キリスト待降節第3週 主日礼拝・メッセージ要約】
―宣教開始42周年記念―                          2003年12月14日                      
道を備える

ルカによる福音書1章57〜66節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝は、この地で伝道を開始して42年の節目を迎える記念すべき日、同時に42回目のクリスマスを祝う喜びの月です。クリスマスは、その準備の時から何か心が浮き立つものです。ここにも心浮き立ちながらイエスさまのお生まれを待ち望んでいる家族があります。ザカリヤ、エリサベト夫婦とその子ヨハネです。

 ザカリヤは天使を通してヨハネ誕生の告知を受けた時、そのメッセージを信じなかった為に、ヨハネが生まれるまで10ヶ月の間、口がきけなくなりました。どんなに苦しい日々であったことでしょう。しかし、この10ヶ月の間に、彼の信仰は徐々に整えられ、思いが清められて行きました。「ヨハネ」とは、「主は憐れみ深い」という意味があります。彼が板の上に「この子の名はヨハネ」と書いたと同時に再び口が開き、舌がほどけて再び話せるようになりました。自由を取り戻したザカリヤまず神を讃美して歌いました。詩編46:10に、「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」と歌われています。

 わたしたちの生き方にはあまりにも力みがありすぎるのです。全てを自分で何とかしなければならないという力みが焦りや苛立ちとなり、ますます事態を悪くしてしまっているのです。力みは他人の言葉が耳に入りません。神のメッセージにさえ、「まさか」とか、「そんなことがあるはずがない」という不信の念を持ってしまうのです。「力を捨てよ」と主は言われます。肩の力を抜けと言って下さいます。「焦って言葉を出そうとしないで静まれ。わたしが神であることを忘れてはならない」と言って下さるのです。力みを捨て、静まり、沈黙して初めてわたしの神がどんな方であるか。また語っておられるみ言葉にどんな意味があるか悟らされるのです。ザカリヤの場合、10ヶ月の沈黙は彼にとって祈りの期間であったはずです。わたしたちに欠けているもの、それは無駄口を捨てて、神との静かな対話のときを持つことなのです。クリスマスを祝いたいという思いは万人に共通しています。しかし、あなたに今必要なのは、ザカリヤのように主の御前に静まって神のメッセージに耳を傾け、聖書に目を注いで悔い改めることであります。心を翻して神に立ち返ることです。

  
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キリスト待降節第3週 主日礼拝・メッセージ】
―宣教開始42周年記念―                          2003年12月14日                      
道を備える

ルカによる福音書1章57〜66節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝はわたしたちにとって記念すべき日です。一つは待ちに待った新会堂での第一回礼拝です。二つ目には1962年12月にこの地で宣教を開始してから今年で42年の節目を迎えます。三つ目にクリスマス アドベント第三週を覚えて、主の晩餐の恵みに与ります。

 今年42年の節目を迎えたこの教会は、つまり42回目のクリスマスを祝うことになります。 クリスマスは文字通り喜びの日ですから、準備をしながら心が浮き立ちます。今読んで頂いた聖書の中にもクリスマスを前にして心浮き立ちながらイエスさまのお生まれを待ち望んでいる家族があります。ザカリヤ・エリサベト夫婦とその子ヨハネです。

 ザカリヤは天使からヨハネ誕生の告知を受けた時、それを信じなかった為に、口が利けなくなりました(20節)。耳も聞こえなくなったようです(62節)。幼子が生まれるまでの十月十日、それは彼にとってどんなに苦しい日々であったことでしょう。しかし、この苦しみは無駄ではありませんでした。約1年の間に彼の信仰は徐々に整えられ、思いが清められて行きました。一度は天使の告げる神のメッセージを信じられないと拒んだ彼ですが、後には悔い改めて、「与えられる子どもをヨハネと命名せよと、神さまから命令されたよ」と妻に伝える努力をしたようです。だから生後8日目に、二人はヨハネという名前にしたいと主張しました。 周囲は驚き、「あなたの家系にはそういう名の人はいませんよ?」と尋ねました。ユダヤ人は家系を尊ぶ民族です。その意味で命名はとても厳粛な時なのです。ザカリヤの場合、自分の家系以外の名前をつけるということは、自分の家から祭司職を放棄することに繋がるのです。ザカリヤは長い沈黙の間に神の取り扱いを受け、神殿中心の間接的な礼拝をささげていた古い祭司制度に終わりを告げ、み言葉を中心とした新しい時代の始まりを学び取ったのです。「ヨハネ」という名前は、「主は憐れみ深い」という意味です。彼が板の上に「この子の名はヨハネ」と書いた瞬間再び口が開き、舌がほどけて再び話せるようになりました。主の憐れみです。自由を取り戻したザカリヤは、神を讃美して歌いました。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」という歌詞(78節)はとても印象的です。彼はあの辛い体験を通して、深い神の憐れみの御心を悟りました。また、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」と歌います(76節)。何というすばらしい讃美歌、何という大いなる信仰の告白でしょうか。長い間待ち望んでやっと与えられた我が子に巡り会えたのです。これが愚かなわたしですと、個人的な喜びと幸福感で有頂天になたかもしれません。ザカリヤの祈りに学ぶところ大です。

 詩編46:10に、「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」と歌われています。 これを以前の口語訳で読むと、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」と訳されています。更に古い文語訳聖書によると、「汝ら静まりて我の神たるを知れ、我はもろもろの国のうちにあがめられ、全地にあがめらるべし」と訳されています。

 わたしたちの生き方には余りにも力みがありすぎるのです。全てを自分で何とかしなければならないという力みが焦りとなり、苛立ちとなり、ますます事態を悪くしてしまうのです。力みは他人の言葉が耳に入りません。神のメッセージにさえ、「まさか」とか、「そんなことがあろうはずがない」という不信の念を持ってしまうのです。「力を捨てよ」と主は言われます。肩の力を抜けと言って下さいます。「焦って言葉を出そうとしないで静まれ。わたしが神であることを忘れてはならない」と言って下さるのです。力みを捨て、静まり、沈黙して初めてわたしたちの神がどのような方であるか。語っておられるみ言葉にどのような意味があるか悟らされるのです。ザカリヤの場合、10ヶ月という時間が必要でした。10ヶ月の沈黙は彼にとって祈りの期間でした。わたしたちに欠けているもの、それは無駄口を捨てて、神との静かな対話のときを持つことなのです。

 クリスマス アドベントとは、静まって、神を待ち望むことです。 「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」とザカリヤは歌いました。イエス・キリストは「いと高き方の子」ですが、ヨハネは「いと高き方の預言者」なのです。この世界は、本当はヨハネを必要としています。いと高き方の預言者が告げるメッセージに耳を傾けることによって、救い主イエス・キリストをお迎えする心の道が備えられ、整えられるのです。著者ルカは預言者ヨハネを紹介して次のように書いています。

 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:4〜6、イザヤ40:3〜5)と。

 心の道を備え、かつ整えなければ救い主をお迎えすることはできません。あなたの心はいろいろなものででこぼこになっていませんか。昔、福岡にいました頃、宣教師の車で教会や伝道所に出かけて行き、伝道のお手伝いをさせて頂いたことがあります。ジョージ・ヘイズという宣教師です。さすがに神学校でキリスト教倫理学を教えるだけあって、人格高潔、まことに温かい人柄の先生でした。その宣教師が道路工事でつぎはぎだらけの道を運転しながらポツリと一言、「日本の道路は道路というよりも道路予定地ですね」と言われたことがあります。車でいたんだ道をきれいに修復したあとを水道工事で掘り返して埋め戻します。その後老朽化したガス管の付け替え工事でまた掘り返して埋め戻します。こうして日本の道路はいつも見事につぎはぎだらけ、パッチワークの道となっているわけです。しかし貧しいのは日本の道路行政ばかりではありません。あなたの人生という心の道路もいろいろなできごとのたびに自分の努力で掘り返し、掘り返ししてつぎはぎだらけ、でこぼこ道になっていないでしょうか。悔い改めの心なしにクリスマスを祝おうとしても、それは空しいことです。クリスマスを祝いたいという思いは万人に共通しています。世はまさに挙げて空しいクリスマスの準備に明け暮れています。しかし、あなたはそのひとりになってはいけません。あなたに今必要なのは、ザカリヤのように主の御前に静まって神のメッセージに耳を傾け、聖書に目を注いで悔い改めることであります。心を翻して神に立ち返ることです。先ず、あなたの心の道をまっすぐに整えて頂ましょう。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇め、讃美します。

 今朝は、近隣の方々と共に新会堂最初の礼拝をささげることができた喜び一杯です。また、わたしたちは教会史上42回目のクリスマス アドベント第三主日礼拝の朝を迎えました。教会員一同厳粛な思いで満たされています。この朝、ザカリヤがそうであったように、わたしたちはヨハネを通して心の道を整えて、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望みます。どうぞ、わたしたちの心を静めてください。

真の神、主の主、王の王、救い主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 


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