【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年3月7日

 何か見えるか

マルコによる福音書8章22-26節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 人々が目の見えないひとりの人を主イエスの御許(みもと)に連れてきて、「触れていただきたい」と願い出ました。そこで主は、彼を村外れに連れ出します。目の見えない人に先立ち、 ご自分の肩か肘かを貸して連れ立って村はずれへと歩く二人の姿は何と麗しい光景でしょうか。この目の見えない人のように、わたしたちもまた主の御手にひかれながら先行き不透明なこの世を歩めることは、何と嬉しいこと、もったいないこと、そして安全なことかと思い、感謝のほかありません。

 こうして村外れまで来ると、主イエスは彼の目に唾(つば)をつけ、両手をその上に置いて、「何か見えるか」と言われました。彼は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。はっきりしないがおぼろげに見えますということでしょうか。しかし、主がもう一度その目に手を当てると、全てがはっきりと見えるようになりました。 この聖書に登場するファリサイ派のように学識豊かなユダヤ教の指導者たちでも、また主イエスの弟子たちであっても、主イエス・キリストを見ているようで見えていません。彼らだけではありません。今日(こんにち)わたしたちも、まだおぼろげにしか主イエスが見えていないのではないでしょうか。正しい行いをすれば(実際にはできないのに)人は救われると教える人、その言葉を聞いてご利益目当てにイエスに従っていれば、何か良いことがあるかも、などと見当はずれな期待をする人はいないでしょうか。 イエス・キリストは十字架に上げられ、死んだのです。その事実から目を背けていては、本当に主との出会いを経験することはできません。主は何故十字架に上げられなければならなかったのでしょうか。 それはユダヤ人の傲慢さ、弟子たちの中途半端な信仰、 そして今もわたしたちが日々重ね、繰り返している罪のためであります。  わたしたちの主キリストはその全ての罪を贖い、赦すために十字架に至る道を選び取ってくださいました。 今も十字架の傷跡鮮やかな両手を  あなたの目に置いて、「友よ、何か見えるか」と尋ねておられるのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2004年3月7日

 何か見えるか

マルコによる福音書8章22-26節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 人々が目の見えないひとりの人を主イエスの御許に連れてきて、「触れていただきたい」と願い出ました。そこで主は彼を村外れに連れ出します。 目の見えない人に先立ち、 その手を取り、ご自分の肩か肘かを貸して連れ立って村はずれへと歩く二人の姿は何と麗しい光景でしょうか。この目の見えない人のように、わたしたちもまた主の御手にひかれながら先行き不透明なこの世を歩めることは、何と嬉しいこと、もったいないこと、そして安全なことかと、感謝のほかありません。

 こうして村外れまで来ると、 主は彼の目に唾(つば)をつけ、両手をその上に置いて、「何か見えるか」と言われました。彼は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。はっきりしないがおぼろげに見えるということでしょうか。しかし、主がもう一度その目に手を当てると、全てがはっきりと見えるようになりました。先週読みました8:11以下を思い起こすと、ファリサイ派のように学識豊かなユダヤ教の指導者たちでも、また主イエスの弟子たちであっても、イエス・キリストを見ているようで見えていません。彼らだけではありません。今日わたしたちもまだおぼろげにしか主イエスが見えていないのではないでしょうか。正しい行いをすれば(実際にはできないのに)救われると教える人、その言葉を聞いてご利益だけを目当てに、「イエスに従っていれば、何か良いことがあるかも」、などと見当はずれな期待をする人はいないでしょうか。

 ヨハネによる福音書9章にも目の見えなかった青年が主の御手によって癒された出来事が記録されています。しかし建前ばかり気にする頭の固いファリサイ派の人々はこの事実を前にしても信じようとしません。それどころかこの青年に、「どうして見えるようになったのか。その者をどう思うか」と、何度も同じ質問を繰り返しました。無意味とも思える質問を繰り返し浴びるうちに、青年の心にはイエスが自分にとってどのような方であるかという輪郭が見えてきました。そしてこのイエスこそキリスト、救い主と信じる信仰が次第にはっきりとしてくるのでした。このように、イエス・キリストに対する信仰が明確になったとき、ファリサイ派の人々は青年を危険人物とみなして、ユダヤ人社会から追放してしまいました。それを知った主イエスは彼を励まし、同時にファリサイ派の頑なな心を深く悲しみ、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われました(ヨハネによる福音書9:41)。肉の目に頼るあまり、霊の目が遮られてしまっていることは実に悲しいことであり、危険なことであります。

 12弟子も危うくこのような誘惑の罠(わな)にはまるところでした。少し先回りして9:33以下を見ると、彼らは互いに仕える為に主の弟子として召されたのに、いつの間にかイエスをこの世的な英雄に祭り上げ、イエスを利用しながら出世を競い、お互い背伸びし合う関係になっていました。12弟子こそ主に手を置いて頂きながら、まだ人の姿も木の姿も見極めがつかず、おぼろげにしか主が見えていなかったのです。彼らは5000人、4000人の群衆に食べ物を与える主を見ていました。病人を癒された主を見ていました。主が汚れた霊を追い出したとき、彼らはその一部始終を目撃していたのです。耳が聞こえず、舌がもつれて話せない人を癒す主を見ていました。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、主イエスの憐れみの御手と御心は止まる所を知りません。弟子たちはこれら全てを目撃していたのです。にもかかわらず、主が言われるように、「目があっても見えない。耳があっても聞こえない。覚えていない。悟らない」人々でした。わたしたちの主日はいわゆるこの世の人々が期待するような英雄のイメージから程遠い方です。彼は悪しき力と剣を交わして戦う方ではありません。それどころか、敵の前に黙々として縄で縛られ、権力者によって裁かれ、十字架に上げられて死にました。この事実から目を逸らして、自分本位にイエスを見続けていては、本当に主との出会いを経験することはできません。わたしたちの主はどうして十字架に上げられなければならなかったのでしょうか。それはユダヤ人の傲慢さ、弟子たちの中途半端な信仰、そして今日わたしたちが日々繰り返し、重ねている罪のためです。わたしたちの神は、わたしたちの犯す全ての罪を贖うために、独り子をこの世に与え、この方を十字架の詩編に追いやるという手段を選んでくださいました。聖書が読者に向かって、「あなたは罪びとだ」というとき、それは、刑事事件、民事事件を犯した人に限定してはいません。聖書の言う罪とは、紙がこのようにわたしたちの罪を贖うために独り子、イエス・キリストをこの世に与えてくださったこと、イエス・キリストの申命記によってわたしたちの罪は一切許され、きよめられ、イエス・キリストの復活の命によってわたしたちも救われて永遠の命を約束されているというこの事実を信じないこと、これをもって罪というのです。もう少し言葉を知事馬手言うなら、神の愛とイエス・キリストの十字架による救いを信じないことが罪なのです。 

 以前子どもたちに話したことですが、今日は皆さんにも聞いていただきたいと思います。 昔、インドに真珠とりの名人でCさんという人がいました。ある日、その村にひとりの宣教がやってきました。 Cさんと宣教師はすぐに仲の良い友達になりました。 しかし、Cさんはどんなに誘われても教会に来ません。「インドの宗教では、難行苦行をしなければ救われないのに、キリストがわたしの罪のために十字架に死んだことをただ信じるだけで救われるなんて、虫が良すぎる。 」というのが、教会に来ない理由です。 20年ほどたったでしょうか、宣教師は定年を迎えるとかで国に帰らなければなりません。彼は大の仲良しであるCさんに、そのことを一番に告げました。Cさんはとても悲しみましたが、決まっていることなら仕方がありません。 それでお別れの記念にと、一番高価な真珠をこれまでの友情に感謝して宣教師に贈ることにしました。宣教師は驚き、辞退しました。それは素人目に見ても宣教師の身分ではとても買えそうにないほど立派なものだったからです。しかしCさんはどうしても受けとってほしいと聞きません。そこで宣教師は言いました。「Cさん、それではこうしましょう。足りないことは十分承知しているが、わたしの持っているだけのお金でそれを買わせてください」と。 しかし、Cさんは、「お金はいらない。 どうしてもただでこの真珠を受け取ってほしい。お金には替えられないものだから」と言いながら差し出すのです。宣教師もまたそれを聞いてはなお受け取れないと断ります。 Cさんはその時初めて、どうしても受け取ってほしい理由をポツリポツリと話し始めました。彼には一人息子がいました。 いずれは父親の後を継いで村一番の真珠とりになるはずでした。 ところがある日、海底深く、今までにないほど大きな真珠貝を見つけました。 息子はそれをどうしても手に入れたいのですが、海は深いので、息が続きません。何度も何度も挑戦しますが、後もう少しというところでやはり息が続きません。今度こそともう一度海にもぐりましたが、それを最後に二度と浮かび上がってきません。父親のCさんは心配になって自分も命がけで海の底を探し回りました。ようやく見つけましたが、 息子は何か大きなものをしっかり手に握り締めながら息絶えていました。Cさんは、宣教師に、「これがその時息子が握り締めていた真珠だ。 これこそ息子の命の身代わりだから、ぜひともただで受け取ってほしい」と涙ながらに言うのでした。宣教師もまた目に涙を湛えながら聞いていましたが、「Cさん、今あなたは息子の命だから、この立派な真珠をただで受け取れと言いました。イエスさまも同じです。神さまの独り子が、わたしたちの罪の為に十字架に死んで下さったのです。 それによってわたしたちは救われました。人間の努力は要りません。ただで、そう、ただ救い主イエス・キリストを信じて神さまの愛を受け取るだけでよいのです。」と言いました。

 今、主はその釘跡も鮮やかな両手をあなたの目に当てて、「友よ、何か見えるか」と尋ねておられるのです。いかがでしょうか。あなたも神さまの愛を信じませんか。今朝、あなたもイエス・キリストの救いをただで頂く決心をしませんか。 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 み言葉を感謝します。わたしたちは自分の傲慢と身勝手な欲望の為に神さまを見失い、イエスさまの救いの御手が見えていませんでした。しかし、あなたは今朝、わたしたちの霊の目に、釘で刺し貫かれた御手を置いて、「何か見えるか」と尋ねてくださいます。わたしたちは今、初めて知りました。あなたかわたしたちを救うためにどれほど大きな痛みと犠牲をその身に受けてくださったかということを。わたしたちは、今はじめて自分のうちに耐え難いほど重く大きな罪を背負いながら生活をしている者であるということを。わたしたちは今、あなたにその罪の全てを告白します。あなたがその罪のすべてを十字架によって消し去ってくださるお方であることを信じます。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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