【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年1月25日

 飼い主のいない羊

マルコによる福音書6章30-44節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。主イエスの目に、この群集は羊と映りました。羊は飼い主を必要とします。 しかし、この群集には彼らを庇護するはずの羊飼い(指導者)が見えないのです。指導者がいないわけではありません。国王や政治家、軍隊、祭司、律法学者、長老がいます。しかし、彼らはみな搾取と抑圧をもってこの羊を押さえつけるばかりです。 ですから、彼らにとって羊飼いはいないも同然なのです。羊飼いのいない羊はどういうことになるでしょうか。 めいめい好き勝手なところに散りぢりばらばらになります。聖書に、「幻がなければ民は堕落する」(箴言29:18)と書かれています。  正しい指導を与える者がいないと民もまたわがままになります。自分勝手な生き方をするようになります。罪を犯すのです。だから主イエスは、そのような群衆の有様を見て深く憐れまれずにおれませんでした。 「憐れむ」の語源は、内臓を揺り動かされるという意味から来ています。例えば自分の子どもが高い熱でうなされているとき、親の胸は締め付けられます。主イエスはこの飼う者のない羊のような群集を見てご自分の胸が締め付けられました。それで、先ず命の言葉をもって彼らの魂の飢えを満たして下さいました。人はパンだけでは生きていけません。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることができるのです(マタイによる福音書4:4)。

 次に、たった五つのパンと二匹の魚が裂き分けられたとありますが、どうして5千人以上の胃袋を満たすことができたのか、不思議です。分かりません。神のなさることはいつも不思議です。しかし、よく考えてみると、聖書はその初めから神の奇蹟の証言集なのです。神は全くの無からこの天と地を創造されました。神にとって不可能はないのです。わたしたちはただ、神のみ業を単純に、素直に信じることです。そうすれば、あなたも真の羊飼いであり、 救い主であるイエス・キリストの憐れみの中に置かれていることを知ることができるのです。あなたも今、イエス・キリストをあなたの人生を導く羊飼いと信じ、この方に従う決心をしましょう。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                            2004年1月25日

 飼い主のいない羊

マルコによる福音書6章30-44節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 わたしは数年前にも、今読んで頂いた聖書の箇所に並行するマタイによる福音書14:13〜21からメッセージを取次いだことがあります。覚えておられると思います。あの時は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたみ言葉に焦点を絞って学びました。今日は、主の眼差しを受けた人々に心を寄せながら、み言葉に聴いてゆきたいと思います。

一、主の眼差しは12弟子に

まず、主の眼差しはその愛する弟子たちに向けられています。彼らは、伝道実習から帰ってきて主イエスに報告しました。注意していただきたいのですが、彼らはここで改めて「使徒」と呼ばれています。3:14に説明されている「使徒」の務めの重要性をわたしたち読者に今一度思い出させる為かもしれません。そこには、「(イエスは)そこで、12人を任命し、使徒と名づけられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と書かれています。彼らは主イエスのそばで、常に「主の僕」として仕え、同時に福音の「全権大使」として世に遣わされるという尊い使命を担っているのです。彼らは今派遣先から帰ってきましたが、その使命の重さと旅の困難さに疲れきっていたのでしょう。主イエスは彼らの労をねぎらい、「人里離れた所へ行け」としばしの休息を促します。「人里離れた所」と訳されていますが、そこはいったいどういう所なのでしょうか。ほかの訳の聖書には、「寂しい所」とあり、もとの聖書でも「荒れ野」とあります。疲れた体と心を休ませる場所として、主イエスは彼らを「人里離れた荒れ野」へと導かれたのです。聖書に見る「荒れ野」には特別の意味があります。そこは見るところ殺風景で何もないようですが、実に豊かなものを与えてくれる所だと言います。神に聴く術を知っている人なら、誰でも憧れる所なのです。主イエスはしばしばこの人里離れた所で時を過ごされました。天の父なる神との交わりを頂くのにこれほど適当な場所はないのです。弟子たちには今休息が必要です。その休息を得る場として、天の父との交わり以上に霊と心とからだを休ませてくれるところをほかに見ることはできないということを、今体験させようとしておられるのです。

 この魂の休み場は全てのキリスト者に必要です。わたしたちは土曜日の夜、遅くまで自分のことに振り回されながら起きていることをやめましょう。むしろ、祈りの中で一週間の出来事の全て、殊にこの世に仕えた奉仕の旅路の全てを主イエスに報告しましょう。そうすれば、必ずや主イエスからねぎらいのみ声が聞こえてくるはずです。「さあ、あなたがただけで、人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。そうです。主イエスは、あなたの疲れた霊と心とからだの状況をご存知なのです。だから、あなたもそのみ声に従って、賑やかな所で時間をつぶしたり、音の洪水の中でショッピングを楽しむのではなく、この人里離れた所、礼拝堂に導かれて、主のねぎらいの眼差しに出会ってください。

 しかし、折角の主のご配慮もにもかかわらず、弟子たちはつきまとう群集に遮られて休息はおろか、食する暇もありません。福音書はこの事実を淡々と書き進めていますが、わたしがもしひとりの弟子としてこの現場に居合わせたらどうするだろうかと考えました。「イエスさまは、休めと言って下さったのに、これでは休みにならない」と、少なくとも心の内に不満を感じたのではないか。そしてこの群衆を避けて、別の場所に行こうと言われるのを期待したのでないかと思うのです。けれども、弟子たちからそのような愚痴は聞こえてきません。わたしはこの弟子たちの姿と今日のキリスト者(教会のメンバー)の姿が二重写しに重なって見えるのです。今日のキリスト者もまた主の促しを受けて、「人里離れた所」に導かれて礼拝に来ました。ところが実際はこの12弟子と同じように、目一杯奉仕のために、とても休める状況にはないのです。受付奉仕があります。献金奉仕があります。奏楽の奉仕があります。司式奉仕があります。礼拝が終わると、ファミリー分級の当番が回ってきます。会堂掃除もしなければなりません。主から託されたパンと魚を配るように、執事会があり、聖歌隊例会があり、会堂建築委員会があり、CSリーダー会があります。忙しい、忙しいと言いながらいろいろな奉仕で主の日があっという間に過ぎて行きます。これでは何のために礼拝に行ったのやらと、相変わらず疲れたからだを引きずりながら家路に着くのが現実です。しかし、あの12弟子がそのことについて一言の愚痴をこぼしてはいないように、今日のキリスト者もこのことで愚痴をこぼす人はいません。なぜでしょう。弟子たちも今日のキリスト者も、先ず主のみ言葉による養いを受け、魂の休息を得ているからです。主の眼差しを受けている者に疲れはないのです。

 

二、主の眼差しは飼い主のない羊に

 弟子たちの疲れをねぎらう主の眼差しは群集の一人ひとりにも向けられています。34節を見てください。「イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。主イエスの目に、この群集は羊と映りました。羊はいつの頃から人間に飼われるようになったのか分かりませんが、羊は飼い主を必要としています。餌場、水辺を自分で探し求めることができません。羊飼いに導かれなければ飢え死にするか、渇きのためにもがき苦しまなければなりません。獰猛(どうもう)な獣に立ち向かう武器もありませんから、羊飼いに守って貰うほかないのです。羊はひたすら羊飼いの庇護(ひご)のもとで何とか生き延びることができるのです。

 しかし、今この群集には彼らを庇護するはずの羊飼いならぬ指導者が見えないのです。指導者はいないわけではありません。国王がいます。政治家がいます。国民を守るはずの軍隊があります。神殿には祭司がいます。会堂には律法学者や教師がいます。町や村には長老と呼ばれる人々もいます。しかし、これら指導者達は誰も彼もこの群集の飢えを満たしてはくれません。渇きを潤す一服の清涼剤ほどの希望を伴う言葉もかけてはくれません。それどころか、彼らはみな搾取と抑圧をもってこの羊たちを押さえつけるばかりです。このような指導者たちの状況では、彼らにとって羊飼いはいないも同然なのです。

 羊飼いのいない羊はどういうことになるでしょうか。羊はめいめい好き勝手なところに散りじりばらばらになります。聖書に、「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである」(箴言29:18)と書かれています。正しい指導を与える者がいないと民もまた上に倣ってわがままになるのです。嘘をつきます。盗みを働くようになります。人を平気で傷つけます。このように飼う者のない羊のような大衆は自分勝手な生き方をするようになるのです。罪を犯すのです。更に聖書の別の箇所には、「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」(イザヤ書53:6)と書かれています。わたしたちが本当に自由で幸せな人生を送るためには、わたしたちを導いてくださる真の羊飼いである主イエス・キリストが必要なのです。この方を無視しては飢え渇いて死んでしまいます。だから主イエスは、そのような群衆の有様を見て深く憐れまれずにおれませんでした。すでにみなさんもご存知のとおり、「憐れむ」の語源は、内臓を揺り動かされるという意味から来ています。例えば自分の子どもが高い熱でうなされているとき、親の胸は締め付けられます。主はこの飼う者のない羊のような群集を見てご自分の胸が締め付けられる思いになりました。それで、先ずいろいろと教え始めて豊かな命の言葉をもって彼らの魂の飢えを満たして下さいました。人はパンだけでは生きていけません。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることができるのです(マタイによる福音書4:4)。神のみ言葉がどうして人を生かす力となるのかというと、神のみ言葉には十字架が語られているからです。いろいろな教えの中で、このようなことを教えたのではないでしょうか。宛てもなくさまよう羊のような人々をを守るために、真の羊飼いであるキリストはご自分の命を差し出してわたしたちを死と滅びから救い出してくださいました。それが、五つのパンと二匹の魚を裂き与えるということの中に秘められているのです。主は彼らを青草の上に座らせて50人、100人のグループ毎に座らせて、天を仰ぎ、讃美の祈りを唱えてパンと魚を裂き与えました。これは主の晩餐の教えとは直接結びつきませんが、しかし、主イエスは確かにこのパンを裂くように、十字架の上にご自分のからだを裂き、わたしたちの罪を贖いとって下さいました。それによってわたしたちは神に立ち返る道を見出すことができたのです。いろいろな教えの中で、このようなことを教えたのではないでしょうか。この真理を悟らせるために、群集が飢えているのを知っていましたが、感謝の祈りを抜きにして食べることを主は赦されませんでした。だから、キリスト者が教会でも家庭でも先ず、食前の感謝の祈りをささげてから食べるのは、この主の姿に倣うからです。

 次に、たった五つのパンと二匹の魚が裂き分けられたとありますが、どうして5千人以上の胃袋を満たすことができたのか、どう考えても不思議です。分かりません。神のなさることはいつも不思議です。理解できません。だからといって、理解できないことを無理に合理的に解釈しないほうがよいでしょう。主イエス・キリストは水をぶどう酒に変えることのできる方です。また主は紅海の水を分けてイスラエルの人々を乾いた地を行くようにして渡らせてくださいました。もっとさかのぼれば、神は全くの無からこの天と地を創造されました。よくみると、聖書はその初めから神の奇蹟の証言集です。神は全くの無からこの天と地を創造されました。神にとって不可能はないのです。五つのパンと二匹の魚の奇蹟を信じられないのであれば、天地創造の神のみ業を到底信じることができないでしょう。しかし、それはあまりに不幸です。わたしたちはただ、神のみ業を単純に、素直に信じることです。そうすれば、あなたも真の羊飼いであり、 救い主であるイエス・キリストの憐れみの中に置かれていることを知ることができるのです。あなたも今、イエス・キリストをあなたの人生を導く羊飼いと信じ、この方に従う決心をしましょう。

 祈ります。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 この世には多くの迷える羊がいます。真の指導者がいないからです。真の指導者を知らない人生は実に悲劇です。罪を罪とも知らず、汚れを汚れとも知らず、おのおの自分の道に向かって空しい日々を送っています。しかし、あなたは今朝、そのような私たちの人生を深く憐れみ、豊かな命を注いでくださいました。これからはあなたを頼りにし、あなただけがわたしの魂の羊飼いであると信じて従います。主よ、どうかわたしをあなたの弟子の一人に加えてください。あなたのみ言葉を携えて、まだあなたを知らないでいる人々のもとにお遣わしください。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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