主日礼拝・メッセージ要約】                      2004年1月4日                      
ほかに救いはない

使徒言行録4章12節

「ほかのだれによっても、救いは得られません。
わたしたちが救われるべき名は、
天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 水に浮かぶ氷がその約90%を水中に隠しているように、罪とは現れた以上に内面の罪、その人の心こそが問われなければなりません。それは神を否定する心から生み出されます。み言葉に聴こうとしない高慢と自己中心が全ての動機となります。2000年昔、ユダヤ人の頑なさが主イエスを十字架につけたことは事実です。しかし、今もしわたしたちの目の前に主イエスがおられたら、わたしたちもやはりこの方を十字架につけたことでしょう。その意味でわたしたちも同罪です。神は人の罪が主イエスを十字架につけることをよくご存知でしたが、そのことでわたしたちを裁こうとしないばかりか、主イエスを十字架につけることによって、わたしたちではなく、わたしたちを虜にしていた罪そのものを裁いて永遠に滅ぼし、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と叫びました。これほど矛盾したことは世界の歴史始まって以来聞いたことがありません。罪を知らない方を裁きの座(十字架)に据えて、彼を死に至らせることによって、全世界の罪人を救い、その罪を永遠に問わないと約束してくださったのです。

 「救い」とは何でしょうか。一言でいえば、終わりの日に定められている神の審判という危機からの回避、脱出です。神の御子イエス・キリストだけがその危機からの脱出の道をわたしたちの前に開いてくださいました。「イエス・キリスト」、この名だけがわたしたちにとって唯一救いの保証です。わたしたちの前には「救いに至る道」と、「滅びに至る道」があります。第三の道はありません。日本人は中庸の文化を持つ民族です。「ほどほどに」とか、「まあまあ」とか言う言葉で何となくその場の雰囲気を壊さないように、器用に乗り切れる民族です。決して情に棹差すことをしません。しかし神は、「信仰の世界に『まあまあ』とか、『ほどほどに』という生き方はない」と言われます。今、あなたの前には「救いに至る道」と、「滅びに至る道」があります。第三の道はありません。もっと正確に言うなら、これまでのあなたの生き方では、「滅びるに至る道」しかありませんでした。しかし、今朝、あなたがこの礼拝に出席したことにより、そして使徒言行録4:12のみ言葉を読まれた瞬間に、あなたの前にもうひとつの道が開かれたのです。それが「救いにいたる道」です。神がイエス・キリストを通して開いてくださった最高に幸せな道です。あなたはどうでしょうか。あなたも今目の前に開かれた救いに至る道、人生を勝利させてくれる天国への道を一歩踏み出す決心をなさいませんか。あなたの人生にとって今日という2004年1月4日が特別な日となりますように。

  
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 【主日礼拝・メッセージ】                    2004年1月4日                      
ほかに救いはない

使徒言行録4章12節

「ほかのだれによっても、救いは得られません。
わたしたちが救われるべき名は、
天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
メッセージ 高橋淑郎牧師
 

 新しい年の最初の主日礼拝です。この礼拝があなたのこれからの一年を決定するものになるかも知れません。そればかりか、あなたの人生そのものに大きな影響与える時となってくれることを祈ります。

 皆さんのお宅には何冊かの本があり、その中でも特に愛読書と呼べるものがあると思います。しかし、1冊の本を毎日、毎月、毎年、一生の間読まずにおれないほど値打ちのある本は多くはないと思います。わたしが手にしているこの本は聖書です。これこそ世界中で最もすばらしい本です。この本の何がすばらしいのでしょうか。

 ある地方に教会員の家族で県議会の事務局長をしていたNさんがいました。その頃は既に定年退職をしていたのですが、ある会派から事務局長を嘱託されていました。わたしが赴任して間もなく、Nさんのご夫人に招かれてお宅を訪問した時のことです。ちょうどご主人が勤め先から帰ってこられたので、挨拶方々礼拝にお誘いしました。彼は、「はい、参ります」と二つ返事で約束してくれましたが、果たしてその通り次の日曜日から礼拝に来られるようになり、以来一度も礼拝とお祈り会を休むことなく、聖書をむさぼるように読み、瀬戸大橋の袂(たもと)の海岸でバプテスマを受け、キリスト者となりました。教会では朝早くからスリッパを並べて礼拝に来る人を迎え、牧師のメッセージを録音する奉仕をし、ワープロで週報を作ってくれました。職場に案内されて、議場や委員会室、中には入れませんでしたが、知事室の前まで見学させてくれました。最後に自分の執務室に連れて行ってくれました。たくさんの書類が机の上に、しかしきちんと整理して並べられていました。その机の一番目立つところには「聖書」と「讃美歌」、「バプテスト誌」、「聖書教育」、「百万人の福音」というキリスト信仰の助けとなる本や雑誌などが置かれていました。「ここにこれらのものを置いて外の人から何も言われないのですか?」と尋ねますと、彼はニコっと微笑んで、「はい、言われます」と返事が返ってきました。「部下の若い女性からこんなことを言われました。『毎日机の上をお掃除していて気がつきましたが、ほかの本は月毎変わっているのに、聖書だけはいつも同じ場所にあります。まだ読み終わらないのですか?』と尋ねられたことがありましたよ」と言いながらアハハと笑うのでした。そして、「先生も毎日聖書を読んでから教会の仕事を始めるのでしょう? わたしも同じです。聖書を読み、祈ってから仕事を始めるのと、すぐに仕事を始めるのとでは全てに大きな開きがあります。これまでわたしの人生に欠けていたのはこれでした」と答えてくれました。聖書にはそれほど一人の人の人生、そしてその価値観を大きく変える力があるのです。今朝わたしは、この聖書が証言するイエス・キリストの内にあるとてつもない大きな力を皆さんにも経験して頂きたいと思い、ここに立ちました。

 

一、神はあなたを愛される

 先ず、聖書の神は愛の神です。新約聖書の他の箇所に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。異教の神は、恐怖の対象です。残忍な神、危害を加える神、しばしば人間相互に憎しみの感情を抱かせます。しかし、わたしたちの神は愛の神です。異教徒は絶えず、自分たちの神を恐怖します。しかし、わたしたちは神を愛します。確かにわの神も裁きの神であり、力の神であり、畏れあがめることを求める神ですが、それは愛に根ざした裁きであり、力を表す神であることを見落としてはなりません。神はわたしたちの罪を愛することができません。しかし、罪人を愛してくださいます。もし、あなたの家族か恋人が重い病に伏しているとして、あなたはその病そのものを愛することはできないでしょう。しかしあなたは病に苦しむその人を前にしたとき、どうにかして癒してあげられないものかと共に苦しむことでしょう。その人を愛しているからです。ましてやその人が意識不明の重態に陥っているならなおのことです。

 わたしたちの神はそれ以上にわたしたちを愛してくださいます。わたしたちの罪がわたしたち自身の良心を麻痺させて、もはや罪の自覚がなっているのを見て、すなわち霊的意識不明の重態に陥っているのを見て、その御心を痛めておられるのです。このままでは滅びるばかりのわたしたちを神は見捨てることができないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とはそういう意味です。神が罪深いこの世を何とか救いたいとその御心を痛めながら、最後の手段として独り子イエス・キリストをこの世に与えてくださった。これがクリスマスの本当の意味です。

 使徒言行録4章に話を戻しましょう。わたしたちの罪がイエス・キリストを十字架につけたとペトロは10節で言います。驚くべきことですが、わたしたちは神の独り子をも十字架の上に殺してしまったのです。わたしたちが罪というとき、そこには決定的な誤解があります。わたしたちにとって罪とは結果として表面に見える事柄を考えます。しかし、水に浮かぶ氷がその約90%近くを水中に隠しているように、罪とは結果として現れた以上に内面の罪、その人の心こそ問われなければなりません。それは神を否定する心から生み出されます。神のみ言葉に聴こうとしない高慢と自己中心が全ての動機となります。この神否定、み言葉否定に罪の源があるのです。2000年の昔、ユダヤ人の頑なさが主イエスを十字架につけたことは事実です。しかし、今もしわたしたちの目の前に主イエスがおられたら、わたしたちもきっと主イエスを十字架につけたことでしょう。わたしたちの目にも主イエスは邪魔な存在として映るからです。その意味で、今日ただいまこの世にあるわたしたちも同罪なのです。

 

二、神はあなたの救い主

 しかし、それでも聖書は言います。「ほかの誰によっても救いはない」と。神はわたしたちの罪がその独り子イエス・キリストを十字架につけることをよくご存知でした。それにもかかわらず、神はわたしたちを裁こうとしないばかりか、主イエスを十字架につけることによって、わたしたちではなく、わたしたちを虜にしていた罪そのものを裁き、永遠に滅ぼしてしまわれました。そして、十字架の上でこう叫ばれたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と。こんな矛盾したことは世界の歴史始まって以来聞いたことがありません。罪を知らない方を裁きの座(十字架)に据えて、彼を死に至らせることによって、全世界の罪人を救い、その罪を永遠に問わないと約束してくださったのです。

 「救い」とは何でしょうか。一言でいえば、終わりの日に定められている神の審判という危機からの回避、脱出です。神の御子イエス・キリストだけがその危機からの脱出の道をわたしたちの前に開いてくださいました。それゆえ、わたしたちの前には「救いに至る道」と、「滅びに至る道」があります。第三の道はありません。日本人は中庸の文化を持つ民族です。「ほどほどに」とか、「まあまあ」とか言う言葉で何となくその場の雰囲気を壊さないように、器用に乗り切れる民族です。決して情に棹差すことをしません。それがこの世を円満に渡り歩く知恵と心得ているのです。しかし、神は、「信仰の世界に『まあまあ』とか、『ほどほどに』という生き方はない」と言われます。もう一度言います。今、あなたの前には「救いに至る道」と、「滅びに至る道」があります。第三の道はありません。もっと正確に言うなら、これまでのあなたの生き方では、「滅びるに至る道」しかありませんでした。しかし、今朝、あなたがこの礼拝に出席したことにより、そして使徒言行録4:12のみ言葉を読まれた瞬間に、あなたの前にもうひとつの道が開かれたのです。それが「救いにいたる道」です。神がイエス・キリストを通して開いてくださった最高に幸せな道です。「イエス・キリスト」、この名だけがわたしたちにとって唯一救いの保証となりました。イエス・キリストは姓と名ではありません。「イエス(主は救い)はキリスト(王)」という意味です。イエス・キリストが十字架に上げられてくださったことにより、わたしの罪は全て拭い去られたのです。

 

 最初にご紹介しましたN兄弟は、人生半ばにこの道を見出したことにより、その後の家庭人としての生き方、社会人としての生き方が180度変えられました。その後彼の肉体は糖尿病という病のために60代後半に地上の生を終えました。しかし、彼は喜びと平安のうちに永遠の命を与えられ、勝利のうちに天に召されました。あなたはどうでしょうか。あなたも今目の前に開かれた救いに至る道、人生を勝利させてくれる天国への道を一歩踏み出す決心をなさいませんか。あなたの人生にとって今日という2004年1月4日が特別な日となりますように。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名をあがめ、心から讃美します。

 今朝わたしたちは、「イエス・キリストのほかに救いはない」とのみ言葉を頂きました。ありがとうございます。2004年1月4日、今年最初の記念すべき主日礼拝にふさわしいみ言葉です。誰もが混沌としたこの世の中で確かな救いを求めてさまよい続けています。しかし、どこにそれを見出し、誰に聞けば救いが得られるのか分かりません。

 今朝わたしたちは知りました。あなたがこの世に与えて下さったイエス・キリスト、十字架に贖いの業を成し遂げてくださったイエスさまの御許に行くことによって救われるのだということを。心が不安なのも、家庭の中がうまく行かないのも、世の中の人たちとの関係が円滑でないのもこれまで全てはあの人のせい、この人が悪いからだと思っていましたが、そうではなく、わたし自身に問題があることが分かりました。先ずわたしの中にこびりついてる罪の性質、あなたに反抗するわたし自身の罪のためであったことが分かりました。あなたはこんなに罪深いわたしのためにあなたの大切な独り子イエスさまを遣わして、わたしの罪を解決してくださいました。罪の解決なしに救いはないこと、イエスさまの元に身を寄せる以外に魂の平安のないことを今朝教えてくださいました。心より感謝します。今、わたしはあなたこそわたしの個人的な救い主であることを告白します。どうか、罪びとのわたしをお赦しください。そして受け入れてください。

あの独り子、イエスさまのお名前によってお願い致します。アーメン。

 


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