの救いと恵みの力が注がれています。あなたも主イエスのみ言葉に触れたからです。あなたはすでに救われているのです。信仰をもって応答しましょう。

祈りましょう。

 

天の父なる神さまあなたの御名を崇めます。

 12年もの長い年月苦しみ続けた女性が孤独と絶望の淵にありました。しかし主イエスとの出会いを通して救いに与ることができました。それだけではく、主の促しによって自分の救いの体験を公にしました。きっと彼女を取り巻く群衆の中に、その証を聴いて慰められた人もいたことでしょう。

 今日多くの人が同じような苦しみの中におかれています。どうか、その人々にも主の救いが及ぶように、わたしたちをその人々の所へ遣わし、あなたの不思議なみ救いの力を証しするものとならせて下さい。

わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。 

アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む