元旦礼拝・メッセージ】                      2004年1月1日                      
感謝あるのみ

詩編8編1-10節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 新しい年もこのように、霊的に健やかにされている皆さんと共に迎えることができて本当に嬉しいことです。

 まず1節はこの詩8編全体の表題ということができます。「ギティト」の調べとは実際のところどういう楽器なのか、何調を土台としているのか定かではありませんが、直訳的には「ぶどう搾り」という意味がありますから、収穫の喜びを連想させます。イスラエルではぶどうの収穫期は9〜10月ですが、この時期、人々は喜びに包まれてぶどうを踏み、新年の11月に備えます。ですから、これは天地創造の神への感謝の心を歌った讃美歌ということができます。いったい詩人は何を喜び、何を感謝しているのでしょう。2〜4節以下で詩人は過去を振り返り、感謝の思いを歌います。神が幼子のような自分をそのみ腕に抱き、養って下さったことを感謝しているのです。わたしたちもまた確かに今日まで、ただ神のみ腕に抱かれてきた恵みの事実を思い起こし、感謝の思いが讃美となってほとばしります。

 世の中の人々は神社・仏閣へと初詣をしていますが、わたしたちキリスト者は真の神に見(まみ)えること、天地の創り主を拝み、崇めることこそ一年を始めるにあたって最も肝要なことであります。新しい年のために神は何をわたしたちに求めておられるか、心静かにみ言葉に聴きましょう。先ほども申し上げましたように、多くの人は昨晩からお寺に赴いては、四苦八苦した一年を思い起こして、四九36、八九72、合わせて108つの煩悩を振り払おうと願いつつ、新しい年こそ平和で幸福な一年を過ごせるようにと除夜の鐘を聞き、お雑煮の種火をもらいに行きます。またある人々は山に登り、あるいは海辺に出て初日の出や自然界のものに手を合わせます。しかし詩人はそうではありません。この雄大な大自然を創造なさった方に手を合わせ、この雄大な大自然の中で、いとも小さな存在である人間にさえ御心を留め、顧みてくださる神を喜び、神に手を合わせて感謝し、讃美しないでいられないのです。元旦礼拝は神がわたしたちに何を求めておられるかを知るに最もよい機会です。新鮮な思いでこの大自然を見渡しながら、これらを造られた方を思うこと、天地創造の主にこそまず膝を屈めるべきことが求められているのです。

 詩人の喜び、詩人の感謝はそれに止まりません。中国の偉大な詩人杜甫の残した数多い漢詩の中に、「年年歳歳花相似たり、歳々年々人同じからず」という件があります。大樹は人間の寿命を越えて存在を続け、折にかなって美しい花を咲かせますが、人間は年々老いてゆき、やがて死に至るという詩です。この詩の背景を少しご紹介しましょう。主人公は勇猛果敢な将軍です。国の防衛に務めた老兵が帰国して王の前に拝謁する為に馬を下りようとしましたが、昼は猛暑、夜は極寒という厳しい環境の砂漠の地で、何十年と馬に乗り続けている間に、足はしっかりと鞍に吸い付き、鞍はしっかりと馬の腹にくいついて離れません。もはや、足は足の役目を果たせなくなっていたのです。気概は青年であっても思うに任せない足と白髪頭をなでるとき、失われた青春は二度とかえらずの感を深くする。この詩は老兵のその心情を歌ったものであります。

 詩8編の詩人もまた人とは老いる者、そしてやがて死に行く者、大自然の雄大さに比べてあまりにも小さい者であることを否定しません。事実、5節の「人間は何者なのでしょう」の人間は、「エノーシュ」というヘブル語が使われていて、弱き者とか、死すべき者という意味です。続く「人の子」とはアダムの子で、罪の子という意味です。塵にも虫にも等しい存在であり、はかなく弱いものなのです。長寿を得ても、神は人間の寿命を120年以下(創世記6:3)と定められました。それは何千年、何万年という人類の歴史から見てほんの一瞬の時間です。その人類の歴史でさえ、宇宙の長さに比べれば数えるに足りません。確かに人間は大自然を前にして取るに足りない存在です。しかし、神はこの小さく、かつ愚かな者をも顧み、御心に留めてくださっているのです。ここに言う神の顧みについて、「これは神の訪れという意味である」という人がいます(浅野順一著「詩篇選釈」より)。神は遠くから罪びとであるわたしたちを御心に留め、深く憐れみ、時至ってこの罪に汚れた世界を訪ね、その深い愛を示して下さったのです。神はその愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の上で流された血潮によって罪を清めて下さったばかりか、永遠の命という「栄光と威光の冠」を戴かせてくださいました。

 詩人の讃美は更に続きます。人間のエゴのために破壊されてしまっているこの世界を、再び神の御心に添ったものとする為に、人間を神よりも僅かに劣る者として新生させ、他の被造物全てを治めるために選び、委託して下さいました。 「治める」とはスチュワード(管理人)の語源です。 果たして人類は、この神の選びと委託にふさわしくこの世界を正しく治めているでしょうか。答えはもちろん、「ノー!」と言わざるを得ません。 その逆のことが起こっています。この世界とそこに住む生き物全ては、人間の罪と傲慢のゆえに絶滅の危機に瀕し、環境も破壊の一途を辿っています。

 しかし、まだ手遅れではありません。 主の教会が率先して今一度、羊も牛も野の獣も 空の鳥、海の魚、海路をわたるもの全てを神から託されていることを重く受け止め、悔い改めてわたしたち自身が恵みのよき管理者としてこの世界に警鐘を鳴らし続ける者となりましょう。

 破壊され、」あるいは絶滅の危機に瀕しているのは空気や水、植物や動物だけではありません。わたしたちの隣に住む人々の心も日に日に汚染され、破棄されています。教会の門をくぐる幼子の数が激減しています。以前にも申し上げましたが、もう一度繰り返して申し上げます。サタンは実に正しいことのように見えることの為に、即ち塾や習い事、スポーツの世界に彼らを誘(いざな)い、肝心のみ言葉に聴く機会を、見事に奪ってしまっているのです。新しい年、新しい会堂を託されたわたしたち仙川キリスト教会は、新しい宣教ビジョンに燃えて、まさに失われ行かんとする魂の救いのみ業に、主イエス・キリストと共に働く者として生きる者となりましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

今朝、わたしたちは詩編8編の信仰者の祈りと讃美を通して、過ぎこし方を振り返り、ただ感謝あるのみの一年であったことを思い起こし、ひたすらあなたの御名を讃美するばかりです。

今朝ここに集められた一人ひとりはこの年、どこに向かって、何を目標に生きるべきかを祈り求めてここに参りました。教会もまた2004年度の教会形成のためにビジョンを祈り求めてここにあります。確かにあなたはわたしたちの祈りに答えて導きを与えてくださいました。

わたしたちはこの宇宙の中で真に小さな存在です。しかし詩人の讃美を通して、この世でどれほど小さく貧しい者であっても、それゆえに人々から忘れ去られているような者であっても、またどれほど罪深い者であってもこの天と地とそこに住む全てのものを創造されたあなたの目には覚えられ、御心に留められ、顧みられていたことをもう一度確信させて頂きましたことを心より感謝します。確かにわたしたちはあなたの愛の中に育まれていた一人です。あなたはあなたの独り子をさえ惜しまずこの世に遣わして下さるほどにわたしたちを顧みていて下さいました。わたしたちはその愛によって今あります。わたしたちは御子イエス・キリストの十字架によってこそ救われました。ただ感謝あるのみです。新しい年、どうぞこの教会を、そしてわたしたちをお用い下さい。わたしたちを通してわたしたちの隣人が主の下に導かれますようにと祈るものとしてください。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 


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