【主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2004年5月23日

 天国への道」(2)

マルコによる福音書10章32-45節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 現代社会は人を勝ち組と負け組みに分ける傾向があります。高学歴、高収入の人は人生の勝ち組で、並外れた努力の賜物として各界各層の上位に立つのは当然という考え方があります。ヤコブやヨハネの中にも同じような思いがありました。いや「ほかの10人の者はこれを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立てた」とありますから、12人みなが皆、勝ち組になりたかったのです。何もかも捨ててイエスに従ってきた。イエスと共に苦しみを受け、共に死ぬことも辞さない。だからそれなりのご褒美があって然るべしというのです。主イエスは直ちに弟子たちを御許に呼び寄せて、天国で偉いと呼ばれる人とはどのような人かをお教えになりました。「この世は支配者や偉い人たちが人民の上に立ち、権力を振るっているが、あなたがたの間では皆に仕える者、すべての人の僕となりなさい」と。教会とは、「イエスの許に呼び寄せられる」(42節)という意味です。礼拝はイエスの御許に呼び寄せられるときです。イエスは礼拝を通して呼び集められた人々に、神に従う道、互いに仕える道を教えます。教会は仕える者と支配する者という関係を作りません。皆がみなに仕えるという関係にあるのです。主イエスが先ずその模範を示して下さいました。それが33,34,45節のみ言葉に見られます。

 十字架に釘付けられる死刑囚は、これまでの名声も社会的地位も功績も顧みられないのです。これが十字架による処刑の厳しい現実でした。しかし、ここに驚くべきことがあります。イエス・キリストは十字架に上げられたことによってその影響力は世界中に広がり、すべての人を十字架の下に引き寄せるのです。人の子イエスは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の贖い代として自分の命をささげるためにこの世に来てくださいました。主イエスがこんなにご自分を低くして下さったのに、僕であるべきわたしたちは教会において、どうして高い地位、支配者の立場を求めることができるでしょうか。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2004年5月23日

 天国への道」(2)

マルコによる福音書10章32-45節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先週わたしたちは、熱心に求道者しながら、持ち物にこだわったために天国への道を自ら閉ざしてしまった人のことを学びました。今日は「天国への道」その2を学びますが、ここでは主の弟子たちの醜い出世争いが描かれています。イエスは愛する弟子たちが誰一人天国への切符を無駄にしてほしくないという御心から、ご自分の前に用意されている神のご計画をお語りになります。十字架への道です。

 確かに弟子たちはペトロがいうように、今日まで「何もかも捨てて」主イエス・キリストに従ってきました。だからヤコブとヨハネの二人はそれなりの報いを求めても良いと考えました。10人の仲間を出し抜いて、イエスに、「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしたちを側近中の側近にしてください」と願い出ます。マタイによる福音書20:20〜28では彼らの母親が願い出たことになっています。それが本当だとすれば、さすがに自分たちの口から直接言いにくいので、母親を通してお願いしたのでしょう。何もかも捨てたはずなのに保護者付きとは、とわたしたち読者は首を傾げます。ほかの10人が怒った理由はヤコブとヨハネのそういうずるさにもあったのでしょう。

 現代社会は人を勝ち組と負け組みに分ける傾向があります。高学歴、高収入の人は人生の勝ち組で、並外れた努力の賜物として各界各層の上位に立つのは当然という考え方があります。ヤコブやヨハネの中にも同じような思いがありました。いや「ほかの10人の者はこれを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立てた」とありますから、12人みなが皆、勝ち組になりたかったのです。何もかも捨ててイエスに従ってきた。この後も必要なら主が飲む杯、また受けるバプテスマ、それはつまりイエスと共に苦しみを受け、イエスと共に死ぬことを意味しますが、それも辞さない。だからそれなりのご褒美があって然るべしというのです。こういう考え方が弟子たちの中に蔓延することは非常に危険です。これでは教会も、結局この世と変わらぬ出世争いの戦場と化してしまいます。そんなことになっては大変です。イエスは直ちに弟子たちを御許に呼び寄せて、天国で偉いと呼ばれる人とはどのような人かをお教えになりました。「この世は支配者や偉い人たちが人民の上に立ち、権力を振るっているが、あなたがたの間では皆に仕える者、すべての人の僕となりなさい」と。教会の仕事にもいろいろあります。礼拝、お祈り会、伝道活動などですが、それらを「奉仕」と呼びます。42節は教会の意味を雄弁に語っています。「教会」とは、イエスの許に呼び寄せられるという意味です。礼拝はイエスの御許に呼び寄せられるときなのです。イエスは礼拝を通して呼び集められた人々に、神に従う道、互いに仕える道をわたしたちに教えます。教会は仕える者と支配する者という関係を作りません。皆がみなに仕えるという関係にあるのです。主イエスが先ずその模範を示して下さいました。それが33,34,45節のみ言葉に見られます。

 わたしたちは昨年ここに会堂を建て上げました。工事の間、わたしたちは建物のいろいろな部分について語り合い、祈り合いました。そのひとつに十字架があります。ステンドグラスの十字架のデザイン、屋根の上の十字架の大きさなどに気を配りました。どうして十字架にそれほどこだわるのかと人は言うかもしれません。ステンドグラスの十字架は確かに美しいです。美しいものを美しいということを遠慮することはありません。屋根の上の十字架は遠くの人々をこの会堂にナビゲートしてくれます。しかし十字架はただそれだけのためにあるのではありません。これはわたしたち仙川キリスト教会の信仰の証です。世に向かって、「わたしたちはわたしたちの罪の贖いとして十字架に死んでくださったイエスを救い主、キリストと信じる群れ、この方に従う群れです」と宣言しているのです。十字架はもともとそんなにかっこよいものではありません。重罪人を処刑するために、人間が考え出した残酷な道具のひとつでした。両手両足に釘を打ち込まれて宙吊りにされるのです。体重の為に体を立て直そうとすると傷口は引き裂かれて言語を絶する激痛に襲われます。とめどない出血のために喉はカラカラに渇きます。死ぬまで晒し者にされるのです。十字架はそれほど苦痛に満ちたものですが、それは残酷であればあるほど見せしめの効果があるのです。死刑囚は処刑される前に身ぐるみ剥がされます。人間としての尊厳を完膚なきまでに剥奪するのです。これ以上に不名誉な人生の最後はありません。たとい彼がこれまで社会的に重要な地位にあったとしても、この瞬間から彼の名声はもはや顧みられないのです。高名な学者であったとしても、以前の功績は無視され、その著書は一切読まれることはなくなるでしょう。これが十字架による処刑の厳しい現実でした。

 しかし、ここに驚くべきことがあります。イエス・キリストの影響力は十字架に上げられたことによって世界中に広がり、すべての人を十字架の下に引き寄せるのです。死刑囚イエス・キリストの物語はこの出来事を境に隠されるどころか、十字架の目撃者たちによって世界中いたるところに宣べ伝えられ、読み継がれているのです。この世に人を感動させる文学、芸術作品は両の手の指に余るほどあります。しかし、イエス・キリストの十字架の出来事ほど人を感動させ、その心を揺さぶるものはありません。イエス・キリストについて旧約聖書に書かれてある通りのことを、彼はすべて成就されました。イエスはユダヤ人の陰謀と異邦人の手によって裁かれ、死刑の判決を受けたあと、自ら十字架を背負ってゴルゴタと呼ばれる刑場まで追い立てられながら歩きました。

 イザヤ書53:3〜7(新共同訳聖書 p.1,149)にこう書かれています。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられてかがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 彼は口を開かなかった。」

 人は言うでしょう。イエス・キリストの死がわたしといったいどんな関係があるのかと。大いにあります。わたしたちは生まれながらに罪深い者です。神を信じ、人を愛する心はかけらもないのです。オギャーと産声を上げた日から、求めることはしても与えることを知りません。わたしたちは本質的に自己中心で、神に背く性質を持っているからです。これを原罪と言います。まことの愛を知りません。自分が神に造られた者であるという厳粛な事実を認めようとしません。このようにして罪の性質は日々わたしたちを目に見える形で罪の生活へと誘惑します。聖書は言います。「その罪を抱いたままで神の前に出ることは許されない。裁かれ、罰せられ、滅びの国へと堕ちて行くだけである」と。しかし、聖書はまた言います。「あなたは絶望することはない。裁き主である神は同時にあなたのために弁護人を立ててくださった。罪なき神のみ子イエス・キリストである。神は罪の象徴である十字架にイエス・キリストを釘付けたことによってすべての罪は十字架の上に裁かれ、解決した。あなたは清められ、赦された。もしあなたがその罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じるならあなたは救われて永遠の命を与えられる」と。そうです。信じること以外にあなたの罪が赦される道はありません。ただ罪を悔い改めて、信じるだけでよいのです。

 このように人の子イエスは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにこの世に来てくださいました。主イエスがこんなにご自分を低くして下さったのに、僕であるべきわたしたちは教会において、この世にあって、どうして高い地位、支配者の立場を求めることができるでしょうか。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。

 今朝のみ言葉を感謝します。1人のお金持ちの求道者が天国の入り口に立っていましたが、悲しみながらそこを去って行きました。主イエスの弟子たちは天国への道にあって、醜い出世争いをしています。

 同じように今日、わたしたちもまた仕えるよりも仕えられることを心の中で願っている醜さがあります。しかし思い起こすと主が十字架に付けられたのは、まさにわたしたちのこの醜さのためでした。わたしたちが天のみ国いたる切符を受け損なうことのないように主御自ら謙り、十字架の道を選び取ってくださいました。高慢と傲慢を捨てて謙り、互いに仕え合うことによってこそ、み国にいたる門は開かれていることを学びました。主よ、どうぞこの仙川キリスト教会を清めて下さい。喜びと感謝の内に仕え合う群れとしてください。

私たちの救主イエス・キリストのお名前によってお願いします。

アーメン。


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