【主日礼拝・メッセージ要約】                2003年10月26日                      
なぜ、泣き騒ぐのか

マルコによる福音書 5章35-43節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 皆さんはこの5章全体から何を読み取りましたか? ただの奇跡物語として読みすごすなら、神は少しがっかりされましょう。福音書記者も残念がることでしょう。確かに死は全ての人を例外なく呑み込みます。その意味で、この5章のキーワードは、「もしキリストに出会わなかったら」と言うことができます。どんな人もキリストに出会わなければ死が人生の終着点となり、神の裁きの庭に立つ入り口になってしまうのです。

 聖書に、「兄弟たち、眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(气eサロニケ4:13〜14)とあります。

1 4〜15年昔のことです。Tさんという友人がいました。彼は苦労に苦労を重ねて自動車整備工場を立ち上げました。しかし、長年の無理が少しずつ彼の肉体を蝕み、とうとう肝臓疾患で入院を余儀なくされました。夫人は熱心なクリスチャンでした。彼は夫人の信仰姿勢に敬意を表し、教会生活に協力的でしたが、彼自身は時折教会に顔を出す程度でした。彼が入院したと聞き、大勢の教会関係者が毎日のようにお見舞いに来ては、聖書を読み、讃美を歌い、お祈りをしました。神のなさることは実に不思議です。病が深刻になるにつれて彼の心に神を求める思いが強くなりました。ある朝夫人に彼は言いました。「分かったぞ。母さん、わかったぞ。わしの行くところが分かったよ」と言いました。夫人は「どこへ行けることになったの?」と聞き返すと、「天国だ、イエスさまのところだ」と言うのです。一時帰宅を許された折に、牧師を通して信仰の導きの後、更に一問一答式で信仰の告白を経て、キリスト者とされました。それからしばらくして彼は安らかに主の御許に召されました。彼の肉体はそのまま遺骨となり、教会墓地に葬られました。しかし、キリストにある者は死の事実を前にしてしばしの別れを悲しむとしても、主は愛する者としばし地上の別れを悲しむ人々を慰めて言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。彼は死んだのではない。眠っているのだ」と。そしてキリストにあって眠っている者に向かっては、主が定められたとき、「タリタ・クム、少女よ、起きなさい」と呼びかけてくださるでしょう。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                 2003年10月26日                      

なぜ、泣き騒ぐのか

マルコによる福音書 5章35-43節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 死を目前にした一人の幼い娘がいます。その娘の父親は会堂長です。会堂という名称ですが、元々はヘブル語の「ヘダー」、時には「カーハール」という語が用いられていますが、「スナゴーゲー」と言うギリシャ語に訳され、それが日本語では「会堂」と訳されています。その起源は古く、すでに詩編74:8に「神の会堂」と呼ばれています。恐らくバビロン捕囚中、唯一の神ヤハウェに対する信仰を失わないようにとの目的で建てられました。スナゴーゲーとは「集会」という意味で、安息日ごとの礼拝のほか、日常的には子女たちに律法を教える教育機関として、また時には裁判所としても用いられていました。建築様式としては通常バジリカ風と言って、簡単に言えば今日多くのキリスト教会が受け継いでいる長方形の建物です。発掘された紀元2世紀以降の遺跡ではガリラヤ地方に最も多く見られると言われています。礼拝の流れは大まかに言うと、招詞、祈祷、讃美、聖書朗読、説教、祝祷の順になっています。会堂長というのはこの礼拝プログラムの斡旋、お世話という方が分かりやすいでしょうか。聖書朗読者の選択、説教者の選定と内容のチェック、礼拝式全体の指導、つまり司式をするのですから、とても重要な勤めです。

 ではどのような人が選ばれるかと言いますと、町の長老です。会堂を取り締まり、礼拝式の全てを指導する者は、また地域の尊敬を集めていることが前提条件というわけです。話の本筋に入るのにずいぶんまわり道をしましたが、会堂長とは宗教者としてだけではなく社会的にもそれほど高い評価を得ている人です。名をヤイロというこの会堂長が、こともあろうに、つい最近「先生」としてデビュウしたばかりの元大工のイエスの前に土下座をしました。そして、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と哀願するのでした。もう少し話が横道にそれることをお許しください。この人の名はヘブル語的に発音すると、ヤイルで、「神は輝かせてくださる」という意味です。しかし、ここではギリシャ語的な発音で綴られています。昔からガリラヤ地方にはギリシャ系の住民も多く住んでいましたから、いつとはなしにギリシャ風の呼び方で親しまれていたのかもしれません。このようにギリシャ語風につづった名前で紹介されているところを見ると、ユダヤ人はもちろん、異邦人からも敬慕されていたのではないかと想像できます。会堂長としてこの人以上に適格な人はいません。神を畏れる人は主イエスを神の御子と信じ、受け入れていたと言ってよいでしょう。ただ誰からも好かれるざっくばらんな性格が土下座させたのではなく、主イエス・キリストに対する畏れと信仰が彼をしてその足下にひれ伏させたのではないでしょうか。

 会堂長が本当に町中の人から尊敬されていたことが分かる一こまが38節です。会堂長のお嬢さんが亡くなられたというので、大勢の人々が泣き騒いでいるのです。泣く人と共に泣いてくれる友がいるというのは慰められます。しかしそれ以上に慰められる出来事を彼はその目に見ることができました。主イエス・キリストが涙する人々に、「なぜ、泣き騒いでいるのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と語られたからです。これと似た話が外の福音書にもあります。ラザロという主イエスに愛された弟子がいました。彼は病に冒されてついに死にました。そのとき主イエスは12弟子に、「わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。そして、死後4日になるラザロの墓に行き、彼を甦らせました(ヨハネ11章)。わたしたちの教会でもしばしば死者のことを召天者とか永眠者と言います。これは正しい呼び方です。なぜなら、主にあって眠りについた死者には復活の朝があるからです。ラザロやヤイロの娘の実例で明らかなように、天と地を創造された神を信じて眠りについた者に絶望はないという約束がこめられているのです。だから泣く者と共に泣く愛は尊いのですが、信仰者の死については、望みを持たない人々のように泣き騒ぐこともなくなるのです。使徒パウロも、「兄弟たち、眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(气eサロニケ4:13〜14)と言います。

 皆さんはこれまで5:1〜43を通して何を読み取りましたか? ただの奇跡物語として読みすごしてこられただけだとすれば、神は少しがっかりされるでしょう。福音書記者も残念がることでしょう。ここには三つの福音書物語が紹介されています。墓を棲家としていた人、12年間出血の止まらなかった女性、そしてヤイロの娘、これらの人々はみな、もはや霊的に死んでいたのです。もしキリストに出会わなければ文字通り彼らは絶望のまま死に、そして滅びに向かっていたことでしょう。死は墓場を棲家としている人にも、12年間出血の止まらない女性にも、また敬虔な神の僕を父親に持つ娘であっても例外なく呑み込みます。その意味で、この5章のキーワードは、「もしキリストに出会わなかったら」と言うことができます。どんな人もキリストに出会わなければ死が人生の終着点となり、神の裁きの庭に立つ入り口になってしまうのです。

 

 以前にもお話したことがあるかもしれません。重ねて聞く人には予めお赦しを願っておきます。

 14〜15年も昔のことです。Tさんという友人がいました。彼は苦労に苦労を重ねて自動車整備工場を立ち上げました。しかし、長年の無理が少しずつ彼の肉体を蝕み、とうとう肝臓疾患で入院を余儀なくされました。夫人は熱心なクリスチャンでした。彼は夫人の信仰姿勢に敬意を表し、教会生活に協力的でしたが、彼自身は時折教会に顔を出す程度でした。彼が入院したと聞き、大勢の教会関係者が毎日のようにお見舞いに来ては、聖書を読み、讃美を歌い、お祈りをし、中にはこのときとばかりに伝道説教をして帰る人もいました。神のなさることは実に不思議です。病が深刻になるにつれて彼の中に神を求める思いが強くなりました。ある朝、付き添っている夫人に彼は言いました。「分かったぞ。母さん、わかったぞ。わしの行くところが分かったよ」と言いました。夫人は、「そうよかったね。どこへ行けることになったの?」と聞き返すと、「天国だ、イエスさまのところだ」と答えが返ってきました。それからすぐに牧師から信仰の導きを受け、一時帰宅を許された折に、自宅で牧師との一問一答式で信仰の告白をしました。バプテスマを受ける体力がありませんので、牧師が予め録音したその信仰告白を以って教会員として受け入れました。

 それからしばらくして彼は安らかに主の御許に召されてゆきました。彼の肉体はそのまま遺骨となり、教会墓地に葬られました。しかし、キリストにある者は死の事実を前にしてしばしの別れを悲しむとしても、その向こうに復活の朝が約束されていますから、阿鼻叫喚することはないのです。主は愛する者としばし地上の別れを悲しむ人々を慰めて言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。彼は死んだのではない。眠っているのだ」と。そして主キリストにあって眠っている者に向かっては、主が定められたとき、「タリタ・クム、少女よ、起きなさい」と呼びかけてくださるでしょう。

  祈りましょう。

天の父なる神さまあなたの御名を崇めます。

12年もの長い年月苦しみ続けた女性が孤独と絶望の淵にありました。しかし主イエスとの出会いを通して救いに与ることができました。それだけではく、主の促しによって自分の救いの体験を公にしました。きっと彼女を取り巻く群衆の中に、その証を聴いて慰められた人もいたことでしょう。

今日多くの人が同じような苦しみの中におかれています。どうか、その人々にも主の救いが及ぶように、わたしたちをその人々の所へ遣わし、あなたの不思議なみ救いの力を証しするものとならせて下さい。

わたしたちの救い主イエス・キリストのお名前を通してお願いします。 

アーメン。


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