【主日礼拝・メッセージ要約】                     2003年11月23日                      
不信仰に驚く

マルコによる福音書6章1〜6a節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 次週からクリスマス アドベント(待降節)に入ります。町ではクリスマスを待ちかねてさまざまな飾り付けがなされています。今頃から12月にかけて日本中の人はまるでにわかクリスチャンになったようです。しかし実際はそうでないことはすぐに分かります。12月25日を過ぎると、たちまち正月準備一色になり、家の門ごとに飾られていたクリスマス リースは門松・注連縄へと姿を替えます。しかし、わたしたちキリスト教会はそうではないはずです。クリスマスを迎え、そして祝うこの時期こそ主イエス・キリストとは誰か、クリスマスはなぜめでたい日なのかということを思い起こして心新しくする時であり、人々に語り伝えるときなのです。その意味で今朝与えられたみ言葉は、神の御心を分からせていただくにふさわしいものと言えます。

 主イエスの悲しい御心を思わせる1節をわたしたちは見なければなりません。主イエスは「人々の不信仰に驚かれた」のです。ナザレの町の人々が後ろ向きの気持ちで驚きましたが、主イエスもまた深い悲しみをもって驚きを禁じえませんでした。人々は幼い頃から知っているイエスが教師になっているのを見て妬みに駆られました。ねたみは神との距離を引き離します。聖書はこれを不信仰と言います。彼らの不信仰は主を驚かせ、奇跡のみ業を封印してしまいました。もしわたしたちの心に苦々しい思いや、人をねたむ思いがあれば、わたしたちもこの方を十字架につけてしまっているのです。主は心かたくななナザレの人々に驚き、それ以上の奇跡を控えて十字架への道を一人歩まれました。しかし、その十字架こそ主イエスがわたしたちの為にお示しくださった唯一にして最も大いなる奇跡となりました。人々は主イエスを十字架につけることでその活動を封じようとしましたが、神はその十字架をもって大いなる奇跡を起こしてくださいました。全ての罪びとを贖い、人が自分の罪を認めて悔い改めるならば赦し、受け入れ、御国への入り口としてくださいます。

 わたしたちはクリスマスを待ち望んでいます。イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいます。クリスマスはあなたを愛し、あなたのために救い主をこの世に与えて下さった神に感謝して、この方を讃美する日です。あなたは神に愛されているのです。どうぞ、今こそ救い主イエス・キリストをあなたの心の内にお迎えしてください。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                     2003年11月23日                      

不信仰に驚く

マルコによる福音書6章1〜6a節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 次週からクリスマス アドベント(待降節)に入ります。町ではクリスマスを待ちかねてさまざまな飾り付けがなされています。今頃から12月にかけて日本中の人はまるでにわかクリスチャンになったようです。しかし実際はそうでないことはすぐに分かります。12月25日を過ぎると、たちまち正月準備一色になり、家の門ごとに飾られていたクリスマス リースは門松・注連縄に架け替えられるからです。しかし驚くに及びません。日本のほとんどのクリスチャンもまた似たような切り替えを器用にやってのけます。ローマ・カトリック教会から始まり、プロテスタントへと引き継がれてきた教会暦によると、クリスマス シーズン、つまり降誕節は翌年の1月6日まで続いています。それなのに門松や注連縄こそかけたりはしませんが、12月25日を過ぎると、もうクリスマスは終わってしまったという錯覚に陥るのです。これでは世の中の人と同じで、クリスマスは単に年中行事の一つになってしまうのです。

 しかし、わたしたちキリスト教会はそうではないはずです。クリスマスを迎え、そして祝うこの時期こそ主イエス・キリストとは誰か、クリスマスはなぜめでたい日なのかということを思い起こして心新しくする時であり、人々に語り伝えるときなのです。その意味で今朝与えられたみ言葉は、主イエスの御心を分からせていただくにふさわしいものと言えます。

 実はこの箇所は2年ほど前にマタイ13:53〜58を通してご一緒に学びました。覚えておられるでしょうか。この箇所も大体マタイと同じような書き方になっていますが、特に人々は主イエスの知恵と奇跡を行う力に「驚き」、それ故に「つまずいた」という点が強調されています。ところで、「驚き」の感情にも二通りあります。ひとつは畏敬の念からくる驚きであり、もうひとつは不振の念からくる驚きです。ここでは、「嫌悪の念を抱いた」という意味の「つまずき」(ギリシャ語で、「スカンダロス」と言います。ここから「スキャンダル」という英語が生まれました)という訳語から見られるように、人々の印象としては、不審あるいは不信の念からくる驚きでした。

 ユダヤ人は敬虔な民族です。安息日には町を上げて会堂に集まり、天地創造の神に礼拝をささげていました。その日も人々が会堂に来ると、講壇には主イエスが立っておられます。ここは主イエスが幼少時代お育ちになったナザレという町です。右を見ても左を見ても馴染みのある人ばかりです。そこに集まった人々のほとんどは彼の家族構成も家業も暮らしぶりも何もかも知っているつもりでした。「ついこの間まで自分達の仲間と思っていたイエスが、いつの間にこれだけの教養を身につけ、奇跡を行うほどの人間になったのか。もしかして眉唾?」という嫌悪の感情が人々の心に渦巻くのでした。

 この感情の発露が世に言ういじめの問題を引き起こすのです。学校だけではありません。職場でも近所づきあいの間でも起こりうる問題です。周りから浮き上がった人はバッシングに遭います。「出る杭は打たれる」のたとえです。みんなと違うことをすると睨まれるのです。良いことをしているとか、社会の役に立っているということは問題ではないのです。とにかく面白くないのです。友人が成功して立派な屋敷を建てると、働けどちっとも暮らしが良くならない隣近所の腹が立つのです。ある意味でいじめの根っこにあるものは、「偏見」と「ねたみ」ということができないでしょうか。特にねたみからくるいじめは見ず知らずの人よりも親しい関係の中にこそ生じるものであるということを忘れてはなりません。今日、世界中が互いに不信と憎悪に満ちて争いをやめようとしません。この根っこにあるものも共通する何かがあるのかもしれません。

 ナザレの町の人々が主イエスに対して抱いた感情も親しい間柄と思っていたがゆえの驚きであり、つまずきでした。ローマの総督ピラトはユダヤ人たちが主イエスを訴え出てきたとき、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」と証言しています(マタイ27:18)。地上における主イエスのご生涯は十字架への道でしたが、それは既にこのナザレの町から続いていたということができます。故郷の人々からねたまれ、やがて律法学者や祭司たちからねたまれて十字架にあげられたのです。

 

 主イエスの悲しい御心を思わせる1節をわたしたちは見なければなりません。主は「人々の不信仰に驚かれた」のです。ナザレの町の人々が後ろ向きの気持ちで主の教えに驚きましたが、主イエスもまた深い悲しみをもって驚きを禁じえませんでした。ねたみは神との距離を引き離します。聖書はこれを不信仰と言います。彼らの不信仰は全能の主を驚かせ、奇跡のみ業を封印してしまいました。もしわたしたちの心に苦々しい思いや、人をねたむ思いがあれば、それはわたしたちの手でこの方を十字架につけてしまっているのです。主は心かたくななナザレの人々に驚き、それ以上の奇跡を控えて十字架への道を一人歩まれました。しかし、あの十字架こそ主イエスがわたしたちのためにお示しくださった唯一にして最も大いなる奇跡となりました。人々は主イエスを十字架につけることでその活動を一切封じようとしましたが、神はその十字架をもってすべての罪びとをあがないとり、全ての人が自分の罪を認めて悔い改めるならば赦し、受け入れ、御国への入り口となしてくださいました。

 わたしたちはクリスマスを待ち望んでいます。イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいます。クリスマスとはあなたを愛し、あなたのために救い主をこの世に送り込んでくださった神に感謝して、この方を讃美することです。あなたは神に愛されているのです。だから、神さまの愛を妨げるような頑なな心を引きずっていてはいけないのです。どうぞ、今こそ救い主イエス・キリストをあなたの心のうちにお迎えしてください。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 来週からクリスマス アドベント(待降節)に入ります。毎年この時期になると、何か心浮き立ちますが、同時にもう一方であのナザレの人々のように、主イエスを素直にお迎えできない苦々しい思いがわたしたちの中に起こってもいるのです。家庭でも、学校や職場でも、いや全世界が互いに愛し合うことができない壁を作ってしまいます。そこから悲しい事件が連日発生している事実を見ます。このような世界をごらんになって、あなたはきっと驚き怪しんでおられることでしょう。

 しかしそれでもあなたはこの世界に失望しておられません。今年もあなたは大いなる寛容をもってこの罪深い世界にクリスマスの喜びをもたらしてくださるからです。クリスマスはあなたの愛の具体的な表れです。クリスマスはわたしたちに罪を示し、悔い改めの機会を与えてくださる証だからです。主よ、わたしたちの不信仰をどうかお赦しください。心からあなたの独り子主イエス・キリストを待ち望むへりくだった心、互いに愛し合う心を与えてください。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。


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