【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年4月18日

 先になりたい者

マルコによる福音書9章33-37節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 この世で天国に最も近い人とはいったい誰でしょうか。弟子たちには当時のユダヤ人社会を政治的・宗教的に指導する祭司階級、律法学者、また長老といった面々が脳裡に浮かんだかも知れません。皆さんも天国に一番近い人は一番後ろを行く人だとか、隣人に仕えている人だと言われたら、どんな人が頭に浮かびますか。牧師だと思いますか。教会の役員さんだと思いますか。牧師も役員もそうありたいと思います。しかし、少なくともわたしには天国に一番近くにいるという自信はありません。イエスが天国に一番近い見本としたのは何と幼い子どもです。弟子たちの前で、たまたまそばにいた幼子の一人を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子どものひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われます。子どもをお手本にし、子どもを受け入れなさい。それが神を受け入れること、神を信じ、神に従うことであり、延(ひ)いては天国への一番の近道だというのです。では、「子どもを受け入れる」とは実際に子どものどういった面を受け入れれば良いのでしょうか。子どもは親の育て方一つで「光の子ども、神さまの子」にも、「暗闇の子ども、悪魔の子」にもなるのです。

 ある友人ご夫妻の姿勢にそれを実感しました。ご夫妻は可愛い男の子を連れて遊びにこられました。夫人の言葉によると、「3歳まで人の目にも少し厳しすぎるのではと思われるくらい、厳しく育てたおかげで、まず神を畏れる心、次に年長者を敬う心が芽生え、今では、わたしたち夫婦にとって家族の一員であるばかりでなく、祈りのパートナー、また信仰の戦友です。」ということでした。聖書の神に絶対の信頼を置き、服従し、み言葉のままにわが子を一人の人間として受け入れながら養い育て、教え導く親、教えられるままに十戒をさえ諳(そら)んじ、純粋に神と向き合っているわが子の霊性を見逃さずにきちんと受け止め、祈りのパートナーであり、信仰の戦友として尊敬さえしているご両親の中に、天国に近い神の奉仕者の姿をわたしは発見することができました。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2004年4月18日

 先になりたい者

マルコによる福音書9章33-37節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスとその弟子たちはカファルナウムという町にある一軒の家に入られました。主のお育ちになった町はナザレですから、弟子の一人の家かもしれません。彼らは途中で、誰が一番えらいかと話し合っていました。これはわたしの想像ですが、イエスがあの高い山に登られたとき、連れて行ったのはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけでした。残された9人は、あの汚れた霊に苦しめられていた子どもを救う為に努めましたが、できませんでした。そうしたことが切掛けで、3人と9人の間に気持ちの上ですれ違いのようなものができたのかも知れません。或いは弟子となった順番や、自分たちの中で最も主のお役に立っているのは誰かというようなことも、誰が偉いかを決める基準にして議論しているうちに、何となくお互いの関係がぎくしゃくし始めたのかも知れません。

 野生動物の間には序列があります。ボスがいて、その下にナンバー2、ナンバー3といった序列を作り、秩序正しく纏(まと)めながら、敵から集団を守りながら、種の保存に努めています。しかし、人間の場合は序列や階級がかえって互いの平和を脅かすことが多いのです。その反省からか、最近小学校ではいろいろな競技だけでなく、通知表にも優劣を作らないようにしていると聞きました。あるキリスト教主義の幼稚園ではクリスマスの劇をするとき、お母さん達の希望を入れて、劇の中に羊飼いを登場させないで、演じる子どもたち全員が天使と博士たち、マリアさんとヨセフさんを一回の劇の中で順番に演じることができるようにしていると聞きました。お互いの間に上下関係ができないようにとの配慮だそうです。しかし、この考え方は一見平等のようですが、羊飼いを劇に登場させないように決めた先生やお母さん達の本音は、羊飼いはぼろ服を纏う卑(いや)しく、身分の低い職業だからという差別意識からきているように感じられてなりません。このような考え方は本当に平等と言えないばかりか、新しい差別と緊張を生む危険さえあります。

 イエスの弟子の間ではこのような序列は必要ないし、むしろあってはならないのです。だからといってイエスは、「みんな仲良くしましょう」などと、小手先のきれいごとで平等を説くようなことはしません。むしろ、イエスは人よりも先を歩きたい。人よりも偉くなりたい。偉いと思われたいという自尊心や優越感を否定してはおられません。ほめられたいという人間の本能を全く否定してはおられないのです。但し、続くみ言葉の中に、「先を歩く者、偉い人」の基準がこの世と違っていることを見逃してはなりません。昔、妻の甥がまだ小学生だった頃、学校の運動会で保護者が参加する種目の中で、面白い自転車競走がありました。スタートラインから約100m先のゴールまで自転車をこぐ競争です。但しその競技のルールとして、いったんスタートしたら、ゴールまで自転車から降りた人はもちろん、少しでも足を地面に付けた人は失格です。その上で一番遅く入った人が優勝だというのです。天国に入る競争も同じです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」とイエスは言われます。主が認める優勝者は、一番最後を行く人です。わたしたちの常識で言えば、会社の守衛室にいる人よりも、社長室にいる人が偉いのですが、イエスの目には必ずしもそのように映ってはいません。こんな譬えは今の若い人に通用するかどうかわかりませんが、駕籠に乗る人ではない、駕籠を担ぐ人でもない。駕篭かきのわらじを作る人こそ一番偉いということになります。全ての人に仕える人こそ、神さまから「偉いぞ」とほめてもらえるのです。

 この世にあって天国に最も近い人とはいったい誰だと言うのでしょうか。弟子たちは一瞬お互いの顔を見合わせ、また周囲を見回しましたことでしょう。当時のユダヤ人社会を政治的・宗教的に指導する祭司階級、律法学者、また長老といった面々が脳裡に浮かんだかも知れません。皆さんも今イエスから、天国に一番近い人は一番後ろを行く人だとか、隣人に仕えている人だと言われたら、どんな人が頭に浮かびますか。牧師だと思いますか。教会の執事と呼ばれている役員さんだと思いますか。牧師も執事もそうありたいと思います。しかし、少なくともわたしには天国に一番近くにいるという自信はありません。聖書のお話に戻りましょう。イエスが天国に一番近い見本としたのは3人の一人であるペトロでも、ヤコブでも、ヨハネでもありません。ほかの9人の中の一人でもありません。何と幼い子どもです。固唾を呑んで見守っている弟子たちの前で、たまたまそばにいた幼子の一人を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子どものひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と主は言われます。子どもをお手本にし、子どもを受け入れなさい。それが神を受け入れること、神を信じ、神に従うことであり、延(ひ)いては天国への一番の近道だというのです。では、「子どもを受け入れる」とは実際に子どものどういった面を受け入れれば良いのでしょうか。確かに子どもはある面で純粋です。無邪気です。天真爛漫(てんしんらんまん)です。しかし、その純粋さ、無邪気さ、天真爛漫が時には大人顔負けの残酷な行動に出ることがあります。また子どもは大人の心を読む名人です。組し安しと見ると、決して妥協しません。自我を押し通します。子どもとはこのような一面を持つ者なので、旧約聖書には再三、子どもはその成長期に忍耐すること、年長者に従うことを教えなさい。そうでないと、大人になってから社会生活に支障をきたすと警告を発しています。

 イエスの時代、イスラエル社会でも子どもは神から与えられた恵みの賜物、祝福の対象でした。親にとって宝物でした。しかし、一方で子どもは先の旧約聖書の警告に従って、一人前の人間とは認めていませんでした。たとえば、イエスが5千人以上の人々に5つのパンと2匹の魚で養われたときの人数の数え方の中で、マルコによる福音書6:44によると、「パンを食べた人は男が5千人であった」と言い、マタイによる福音書14:21によると、「食べた人は、女と子どもを別にして、男が5千人ほどであった。」と書かれています。福音書を書いた主イエスの弟子たちでさえ、女性と子どもは数に入れていません。女性と子どもは奴隷と同じように成人男性に従属するものと見なされていたからです。戦争になると真っ先に犠牲になり、親の都合で物のように売り買いされていました。そういう時代でした。全く人権を無視した社会でした。そんな時代にイエスは子どもを抱き上げて、天国への道しるべとしてくださったのです。

 先日ある教会のGご夫妻が遊びに来て下さいました。いろいろな話の中で連れてきた子どもさんの話になりました。ご夫人の言葉によると、「3歳まで人の目にも少し厳しすぎるのではと思われるくらい、厳しく育てたおかげで、まず神を畏れる心、次に年長者を敬う心が芽生え、今では、わたしたち夫婦にとって家族の一員であるばかりでなく、祈りのパートナーであり、信仰の戦友です。」ということでした。もちろん彼はまだ5歳です。これからますます彼を取り巻く環境は厳しく、試練の嵐の中でもまれることでしょう。しかし、その子どもの名前を思うと、神が必ず彼と共におられて、彼の心にいつも主にある平和があるようにと祈らずにいられません。彼の名前はひらがなで「されむ」と呼びます。クリスチャンならすぐにお分かり頂けると思いますが、「平和」という意味です。イエスが抱き上げて天国に一番近い見本とされたのは、まさにこのことではないでしょうか。

 子どもは親の育て方一つで「光の子ども、神さまの子」にも、「暗闇の子ども、悪魔の子」にもなりうるのです。聖書の神に絶対の信頼を置き、服従し、み言葉のままにわが子を一人の人間として受け入れながら養い育て、教え導く親、教えられるままに十戒をさえ諳(そら)んじ、純粋に神と向き合っているわが子の霊性を見逃さずにきちんと受け止め、祈りのパートナーであり、信仰の戦友として尊敬さえしているご両親の中に、天国に近い神の奉仕者の姿をわたしは発見することができました。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名をあがめ、讃美します。

 今朝もあなたの尊いみ言葉を感謝します。わたしたちはこの世から選び出され、あなたの弟子とされた者、天国を目指す群れです。未だ世にある者の内、ひとりでも多くの人が同じ天国への旅人として加えられるようにと日夜伝道に勤しむ主イエス・キリストの教会の一人びとりです。しかし、わたしたちは時々、自分が何のためにこの世から選び出されたのか、どのような目的でキリスト者とされたのかを忘れて、この世の基準で教会の運営や組織を考えることがあります。

しかし、あなたは今朝、もう一度わたしたちが忘れていたことを思い起こさせて下さいました。わたしたちは天の国を目指す旅人でした。天のみ国を目指す者は、全ての人の後になり、全ての人に仕えることを喜ぶ者でした。どうか、今一度わたしたちの教会に与えられている幼子という生きたお手本に倣い、あなたの御心に従う者とならせてください。

私たちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン。


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