【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年4月4日

 イ エ ス の み

マルコによる福音書9章1-13節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 イエスは、3人の弟子を伴って高い山に登り、そこで変貌しました。何という神秘的な光景でしょうか。更に驚いたことに、はるか昔にこの世を去ったはずのモーセとエリヤという、偉大な二人の預言者が現れて、イエスと何か語り合っています。モーセは旧約聖書最初の5つの書物を代表する預言者、エリヤは残り34の旧約聖書を代表する預言者、つまりこの二人によって旧約聖書は生まれたといっても過言ではありません。この厳粛な瞬間を目撃した弟子たちは、ペトロを初め恐れながらも恍惚状態になり、いつまでもこの聖い世界に止まっていたいという願いから、ここに3つの小屋を建てて一緒に住みましょうと提案しました。しかし止まることは許されません。ここにいたのでは、神のご計画である世の罪を取り去る贖いの業は、完成しないからです。再び喧騒と罪の渦巻く里に、降りて行かなければなりません。天の父は、イエスをそこへと進み行かせるのです。主イエスの目もまた真直ぐエルサレムに、そこでご自分を待ち受ける敵に向けられています。モーセとエリヤが証した律法と預言の書である旧約聖書を完成させるために。嵐の前の静けさです。いつの間にか雲がイエスとモーセとエリヤを覆い、弟子たちの目を遮りました。その代わりに天から、「これはわたしたちの愛する子。これに聞け」という声がしました。雲が晴れて辺りを見回すと、そこにはただイエスのみがおられるのでした。

 聖書はイエスを証する書物です。モーセもエリヤもイエスを証したのでその役目を終えて天の父なる神のもとに帰りました。聖書を学ぶ弟子たちは、聖書の中に物語られている英雄モーセやエリヤにいつまでも心を寄せていてはなりません。聖書から学び取るべきはイエスのみです。このお方を置いて外にあってはならないのです。主の弟子たちが聴き従うべき方もイエス、このお方以外にあってはならないのです。

今、わたしたちはイエス・キリストの変貌の記事を読みました。天の父は今日もわたしたちに、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と語っておられます。ただ、イエスのみに聴き従う者となりましょう。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                         2004年4月4日

 イ エ ス の み

マルコによる福音書9章1-13節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 教会カレンダーによると、今日から「キリスト受難週」に入ります。聖書によると主イエス・キリストは、金曜日の朝9時に十字架に付けられて午後3時に息を引き取りました。幾人かの弟子たちが涙流しつつイエスの遺体を墓に葬り、家路に着きました。しかし不信仰なユダヤ人たちはイエスを裁いたローマの総督ピラトに頼んでその墓を封印し、しかも番兵までつけました。イエスが生前、「自分は死んで葬られるが、三日目に甦る」と言われたことを信じてはいませんでしたが、覚えていたからです。それで、弟子たちが死後三日の間に遺体を盗み出してイエスは復活したと嘘の宣伝をしないように番兵をつけました。これが金曜日に起こった出来事の全てです。わたしたちの教会ではこのことを記念して9日の金曜日、午後7時30分から約1時間、十字架のイエスを心に思い起こして、「グッド フライデー特別礼拝」をささげる予定をしています。とても大切なひと時ですから、皆さんぜひ出席してください。

 さて、9:1をご覧下さい。主イエスは、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」と言われました。「決して死なない者」などこの世にいるのでしょうか。一人だけいます。「イエス・キリスト」です。イエスは神のお子だからです。2節以下の出来事がそれを証明しています。「六日の後」とは、8:27から数えてのことでしょう。ペトロの信仰告白を受けて、イエスが確かにメシア、キリストであるということ、また「決して死なない者」であることを裏付ける出来事が、この日起こりました。イエスは3人の弟子を伴って、賑わう里から離れて高い山に登りました。エズレル平原にある標高562mのタボル山であろうという説もあり、山頂には紀元6世紀ごろにキリストの変貌を記念して建てられた3つの礼拝堂があります。しかし、ほかの人々は8章の流れからヘルモン山ではないかと言う説もあります。この山は標高2,850mもあり、山頂は万年雪をいただく確かに高い山です。アラビヤの人々はこの山をジェベル・エ・テルジ、「雪の山」と呼んでいるそうです。タボル山かヘルモン山か、という議論は別として、ともかく高い山でイエスの姿が変わり、マタイによる福音書17:2によると、顔は太陽のように輝き、今日のみ言葉の通り、その服の白さはこの世のどんな布晒しの職人も及ばぬほど、目映(まばゆ)く輝いていました。何という神秘的な光景でしょうか。更に驚いたことに、はるか昔この世を去ったはずのモーセとエリヤという偉大な二人の預言者が現れて、イエスと何か語り合っています。 数ある預言者の中で、特にこの二人が選ばれ、イエスの前に呼び出されたのには理由があります。モーセと言えば、イスラエルの民を奴隷の地、エジプトから解放しただけでなく、この世に神の律法をもたらした偉大な預言者です。エリヤと言えば、「真の神は聖書の神、主と呼ばれているヤハウェのみである」と命を懸けて説き聞かせ、信仰の戦いを戦い抜いた偉大な預言者です。またモーセは旧約聖書最初の5つの書物を代表する預言者、エリヤは残り34の旧約聖書を代表する預言者です。つまりはこの二人によって旧約聖書は生まれたといっても言い過ぎではないのです。

 ところで彼らは何を語り合っていたのでしょうか。 ルカによる福音書9:31を見ると、こう書かれています。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と。この言葉だけを見ると、悲壮感が漂いますが、「最期」と訳されているギリシャ語をよく見ると、「エクソドス」という単語が用いられています。英語で言うエクソダス(exodus)です。この言葉には悲壮感はありません。「脱出」、「出発」、「移動」などの意味があるからです。その意味で彼らがここに登場したことは意義深いことです。 旧約聖書の全巻は、メシアと呼ばれるイエス・キリストの贖罪死に集中して書かれている証言集であるということができるのです。確かに主イエス・キリストの十字架の苦しみ、主イエス・キリストの十字架の死は想像を絶するものがあります。しかし、それは絶望の死、行方定めぬ最期ではありません。使徒パウロは言います。

 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(气Rリント15:54〜57)という意味です。

 変貌されたイエスのお姿を見る時、十字架の死はご自身の為ではないことが分かります。本性においてこれほどの聖さを備えておられるお方が、どうしてご自身を救う為に、十字架の道を選び取る必要があるでしょうか。罪を全く知らない方が十字架に死ななければ、ご自身の為に命を得ることができない、などということがあるでしょうか。 真にこの変貌されたお姿こそ、イエスの本当のお姿なのです。この聖い神の子イエスがエルサレムで遂げる最期、すなわち、「十字架の死」はご自身の為ではなく、実にわたしたちの為なのです。十字架こそ罪にまみれたわたしたちを、その汚れから解放するエクソドスです。十字架こそ、死後神の裁きの庭に呼び出されるのではないかという恐怖からわたしたちを解放して、新しい永遠の命の御国へと脱出させるエクソドスなのです。

 この厳粛な瞬間を目撃した弟子たちは、ペトロを初め恐れながらも恍惚状態になっていたようです。そしていつまでもこの聖い世界に止まっていたいという願いから、ここに3つの小屋を建てて一緒に住みましょう、と提案しました。しかし、ここに止まることは許されません。ここにいたのでは、神のご計画である世の罪を取り去る贖いの業は、完成しないからです。再び喧騒と罪の渦巻く里に、降りて行かなければなりません。 天の父は、イエスをそこへと進み行かせるのです。 主イエスの目もまた真直ぐエルサレムに、そしてそこでご自分を待ち受ける敵に向けられています。 モーセとエリヤが証した律法と預言の書(旧約聖書)を完成させるために。嵐の前の静けさです。いつの間にか雲がイエスとモーセとエリヤを覆い、弟子たちの目を遮りました。その代わりに天から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声がしました。雲が晴れて辺りを見回すと、そこにはただイエスのみがおられるのでした。

 聖書はイエスを証する書物です。モーセもエリヤもイエスを証したのでその役目を終えて天の父なる神のもとに帰りました。神から賜った聖書を学ぶ弟子たちは、聖書の中に物語られている英雄モーセやエリヤにいつまでも心を寄せていてはなりません。 彼らが聖書から学び取るべきはイエス、このお方を置いて外にあってはならないのです。 彼らが聴き従うべき方もイエス、このお方以外にあってはならないのです。ましてやこれから再び賑わう里へ下りて行くと、そこにはさまざまな声と言葉が行き交っています。もっともらしい思想、心浮き立つ楽しい教え、うっとりするような誘いの言葉が彼らの自尊心をくすぐることでしょう。しかし、彼らがいつでも、どこでも、どのような状況にあっても集中して耳を傾け、心を寄せるべき方は、「イエスのみ」です。外にあってはなりません。イエス、このお方だけが、弟子たちをその罪から救い、天の父なる神に喜ばれる者、受け入れられる者として造り替えてくださるからです。

 今、わたしたちはイエス・キリストの変貌の記事を読みました。 これは新約聖書に深い関わりをもつペトロ、ヤコブ、ヨハネという、特に選ばれた3人の弟子たちが目撃し、経験したことですが、7節の上からのみ声はこれを読む全ての人に与えられたものです。というのは、後にペトロ自身小アジア東部にある諸教会に宛てた手紙の中で次のように書き送っているからです。

 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。 わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にいたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖書に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペトロの手紙二 1:16〜23)

 以上のように聖書はただの読み物ではなく、主イエス・キリストを証するものであるということを忘れてはなりません。聖書を読むことの意味は、上からの声に聴き従うということです。キリスト者とは、聖書をただその字面を平面的に追いながら読んではいません。むしろ立体的に上から聞こえる声に促されながら、読んでいるのです。天の父は今日もわたしたちに、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と語っておられます。ただ、イエスのみに聴き従う者となりましょう。   祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 高い山に登り、そこで変貌なさった主イエス・キリストを思います。そのところで天の父なる神のみ声があったことを思います。わたしたちもまた喧騒渦巻く里にあって、罪深い環境に取り囲まれていますから、内なる祈りの宮に退き、あなたのみ言葉を正しく聴き取らせてください。あの山に主イエス・キリストの十字架を証するモーセとエリヤ、ペトロとヤコブとヨハネがいました。これらの人々は今もわたしたちに主イエス・キリストの十字架を証しています。彼らが聖霊によって書き残してくれた聖書が、今もイエス・キリストの十字架を鮮やかに指し示しています。わたしたちはこの十字架によって贖われたのだということを心から信じます。信じて感謝します。十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見るとき、この方がいつもわたしたちの傍らに寄り添い、歩みを共にして下さることを確信することができます。願わくは、どうかわたしたちが地上にある日の間、常にあなたのみ声に聴き従う者であることができますように。

私たちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 


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