【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年2月1日

 大切なもの

マルコによる福音書7章1-23節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 世の終わりの日、神は最後の審判を下すと聖書は預言しています。では、その時一番に裁きの座に呼ばれるのはキリスト教会の指導者達です。次に、それ以外のクリスチャンです。「神の家から裁きが始まるときです」(ペトロの手紙一4:17)と聖書に書いてあるとおりです。

 ファリサイ派の人々は何かというと、「洗わない手で食事をすることは汚れている」と言いますが、いったい清いとか、汚れているとは何を基準に、そして誰が決めることができるのでしょうか。主イエスの教えは明快です。仮に洗わない手で何かを食べても、それはその人自身の健康状態にかかわるだけの問題です。しかし、人が人を本当に汚してしまうのは、むしろ、心の中から出てくるものです。主イエスが指摘なさったように、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などです。罪の出発点は人の心です。この世に自分の心をいつも清く保つことのできる人はひとりもいません。人はみな罪びとだからです。神を信じる人は、立派な人格者になろうというところから生まれてはきません。神を信じるとは、神の清さを知れば知るほど、自分の罪深さ、汚れを自覚させられるところから生まれるのです。信じるとは自分の何もかも知っておられる方に自分を明け渡すことです。神だけがあなたの罪の性質を本当に知っておられるのです。神だけがそんなあなたを本当に愛しておられるのです。終わりの日、誰一人神に裁かれ、罰せられ、滅びることのないように、そのことを一番願っておられるのは、他ならない神ご自身であったことをあなたはご存知でしたか。

 聖書によると、だから神はその独り子イエス・キリストをこの世に遣わされました。汚れた世界の縮図はあなたの心です。神の愛を求めるなら、心の中にイエス・キリストを受け入れることです。これまであなたは清い生活に憧れながら、いつの間にか神にも人にも嫌われる者になっていたかもしれません。それはあなたがこれまで自己中心に生きてこられたからです。でも、これからはあなた自身の頑張りや努力ではなく、「神さま、罪深いわたしを憐れみ、イエス・キリストによって救ってください」と祈ることです。これを聖書では、「悔い改める」と言います。今、イエス・キリストをあなたの救い主と信じる決心をしてください。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                           2004年2月1日

 大切なもの

マルコによる福音書7章1-23節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 わたしたちは、マルコによる福音書の2〜3章でファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスに向かって安息日問題について、論争をしかけた記事を読みました。 7章は3度目の論争の記事ですが、このたびの問題は食事の前に手を洗う、洗わないということのようです。 「なんだ、それならわたしの家では、毎日のように親子の間で言い合っていますよ」というご両親がいらっしゃるかもしれませんが、 ことはそう単純な問題ではないのです。 ファリサイ派の人たちが言うには、これは重大な罪だというのです。「昔の人の言い伝え」というのは、ただ、先人が作り出した生活上の知恵というような、のどかな習慣ではありません。これは彼らだけでなく、全てのユダヤ人が従うべき律法に匹敵する重大な約束事なのです。今、わたしは「律法」という言葉を使いました。これは聖書にしか出てこない名詞で、一般には馴染みの薄い名詞と思います。律法というのは、旧約聖書の最初に編集されている「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」という五つの書物のことを言い、ユダヤ人はこれを「モーセ五書」とか、 或いは「律法の書」と呼んでいるもので、ユダヤ人にとっては聖書の中の聖書です。しかし、実際にこの五つの書に書かれている戒めを忠実に守ろうとすると、具体的な生活上の問題で、不便さを感じることもあったようです。 それを補うために、律法学者と呼ばれる人々がその時代に即し、ケース バイ ケースで指導を与えていました。そして、この教えが次第に定着して行くと、モーセ五書と同じ権威を持つようになって行きました。 そこから文字として書かれたモーセ五書を「成分律法」、律法学者によって口伝(くちづて)に教えられた伝統的な戒めを「口伝律法」と呼ぶようになっていったのです。今、ファリサイ派の人たちや律法学者たちが問題にしているのは、主イエスの弟子たちが食事の前に念入りに手を洗うことを定めている、この「昔の人の言い伝え」という口伝律法に抵触しているということなのです。そもそもユダヤ人の指導者である「ファリサイ派」というのは、ヘブル語の呼び名で、「分離する」という意味から来ています。何から分離するのかと言いますと、一切の汚れから身も心も守り、清められた者として神に仕えるということです。 たとえば市場に出かけます。そこでは買い物客も、そこで市を出している商売人も、種々雑多なところから来ています。 そういう所では律法が汚れていると定めた人やものに無意識で触れることがあります。 クリスチャンはしませんが、仏教の習慣では家に入る前に、「お清めの塩」をからだに振りかけてもらう光景を良く見かけますが、ユダヤ人は家に入る前に、門口に置いてある水がめから水をかけてもらいながら、丁寧に時間をかけて手も足も洗うのです。それを怠るか、忘れて食卓につくということは神を冒涜することであって、まことにけしからんというのです。 現に、主の弟子たちは手を洗わないで食卓についている、確かにそれはそうなのです。ファリサイ派の議論だけを聞いていると、ある部分に限って言えば、確かに正論です。反論の余地はないのです。しかし、それは「木を見て森を見ず」の例えの通り、最も大切な「書かれた聖書」、すなわち「成文律法」のどこに抵触しているのかというところの検証が抜け落ちていることに、彼らは気がついていないのです。それどころか、肝心の聖書がどこかに追いやられて、昔の人の言い伝えだけが一人歩きして、人々に間違った教えを与えていることを彼らは忘れているのです。

 そこで、主イエスはこれを機会に、正しい聖書理解とその実践の仕方を教えます。先ず、主は旧約聖書の中ほどに編集されている預言書の一つイザヤ書29:13(新共同訳聖書 p.1105)を引用しておられるので、わたしたちもそこのところを開いて読んでみましょう。

「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。 彼らがわたしを畏れ敬うとしてもそれは人間の戒めを覚えこんだからだ』」

 皆さん、主イエスがファリサイ派の人々を教えるにあたって、どうして、わざわざイザヤ書から引用されたかお分かりでしょうか。この預言書は実にイエスさまの時代をさかのぼること、おおよそ600年も前に預言者イザヤが手ずから書き遺したものです。つまり、「あなたがたは何かと言えば、『昔の人の言い伝え』と、金科玉条のように振りかざすが、すでに600年もの昔からイザヤを初めとする預言者たちによって、あなたがたの言う昔の人が、既に誤った口伝律法の用い方をしていたために、叱責を受けていたではないか」と、指摘しておられるのです。彼らはつまるところ、神の戒めである聖書に反するような口伝律法を固く守っているのですから、これほど危険なことはありません。こういう口伝律法はない方が良いのです。

 世の終わりの日、神は最後の審判を下すと聖書は預言しています。では、この世の中で最初に、そしてもっとも厳しい裁きを下される人は誰だと思いますか。ヒットラーのように凶悪な独裁者だと思いますか。もちろん彼らも相当厳しい裁きを受けるでしょう。マニフェスト、マニフェストと呪文のように唱えるばかりで、ちっとも公約を果たそうとしない愚かな政治家でしょうか。彼らもそのままであれば、それなりの裁きを受けることでしょう。暴利を貪る悪徳商人でしょうか。殺人者でしょうか。窃盗犯罪者でしょうか。性的犯罪者でしょうか。どれもこれもそのままで一生を終わればただではすまない人々です。しかし聖書は言います。最後の審判の日、神に最も厳しく罰せられる人はキリスト教会の牧師なのです。カトリック教会で言えば法王であり、枢機卿であり、司教であり、司祭であり、神父です。その次に厳しく罰せられるのは、それ以外のクリスチャンです。「今こそ、神の家から裁きが始まるときです」(ペトロの手紙一4:17)と聖書に書いてあるとおりです。神は神に期待された者に対して最も多くの果実を求めるのです。キリスト教会の牧師が、法王や教会の指導者達がみ言葉を正しく読み取り、それを正しく取り次がなければ、この世は誰を、そして何を目標として生きてゆけばよいのでしょうか。クリスチャンがクリスチャンの名にふさわしくこの世で生活をしないならば、この世の人々はどうして神を畏れる思いに導かれるでしょうか。だから、聖なることを知る者が最も厳しい裁きを覚悟しなければならないのです。クリスチャンになるとはそういうことです。牧師であるということはそういうことなのです。自分の足りなさを棚に上げて人を攻撃する牧師やクリスチャンがいるならば、それはこの世ではごまかせても、神の御前には失格者のレッテルを貼られることでしょう。

 次にファリサイ派の人々は何かというと、「それは汚れている」と言いますが、いったい清いとか、汚れているとは何を基準に、そして誰が決めることができるのでしょうか。たとえば、「両親を敬いなさい」という聖書の教えがあります。ところが彼らはこれに口伝律法というもので味付けをして、いかにも敬虔ぶったことを口にして、結局は親をないがしろにしているという結果を招いているわけです。このように、口で立派ないことを言いながら、結局聖書そのものから遠く離れた愛の伴わない冷たい教えをしているわけです。

 これに対して主イエスの教えは明快です。仮に洗わない手で何かを食べても、それはその人自身の健康状態にかかわるだけの問題です。しかし、人が人を本当に汚してしまうのは、むしろ、心の中から出てくるものなのです。悪い思いは悪い言葉を発し、悪い行動へと走らせてしまいます。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などです。これら一つ一つについて説明する必要はないでしょう。罪の出発点はわたし一人一人の心です。この世に自分の心をいつも安定した状態にコントロールできる人はひとりもいません。人はみな罪びとだからです。神を信じる人とは、立派な人格者になろうというところから生まれてはきません。神を信じるとは、神の清さを知れば知るほど、自分の罪深さ、汚れをいよいよ自覚させられるところから生まれるのです。信じるとは自分の何もかも知っておられる方に自分を明け渡すことを言います。

 神だけがあなたの罪の性質を本当に知っておられるのです。神だけがそんなあなたを本当に愛しておられるのです。終わりの日、誰一人神に裁かれ、罰せられ、滅びることのないように、そのことを一番願っておられるのは、他ならない神ご自身であったことをあなたはご存知でしたか。聖書によると、だから神はその独り子をこの世に遣わされました。神の独り子とは誰でしょう。イエス・キリスト、このお方です。イエス・キリストはこの罪深く、汚れた世界に来られました。誰でも自分の心が清くありたいと願うものです。あなたもそう願うことでしょう。もし、あなたが本気でそう願うなら、何も難しいことを神はあなたに求めません。罪あるまま、汚れたままの心をありのままに告白して、あなたがたのその心の中にイエス・キリストを受け入れることです。これを聖書では、「悔い改める」と言います。これまであなたは清い生活に憧れながら、いつの間にか神にも人にも嫌われる者になっていたかもしれません。それはあなたがこれまで自己中心に生きてこられたからです。でも、これからはあなた自身の頑張りや努力ではなく、「か、罪深いわたしを憐れみ、イエス・キリストによって導いてください」と祈ることです。そして今、イエス・キリストをあなたの救い主と信じる決心をしてください。 あなたのために祈ります。

 

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 今朝もあなたのみ言葉を感謝します。あなたから来るもの、それはいつも愛です。慈しみです。わたしたちはみ言葉を真剣に聴きとり、そして素直に聴き従っているとき、そこには平和があります。わたしたちは毎週このようにみ言葉を通してあなたからのメッセージを受けているにもかかわらず、しかしいつも目の前のことに追われて忙しくしていうる内に、事柄や物だけでなく、人間関係においても、自分と周りの人にとって本当に大切なものが何であるかを見失います。み言葉ではなく、人間の言い伝えや自分の経験を優先させては、知らず知らず人を裁いてしまいます。主よ、わたしたちにあなたをこそ畏れることを教えてください。主よ、わたしたちにいつも人を自分よりも優れた者とみなす謙虚さを持たせてください。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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