【主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2004年5月16日

 天国への道」(1)

マルコによる福音書10章17-31節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 何もかも捨てて主に従った弟子たちと、幼い時から高潔な人格を形成し、永遠の命を求めながら、しかし全てを捨ててわたしに従いなさいという主イエス・キリストの招きを受けることができなかったお金持ちの違いはどこにあったのでしょうか。それはあれかこれかという人生の選択をした主の弟子たちと、あれもこれも受けようとした金持ちの違いです。確かに天国への道は狭い門です。あれもこれも携えては入れません。捨てなければ得られない。これが天国への道なのです。何を捨てて何を得るか、わたしたちに突きつけられた人生の課題です。手にしているものを捨てることは勇気の要ることです。お金も地位も、名誉も持ったままで入れないものでしょうか。この重い課題を前にして、イエスが語られたひとつのたとえ話を思い出します(マタイによる福音書13:44 p.26)。

 自分の農地を持たず、他人の土地を借りて畑を耕している人がいました。ある日土の中から一目でわかる高価なお宝を発見しました。彼はさっそく家にとって帰し、持ち物をすべて売り払い、金に換えて畑を買い取り、ちゃっかり宝物を手に入れてしまったというお話です。人々はきっとげらげら笑いながら聞いていたことと思います。でも、イエスはこれを天の国のたとえとして話されたのです。マルコによる福音書の話に戻って考えてみましょう。この金持ちは幼いときからまじめに生活をしてきましたが、まだ何か足りない、いったいそれは何だろうと考え抜いてイエスの許に来ました。そしてわかりました。彼は今隠されていた宝物を発見したのです。その宝物とはイエス・キリストご自身でした。あの農夫のように、持っている物すべてを投げ出しても手に入れるべきでした。しかし、彼は自分の財産とイエス・キリストに従う人生を天秤にかけたとき、イエス・キリストに従う人生を断念してしまいました。

 皆さん、主イエスのたとえ話をどう思いますか。実は、わたし自身もイエス・キリストという宝物を受け入れることで、今も後も永遠に幸いな生涯に入れられました。あなたはどうでしょうか。全能の神に、あなたの全てをお委ねしませんか。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                             2004年5月16日

 天国への道」(1)

マルコによる福音書10章17-31節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先ほど読んで頂いた聖書に「金持ちの男」と書かれた表題が付けられていますが、その下に関連記事が紹介されています。例えばマタイによる福音書を読みますと、この人は青年であったことがわかります。またルカによる福音書によると、政治家でした。そしてマタイによる福音書もマルコによる福音書もルカによる福音書も声を大にしてこの人がいかに謙虚な人であるか、またまじめな求道者であるかを紹介しています。彼は確かに謙虚な人です。「稔ほど頭を垂れる稲穂かな」という句がありますが、あの稲穂でさえ成長期には頭を垂れることをしないでぐんぐん天に向かってその身を伸ばし続けます。しかしこの人は違います。地位も名誉も財産もあり、しかも若いに似ずイエスの御前に頭を垂れてひざまずきさえするのです。そして、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。冷やかしではありません。イエスを試そうというのでもありません。まじめに、かつ真剣に天の御国に至る道を模索しているのです。こういう人を本当の求道者と言うことができます。

 

 永遠の命、天のみ国への道を真剣に求める若い求道者を前にしてイエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」と、すなわちモーセが教えたじっ十かい誡の後半部分に書かれている6つのいまし誡めについて述べられました。すると、青年は、「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。」と言うのです。ここには見られませんが、マタイによる福音書によると、青年は更に、「まだ何か欠けているでしょうか」と重ねて尋ねています。今日でもこの若者のように人格高潔の人を見かけます。知識の面でも社会的地位においても申し分ないばかりか、生活もまじめ、その上謙虚に耳を傾けてくれる、そういう人に伝道している自分はどうなのかと恥ずかしい気持ちにさせられることがあります。こちらの方が何か居心地の悪さを感じます。その一方でこのような人が我々の仲間に加わってくれたら、教会は立派に成長するだろうな、という期待に胸膨らむのです。イエスと若者のやり取りを聞いている弟子たちも同じ思いであったかもしれません。事実自分たちの先生であるイエスも慈しみのこもった眼差しを彼に向けておられます。とても微笑ましい光景です。しかし、その麗しい光景も、イエスの口から続いて発せられたひとことによって一変しました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われたとき、若者は気落ちして、また悲しみながら立ち去って行きました。著者はその理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と解説しています。多分去って行く後姿を見送るイエスの眼差しは彼以上の悲しみに曇っていたことでしょう。そして弟子たちを見回して、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」といわれました。

 わたしは、今日の為のメッセージ主題をつけるにあたって、さまざまな題を考えました。聖書の表題を借りて、「金持ちの男」にしようか。讃美歌にあるように、「ああ、主の瞳」としようか。「キリストの眼差し」としようか。「神には何でもできる」としようか、などと考え抜いた末、結局「天国への道」その一としました。次週はその二です。平凡というか、あまり世間受けしそうにないつまらない題になってしまいました。自分でもそう思うのですから、多くの人も正直同じ感想を持たれたことと思います。もしかして、来週この会堂は空っぽかもしれません。それでもわたしはこの題にこだわってしまうのです。もちろん聖書はどの箇所、どの頁でも「天国への道」が示されています。しかし、ここと、その次の箇所ほど、天国への道が明確に示され、その天国を前にして立ち尽くす人々の姿が鮮やかに描かれている箇所をほかに見出すことができないからです。

 悲しみながらイエスの前から去って行く後姿を見ながら、また金持ちが神の国に入るよりもらくだが針の穴を通るほうがまだ易しいと言われた主の言葉に驚きながら、弟子たちを代表してペトロが言います。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と改めて献身の志を確認するように申し出ました。その弟子たちを見る主イエスの眼差しは再び慈しみに満ちていたことでしょう。天国への道を歩く弟子たちの道は決して平坦ではありません。主のためまた福音のために家族も財産も何もかも捨ててその上迫害までも受けるのです。しかし、その向こうに約束されているのが永遠の命です。天のみ国です。

 何もかも捨てて主に従った弟子たちと、幼い時から高潔な人格を形成し、永遠の命を求めながら、しかし全てを捨ててわたしに従いなさいという主の招きを受けることができなかったお金持ちの若者との違いはどこにあったのでしょうか。それはあれかこれかという人生の選択をした主の弟子たちと、あれもこれも受けようとした金持ちの違いです。確かに天国への道は狭い門です。あれもこれも携えては入れません。捨てなければ得られない。これが天国への道なのです。何を捨てて何を得るか、今朝、わたしたちに突きつけられた人生の課題です。手にしているものを捨てることは勇気の要ることです。お金も地位も、名誉も持ったままで入れないものでしょうか。この重い課題を前にしてわたしは主が語られたひとつのたとえ話を思い出します。興味があればマタイによる福音書13:44(p.26)を開いてみてください。

 自分の農地を持たず、他人の土地を借りて畑を耕している人がいました。ある日土の中から一目でわかる高価なお宝を発見しました。彼はさっそく家にとって帰し、持ち物をすべて売り払い、金に換えて畑を買い取り、ちゃっかり宝物を手に入れてしまったというお話です。イエスはたとえ話の名人ですから、もっと上手に、そして楽しくその場の光景をお話なさったでしょうから、人々はきっとげらげら笑いながら聞いていたことと思います。でも、イエスはこれを天の国のたとえとして話されたのです。マルコによる福音書の話に戻って考えてみましょう。この金持ちは幼いときからまじめに生活をしてきましたが、まだ何か足りない、いったいそれは何だろうと考え抜いてイエスの許に来ました。そしてわかりました。彼は今隠されていた宝物を発見したのです。その宝物とはイエス・キリストご自身でした。あの農夫のように、持っている物すべてを投げ出しても手に入れるべきでした。しかし、彼は自分の財産とイエス・キリストに従う人生を天秤にかけたとき、イエス・キリストに従う人生を断念してしまいました。

 もうひとつ、これも興味があったらフィリピの信徒への手紙3:5〜11(p.364)を開きながら聞いてください。

 これは使徒パウロという人がフィリピ地方の諸教会に書き送った手紙の一部です。彼は自分でも言っているように、家柄も申し分なく、生粋のイスラエル人で、聖書に精通している学者でした。あの金持ちの若者のようにこの世の人がほしいと思うものを全て手にしている人でした。その彼が書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしたちの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にある者と認められたいからです。」と。

 皆さん、イエスのたとえ話とパウロの体験談をどう思いますか。皆さんは今朝、もしかしたらたまたま日曜日だからということで教会に来られたのかもしれません。或いはあの金持ちの若者のように熱心な求めを持ってここにこられたかもしれません。どんな動機でもよいのです。とにかくわたしは皆さんに、皆さん一人ひとりの人生を後悔させることのない宝物をご紹介しました。何度も言いますが、その宝物とはイエス・キリストのことです。わたし自身もこのお方を受け入れることで今も後も永遠に幸いな生涯に入れられました。あなたはどうでしょうか。一切を捨ててといわれてちゅう躊ちょ躇していらっしゃるのでしょうか。もしそうであれば、イザヤ書をあなたの目と心でしっかり見てください。イエス・キリストこそあなたというひとりの罪びとを受け入れるために、ご自分の命をさえ十字架に捨ててくださったのです。これにまさる愛、これ以上に聖い犠牲があるでしょうか。そして主キリストはご自分を捨てることによって大いなるものを手にされました。甦られたのです。

 あなたも今、失うものと約束されているものとを比べてください。神は全能ですから、約束されているものがどれほど尊く、価値あるものかを見分ける目を与え、手放すことができるように導いてくださいます。捨てるとは、神さまにお任せすることです。あなたが今手にしているものを先ず神さまに委ねて、イエス・キリストという宝物を受け入れるなら、これまで後生大事にしていたものが、つまらないことのためにではなく、天国のために用いられることになるのです。先ずあなた自身を神さまに献げましょう。先ずイエス・キリストを信じ、このお方に従いましょう。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。

今朝のみ言葉を感謝します。1人のお金持ちの青年求道者が天国の入り口に立っていましたが、悲しみながらそこを去って行きました。彼がその後どうしたのかわかりません。しかし、それは彼の問題です。今、わたしたちは、畑の中に隠されていた宝物を発見した農夫のように、イエス・キリストという絶大な富、永遠の生命を持つ宝物に出会わされています。わたしたちはこの方を受けるために手にしているものを捨てなければなりません。しかし、わたしたちの中には何を捨てて何を受けるべきか、今なお躊躇させるものがあります。今こそ、わたしたちのために神がどれほどの大いなる愛を注いで下さったかを心に思い起こさせてください。イエス・キリストなしにわたしたちの人生はないのですから。どうかあなたのみ前にある全ての人々があなたを受け入れ、あなたに従う決心をすることができますように。

私たちの救主イエス・キリストのお名前によってお願いします。

アーメン。


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