【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年1月18日

 

世に死に、神に生きる

マルコによる福音書6章14-29節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 イエス・キリストの出現が、 「バプテスマのヨハネの生き返りではないか」という噂となり、ヘロデ王は信じて怯えます。 というのもヘロデは自分の兄弟であるガリラヤの領主  フィリポの妻ヘロデヤに惹かれて恋仲になり、ついにフィリポから奪い取ったことで、ヨハネに咎められた為に彼を処刑してしまったからです。 これは神の律法に違反する大罪です(レビ記18:16、20:21)。ヘロデ王は日頃、バプテスマのヨハネから聖書の教えを受けていた一人です。ヨハネを尊敬し、腰が引けながらもヨハネの教えに喜んで耳を傾けていたのです。しかし、この結婚に難色を示すヨハネの存在は何と言っても目障りです。とりわけ、ヘロデヤは夫を棄て、ヘロデの許に嫁いで来たのですから、居心地が悪かったのかもしれません。それでヨハネを恨み、殺意を抱いていました。「ところが、良い機会が訪れ」ました。彼女は夫の権力と娘の舞を利用して、ついに念願を果たしました。 しかしヘロデの心は、その日を境に平安でなくなりました。 師と仰ぐべき人をその手にかけたのですから、当然のことです。もっと不幸なことに、もう誰も真心から忠告してくれる人がいなくなってしまったことです。彼の残りの人生は絶望に近いものがありました。 だが絶望ではありません。「ヨハネの生き返りでは?」、などという風説に惑わされないで、 救い主イエス・キリストの下に駆け寄るべきでした。 主は彼の罪の為にも十字架の道を歩んで下さるのです。しかし残念ことに彼は自らその機会を放棄してしまったのです。

 あなたはいかがでしょうか。あなたの日々は本当に平安でしょうか。心のどこかに苦(にが)い罪の思い出がよみがえってきませんか。あなたは今絶望の淵に立たされていませんか。 しかし、 まだ絶望することはありません。あなたは今日、聖書を通して不幸な道をたどるヘロデとあなた自身が重なっていることを発見できたはずです。 そのあなたのために、主イエス・キリストがあなたに近づいて下さっています。主イエス・キリストだけが十字架の上であなたの罪を、あなたに代わって解決して下さったのです。この事実を今信じて主イエス・キリストの懐に飛び込んで下さい。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                           2004年1月18日

 

世に死に、神に生きる

マルコによる福音書6章14-29節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先ほど読んで頂いた聖書には、 ヘロデ王によって殉教してゆくバプテスマのヨハネのことが書かれています。 この事件を通して幾つかのことを学ぶことができます。

 先ず、14節に「イエスの名が知れ渡ったので」とあります。わたしたちはこれまでマルコによる福音書を読みながら、 主イエスの歩みを跡付けてきました。 汚れた霊につかれた人や重い皮膚病の人、脳溢血か何かで歩行困難になった人と、その人を担いで天井から吊り下ろした4人の人々、また徴税人や手の萎えた人など、実に様々な人と出会って下さいました。主はいつも一人ひとりに愛と恵みと、深い憐れみの心をもって関わりながら彼らを癒し、汚れた霊や、「受けることを当然」と考える甘えから解放して、神と隣人に仕える道と神の国に入る道を語り、彼らの心にその備えをさせて下さいました。 こうした名も無き人々との関わりが、いつしか多くの人に知られるようになり、 ついには時の権力者の耳にさえ届きました。宮廷内では主イエスのことをいろいろに噂し合っています。 この記事はマタイによる福音書14:1〜12とルカによる福音書9:7〜9にも見られます。 それは福音書記者たちが、この世の王と御国の王の対象的な姿をわたしたち読者に、 是非とも伝えずにおれなかったからです。それが今日学ぶべき大切な点なのです。

 主イエス・キリストの出現を、 「王が殺したバプテスマのヨハネの亡霊か生き返りではないか?」と噂する声が日増しに大きくなるにつれて、ヘロデ王はそれを信じて怯えます。 というのもヘロデは自分の兄弟であるガリラヤの領主フィリポの妻、ヘロデヤに惹かれて恋仲になり、ついにフィリポから奪い取ってしまいました。今で言う不倫です。これは神の律法に違反する大罪です。 今の時代の人なら、「男が女を好きになったからといって、それがどうして罪なのか。自分の好きになった相手がたまたま結婚していただけではないか」というかもしれません。これを、聖書も聖書の神も知らない人が言うのであれば、裁きの日に受ける罰がまだ軽いかもしれません。 旧約聖書に、「兄弟の妻を犯してはならない。 兄弟を辱めることになる」とあり、また、「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めた」(レビ記18:16、20:21)と明記されています。 ヘロデ王は日頃バプテスマのヨハネから聖書の教えを受けていた一人です。 多分ヨハネはいつでも王宮を出入りする自由が与えられていたのでしょう。そうでなければ、一介の預言者が国王の罪を直接諫めることはできなかったと思います。ヘロデもまたヨハネを尊敬し、腰が引けながらもヨハネの語る神の教えに、喜んで耳を傾けていたのです。 しかし、自分達の結婚に難色を示すヨハネの存在はなんと言っても目障りです。とりわけ、ヘロデヤは夫を棄て、ヘロデの許に嫁いで来たのですから、どことなく居心地が悪かったのかもしれません。それでヨハネを恨み、殺意を抱いていました。「ところが、良い機会が訪れ」(21節)ました。彼女は夫の権力と娘の舞を利用してついに念願を果たしました。

 しかしその日を境に、ヘロデの心には少しの平安もありません。個人的にも師と仰ぐべき人をその手にかけたのですから、当然のことです。 絶対的権力者、地位も名誉も財産も、何一つ不自由はなく、国民の生き死にさえ、自分の一言で決定する権力の頂点にある王です。しかし、今では夜も昼も心休まる日はなくなってしまいました。もっと不幸なことに、もう誰も、彼を真心から忠告してくれる人がいなくなってしまったことです。もはや彼の残りの人生は絶望に近いものがありました。 だが絶望ではありません。まだ望みがあります。彼の耳に、主イエス・キリストの噂が上ってきたのです。 主イエスによって解放される道が残されていました。「ヨハネの生き返りでは?」 などという風説に惑わされないで、今すぐに救い主イエス・キリストの下に駆け寄るべきでした。主イエスは彼の罪のためにも十字架への道を歩んで下さるのですから。 ああ、しかし残念ことに彼は自らその機会を放棄してしまったのです。

 あなたはいかがでしょうか。あなたの日々は、本当に平安でしょうか。心のどこかに、苦い罪の思い出がよみがえってきませんか。 何を見ても、それがあなたの心を暗くするものに結びつくものになっていませんか。 あなたは今絶望の淵に立たされているかもしれません。しかし、まだ絶望することはありません。あなたの耳に主イエス・キリストの噂が入ってきているはずです。噂どころか、今すでに聖書を開き、 不幸な道をたどるヘロデとあなた自身が重なっていることを発見できたはずです。 そのあなたのために、主イエス・キリストがあなたに近づいて下さっています。 主イエス・キリストだけが十字架の上であなたの罪を、あなたに代わって解決して下さったのです。 この事実を今信じて主イエス・キリストの懐に飛び込んでください。

 もう一つの視点からも学ぶことができます。 それは神の僕、バプテスマのヨハネの生き方です。 ヨハネの生き方を損得で考えるなら、この世的には損な生き方でした。 人は、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」(マタイ5:39) という主イエスの教えをあざ笑い、このような生き方は負け犬の生き方だと言います。本当にそうでしょうか。 あなたがもしこのみ言葉を実践してみると分かりますが、 これほど勇気を必要とする生き方はありません。ヨハネはこのみ言葉を実践した模範者です。 ヘロデ王が何をしようと、見てみぬ振りして、聖書の中の奇麗事だけを教えて付き合っておれば、それなりの地位と名誉、財産さえも保証されたでしょう。 しかし彼にはそのような生き方はできませんでした。 大胆に王の罪を指摘しました。その結果彼は右の頬を打たれました。投獄されたのです。 それでも20節から想像できるように、なおもヘロデとヘロデヤに対して、「み言葉に従い、神を畏れて結婚の解消をしなさい」と教え続けたので、左の頬を打たれました。首を切り落とされてしまったのです。彼の生き方は負け犬だったのでしょうか。決してそうではありません。 たとえこの世的には報われない生涯と、その終わりであっても、神の御前には覚えられていました。 多くの人は、この地上に住むほんのひと時の安心を得るために永遠の神を見失ってしまいます。 ヘロデに代表される生き方は、地上のことにあまりにも執着しすぎたことです。真の平安は地上には見出せません。聖書に、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、 世の悲しみは死をもたらします」(コリント7:10)とあります。 ここに言う「死をもたらす」とは、肉体の死ではなく、魂が神から切り離されて永遠に滅びるという意味の死です。

 主イエスは、「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(ルカ16:11)と言われました。この世は確かに汚れています。この世の富もまた不正にまみれています。しかし、主は、「その不正にまみれたものを、天国のために忠実に用いよ」と言われます。ヨハネの人生は罪の世に死んで、永遠の神に生きるというものでした。ヨハネこそこの世の不正にまみれた富を軽んじることなく、天国のためにそれを用いて生き、そして天国へと招きいれられた預言者でした。

 皆さんは、「大きな古時計」という歌をご存知だと思います。しかし、これを作詞・作曲したヘンリー・C・ワークという人についてご存知でしょうか。詳しくお話ししている時間はありませんが、彼は13歳のとき、ニューヨークのプリスマ教会でイエス・キリストを信じ、52年の生涯を終えるまで、 信仰に生き続けた人です。この教会には讃美歌作者でもあるヘンリー・W・ビーチャーという牧師がいました。 ビーチャー牧師は「アンクル・トムの小屋」の作者ストー夫人の弟です。 ワークはビーチャー牧師の影響の下で、44歳のときにこの歌を作りました。 日本語の歌の中では語呂が良いように、この時計はおじいさんと共に、100年間動き続けたことになっていますが、原曲は90年です。おじいさんが90歳で死に、この時計も90年の活動を、 その時やめてしまったという歌です。悲しい歌ですが、この歌を作ったときのワーク自身も悲しい物語を秘めていました。それから7年後召される前年に、「銀のラッパ」(シルバー・ホーン)という歌を作りました。この歌もまた、悲しい物語を秘めています。彼の妻が精神科の病院で息を引き取った年です。 「銀のラッパ」は、戦場で息を引き取ろうとしている兵士が最後の気力を振り絞って吹き始めたその時、奇跡が起こってラッパは鳴り響き続けるのです。 あの「大きな古時計」もこの「銀のラッパ」も人間と運命を共にするのですが、しかし彼自身はそこに、「生きている魂」(a living soul)を感じ取っているのです。人間と運命を共にしてくれる存在をワークは信じていました。 イエス・キリストをそこに歌っています。悲しい背景の中から生まれた二つの詩ですが、「讃美歌・唱歌物語」(2)の著者大塚野百合さんは、 「これはワークの信仰の証の歌、『隠れ讃美歌』だ」と解説しています。ワークもまた罪の世に死んで、永遠の神に生きた預言者の一人であったと言えるのです。

 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

今日もあなたのみ言葉を感謝します。

 固く閉ざされた城門、蟻の入る隙もない厳重な警備にもかかわらず、 主イエス・キリストの噂は、ヘロデの枕辺にまで届きました。 神の愛の届かぬところはないことを実感します。 バプテスマのヨハネもまた、神さまから遣わされた預言者として彼のそば近くにあって、彼を天の御国に導こうとしました。しかし、この世の富と権力に心奪われたヘロデは自らその機会を放棄し、そして滅びを刈り取りました。

 わたしたちは今、救いを拒んだこの不幸な人々をみ言葉から学びました。あなたはわたしたちに、同じ道を歩むことのないようにと、敢て聖書の中にこの悲しい事件を記録させておられます。確かにこのように世は人も物も不正にまみれています。 けれどもあなたは、この不正にまみれたこの世に御国への門として教会を建て上げてくださいました。 わたしたちはこの教会にあって、十字架に罪のあがないを成し遂げてくださった主イエス・キリストに従い、またヨハネの献身に学び、人々の救いの為に奉仕するものとならせてください。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 


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