【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年2月22日

 荒野でパンを裂く

マルコによる福音書8章1-10節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスが群衆に教えておられた場所は「人里離れた所」です。果たしてどんな環境でしょうか。旧約聖書には少なくとも5種類のヘブル語で表されています。少量でも雨が降り、オアシスのある所、文字通りの乾燥地帯で、山犬、駝鳥、禿たか等が棲息する所、人間が住むには困難な所など様々です。確かに主が5千人を養われた所には「草」(6:39)が生えていましたが、ここは「地面」(8:6)とありますから、草も見当たりません。しかし、昔の人はこういう所にも平気で足を踏み入れました。敬虔な神の人はこういう場所に人々を誘(いざな)ってひたすら神の道を説きました(マルコによる福音書1:3)。巷(ちまた)には人々のぬくもりはあるし、少なくとも腹に詰め込む物は何とか手に入れることができます。しかし、そのような所に長くいると、金や物、人間関係のことで頭が一杯になり、魂がやせ衰えてゆきます。心そのものが荒廃していくのを彼らは感じるのでした。だから、金も地位も名誉も何の役にも立たない所、自力で生きていくことを許さない所、見るところ頼れるものを何一つ見出すことのできない「人里離れた所」に彼らは出て行きました。そういう環境に立たされて人は初めて天を仰ぎ、この世界をお造りになった神の臨在を思うことができます。そこでこそ、初めて神のみ言葉が霊に響き、心を潤してくれることを実感できるのでした。主はこの「人里離れた所」、「荒野」でみ言葉を与え、飢えた群衆の為にパンを裂きました。彼らは主が裂いて下さったパンで養いを受けることができました。

 あなたは再び巷に戻ろうとしています。そこは見える豊かさ、安心とは裏腹に心が荒廃している人々で満ちています。確かにキリストの教会は、巷と比べて何もありません。まさに「人里離れた所」、「荒野」です。しかし、あなたはここでなければできない経験をしています。ここ以外に受けられないものを主イエスから受けておられます。この教会で礼拝をささげ、霊の糧を受けることが許されているのです。主の教会以外あなたを豊かにしてくれる所は他にないのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                        2004年2月22日

 荒野でパンを裂く

マルコによる福音書8章1-10節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 耳が聞こえず、舌がもつれた人は、「エッファタ、開け」といわれた主イエス・キリストの言葉によって癒されました。周囲に主への感謝と讃美歌の声が溢れました。気がつくといつの間にか大勢の人々が群れを成して集まってきていました。その数何とおおよそ4千人です。先週は聖書巻末の地図を見ながらお話を聴いて頂きましたが、今日読む箇所もほぼ同じところと考えてよいと思います。ここは人里離れた所、聖書によっては「荒野」と訳されているような場所で、群衆はイエスの語られる教えを一心に聴いている内に、3日も経っていました。丸々3日の間何も食べていなかったのか、少しずつなくなり、とうとう何もなくなってしまったのか分かりませんが、主は、「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」と深い憐れみの御心をお示しになりました。このように、主の奇蹟はその愛と憐れみの御心から出ていることが分かります。主イエスはこのように霊的な必要を満たすだけでなく、また病の癒しを成し遂げるだけでなく、食物のことにまで心を配っていて下さいます。主は前もって全ての必要をご存知であり、備えて下さるお方です。聖書に、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:33〜34)とある通りです。ですから、わたしたちも使徒パウロやペトロが言うように、「どんなことでも、思い煩うのはやめ」(フィリピの信徒への手紙4:6)て、「思い煩いは、何もかも神にお任せし」(ペトロの手紙一5:7)ましょう。神がわたしたちのことを心にかけていてくださるのですから。

 このように主イエスが深い憐れみの心をもって先立って下さっているにもかかわらず、弟子たちの目には現実が重くのしかかり、「ない袖は振れません」と答えるしかないのです。そこで主は、「パンは幾つあるか」とお尋ねになりました。幸いなことにパンが7つ、小魚を少し持っている人を見つけて、そのままを主に報告すると、主はそれを用いて6章のときと同じように、群衆を地面に座らせて感謝と讃美の祈りを唱え、パンと小魚を裂いて群衆に分け与えると、不思議なことに全員が満腹して、残りのパン屑を集めると7籠になったということです。5千人以上もの人を養うのに5つのパンで足りたのであれば、今回4千人を養うためには計算上4つで足りるのではないか。それに前にはパン屑が12籠余ったのであれば、今回はどうして7籠ぽっちなのか、となかなか鋭い質問をした人がいました。確かにその通りかもしれません。しかし、こうは考えられないでしょうか。仮にパンが2つ、いやたった1つしかなかったとしても、持てるもの全てを差し出したなら、同じように神の奇蹟を見ることができたことでしょう。ある書物に、「神の奇蹟は、人がなしうる最上、最善を尽くしたときに現れる」とありましたが、その通りではないでしょうか。また余ったパンくずの比較ですが、新約聖書が書かれたギリシャ語によると、12の籠は手に持てるくらいの大きさの籠、7つの籠は背中に背負わなければ持ち運びできそうにない大きな籠と区別して書かれているので、一概にどちらが多い、少ないと比較することは難しいです。それにこのみ言葉を学ぶ上でそのような比較にどんな意味があるのでしょうか。要は、与えられたものを粗末に棄てるようなことをしてはならないという教えとしてここを学ぶべきではないでしょうか。

 もうひとつ、この第二のパンの奇蹟物語を事実あったこととして読む必要はないという人もあります。「これは5千人を養われた出来事が伝えられているうちに、二つの出来事として誤って伝えられていったものであろう」と。或いはもっと極端な解釈をする人がいて、「もともとこの二つの奇蹟物語そのものがフィクションであった」と言います。この論法に従うならば、マリアの処女降誕も、イエス・キリストの復活の出来事も全て弟子たちの作り話ということになってしまいます。理解し難いことを全て否定するという聖書の読み方は危険です。もし、神の言葉ではなく、偽りの言葉であるなら、これはもう聖書と呼べません。それでは聖書の著者は嘘の宣伝をしていることになり、これを信じて読むわたしたち以上に神の厳しい裁きを受けることでしょう。しかし、事実、聖書には、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは彼の証が真実であることを知っている。」(ヨハネによる福音書21:24)という一節があります。聖書は事実ないことをあったように書くなどというようなことは決してありません。聖書は証しの記録です。聖書は神がなされた愛の御業をつぶさに書き表している証言集だということができるのです。聖書に書かれている一つ一つの言葉を素朴に信じて読むことは神の祝福に与る唯一の道です。

 話が横道にそれてしまいましたが、主イエスが群衆に教えておられた場所は「人里離れた所」です(ギリシャ語:エレーミア、「荒野」。エレーモス、「寂しい所」)。果たしてどのような環境なのでしょうか。日本語に訳されている「人里離れた所」、「荒野」は、旧約聖書が書かれたヘブル語によると、少なく共5種類の単語で表されています(ミドゥバール:獣の吼える荒れ地、イェシモーン:乾燥した砂漠地帯、ハラーバー:乾燥して辺鄙な平野、平地、ツィヤー エレツ:水のない渇ききった土地、トゥフー:空しいところ)。少量ですが、雨が降り、オアシスのある所から、文字通りの乾燥地帯で野生のロバ、山犬、駝鳥、はげたかなどが棲息するようなところ、人間が住むには困難なところまでいろいろです。実際、主イエスが5千人以上の人々を養われたところには「草」(6:39)が生えていたようですが、ここは「地面」(8:6)とありますから、草も見当たらない所であったようです。しかし、2千年も昔の人はこういう所にも平気で足を踏み入れたようです。イエスだけではありません。敬虔な神の人はこういう場所に人々を誘(いざな)ってひたすら神の道を説きました(マルコによる福音書1:3)。巷(ちまた)には人々のぬくもりはあるし、そこでは少なくとも腹に詰め込むものは何とか手に入れることはできます。しかし、人のぬくもりの中に長くいると、金や物、人間関係のことで頭が一杯になり、魂がやせ衰えるのだということをこの時代の人々は知っていました。実に、巷に安住することの中で心そのものが荒廃していくのを彼らは感じるのでした。だから、金も地位も名誉も何の役にも立たないところ、自力で生きていくことを許さないところ、目に見るところ頼れるものを何一つ見出すことのできない「人里離れた所」に出て行きました。見る所何もない環境に立たされて人は初めて天を仰ぎ、この世界をお造りになった神の臨在を思うことができるのです。そこにあってこそ、初めて神のみ言葉が霊に響き、心を潤してくれることを実感できるのでした。主イエス・キリストはこの「人里離れた所」、「荒野」でみ言葉を与え、飢えた群衆の為にパンを裂きました。あの4千人は主が裂いてくださったパンで養いを受けることができました。

 あなたは間もなくこの会堂での礼拝を終えて物質豊かな環境、人々とのぬくもりに触れ合うことのできる巷に遣わされようとしています。そこは見える豊かさ、安心とは裏腹に心が荒廃している人々で満ちています。あなたはこれからそういう所に遣わされるのです。しかし、あなたはそのような所へ独りで出て行こうとしないで下さい。確かに主イエス・キリストの教会は、巷に比べるまでもなく、何もありません。この世に抗する力もないように見えます。まさに「人里離れた所」、「荒野」のようです。しかし、あなたはここでなければできない経験をしておられます。このところでないと受けられないものを主イエス・キリストから受けておられます。この「人里離れた所」、「荒野」にも等しい主イエス・キリストの教会で、礼拝をささげ、霊の糧を受けることが許されているのです。このところで主が裂いて下さったパンを受けておられるのです。主の教会ほどあなたを豊かにしてくれる所は他にないのです。

 その昔、モーセは同胞の救いの為に安穏に暮らしていた土地を離れてエジプトに遣わされました。そこには奴隷とされた何十万もの同胞が来る日も来る日も空しく、そして厳しい労役に虐げられています。主はモーセに言われました。「同胞の救いのために立ち上がり、エジプトに降って行け、わたしは必ずあなたと共にいる。」(出エジプト記3:12)

 あなたも今、受けるべきものを受けました。そして、今巷で孤独に苦しむ同胞の救いのためにここから遣わされて行くのです。しかし、あなたはもはや独りではありません。あなたとあなたが出会う全ての人を養ってくださる主イエス・キリストが共におられるからです。 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

今朝もまたあなたの貴いみ言葉を感謝します。あなたは人々を雑踏から離れた荒野に導き、ユダヤ人に対しても異邦人に対しても傍らに仕える弟子たちを用いて、人々にとって本当に必要とするものを分け与えてくださいました。今日もまた多くの人が物に囲まれた生活環境の中で何が自分にとって本当に大切なことか分からないでいます。しかし、あなたは、まずわたしたちをこの人里離れた所に導き、なくてならない命のみ言葉をもって養ってくださいます。かつてガリラヤ湖の荒野でパンを裂き、感謝の祈りと讃美を唱えて人々に分け与えて飢えた者を十分に満腹させて下さった主は、今またこのところで礼拝と主の晩餐へと導き、み言葉を与え、パンを裂き与えてくださいます。そして今、わたしたちはここから再び喧騒の巷に遣わされようとしています。わたしたちと共にいてくださっている主よ、どうか、新しい一巡りの週の旅路にあってもわたしたちと共にいてください。わたしたちもまたあなたから離れ去ることがないようにわたしたちをとらえていて下さい。そしてわたしたちの奉仕によって、霊も心も荒れすさんでいる人々に、豊かな命と希望のメッセージを語り伝える者として下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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