【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2004年6月6日

 王 の 入 城

マルコによる福音書11章1-11節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは弟子たちに、まだ誰も乗ったことのないロバの子を借りてくるようにとお命じになりました。弟子たちがロバの子をひいてくると、イエスはその背にまたがり、エルサレム(「神の平和」という意味)の城内に入って行かれました。人々はロバの子にまたがって城門を入ってくるイエスを見て誰ひとり笑ったり、軽蔑したりしませんでした。それどころか真心込めて道を整え、神を讃美しながら平和の王としてお迎えしたのです。(ゼカリヤ書9:9参照)

 王なるイエスがエルサレムの門を入ってこられました。戦いを終えて凱旋されるのではありません。今からこの世の一切の罪と戦い、来るべき国を永遠に打ち立てるためにエルサレムに入城してこられたのです。この罪にまみれたエルサレムを本当にその名にふさわしい都にするために、入城し、十字架の上で戦われるのです。イエスは罪びとではなく、罪びとを支配し、その人を破滅へといざなう悪魔とその手下である悪霊どもとの戦いのために十字架を戦場として選ばれました。

 神は、人間をご自分の形にかたどって造られたと創世記は言います。人間の初めは神の清さと麗しさを反映する者として造られました。わたしたち人間こそ「神の平和」の都として造られた神の作品なのです。しかし、わたしたちの現実はどうでしょうか。新聞やTVからわたしたちの目に飛び込んでくる出来事はどれもこれも悲しいものばかりです。親が子を、子が親を、友が友を殺し合っています。それを嘆かわしく眺めるわたしたちもまた自分の足元にさまざまな問題を抱えていることに気がついていません。世の中のためには正しい審判者である救い主を待ち望みながら、自分自身のこととなると、「イエスを十字架につけよ」と叫んでいるのです。そうです。わたしたちはいつも今朝与えられた王の入城の物語を他人事として読んでいます。しかしイエスはあなたの中にエルサレムを見ておられます。あなたの中に入城し、十字架の上で戦い、あなたを真に「神の平和」に生きる者と造り変えてくださるのです。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2004年6月6日

 王 の 入 城

マルコによる福音書11章1-11節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 マルコによる福音書は16章という、4つの福音書の中で最も短い聖書です。著者マルコは1章から10章まで、イエス・キリストが公に神の国の福音を宣べ伝え始めて3年余りを大急ぎで書き進めてきました。ここから16章までの残り三分の一は、イエス・キリストの地上における最後の数十日間の記録です。

 主は地上で過ごされる最後の日曜日、弟子たちに、まだ誰も乗ったことのないロバの子を借りてくるようにとお命じになりました。そこはエリコの町を出てオリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかった所でのことです。聖書の後ろにある地図にはベタニヤという町はユダヤ側とペレア側の二つありますが、ここではもちろんユダヤ側のベタニヤのことです。エルサレムと目と鼻ほどのところにその町はあります。ここまできた時、イエスは弟子たちに、「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」とお命じになりました。「もし咎める人がいたら、『主がお入り用なのです。すぐここへお返しになります。』と言いなさい。」と言葉を添えておられます。わたしたちはここでちょっと珍しい言葉に出会います。『主がお入用なのです』という言葉です。何が珍しいかと言いますと、イエスがご自分のことを「主」と呼んでいるのはここだけだからです。イエスという方はいったい誰に対して、または何に対して「主」なのでしょうか。ろばに対してでしょうか。違います。ろばに関してはその持ち主に対してイエスご自身、「すぐここにお返しになります」と弟子たちに言わせています。ろばの持ち主に対してでしょうか。そうです。イエスはロバの持ち主に対してご自分が主であることを明言し、持ち主もまたイエスこそ全ての主であることを認めたから、断ることをしませんでした。イエスは父なる神の御旨に従い、全てのことに主導権を握って、粛々とご計画を進めておられるのです。

 弟子たちが言われた通りに借りたロバの子をひいてくると、イエスは子ろばの背にまたがり、エルサレムの城内に入って行かれました。軍馬であれば、道行く人に威厳を感じさせるかもしれません。ロバの子にまたがったのでは通行人の背丈と大して変わりなかったでしょうから、人陰に隠れてよく見えません。むしろ滑稽にさえ見えたことでしょう。しかし、人々はロバの子にまたがってエルサレムの城門を入ってくるイエスを見て誰ひとり笑ったり、軽蔑したりしませんでした。それどころか真心込めて道を整え、神を讃美しながらこの方をお迎えしたのです。なぜ? このとき彼らはひとつのみ言葉を思い起こしたからです。わたしたちも一緒に読んでみましょう。旧約聖書1489頁、ゼカリヤ書9:9を開いてください。

「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ。あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者

高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」

 

 イエスはろばの持ち主に対してだけではなく、歓呼の声を上げて迎えた人々に対してもご自分が主であろうとなさっています。そうです。王になろうとしておられます。これはまさしく王の入城行進なのです。弟子たちも沿道の人々も王に対する服従のしるしに着ていた服をロバの背中に、また道に敷き、或いは葉の付いた枝を道に敷いて凱旋する王を迎えるようにして迎えました。ゼカリヤの預言に従い、彼らは讃美を歌いました。それは静かな歌い方ではなく、喜びと感動に包まれて叫びとなりました。「ホサナ」とは、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。群衆の後ろには、さっそくローマの軍隊が召集され、これが暴動に発展しないようにと、厳しい監視の目を光らせていたかもしれません。群衆はそれを意識してでしょうか、今ろばの背に揺られて入城されたイエスを、主の名によってこられた王として迎えます。そしてこの方に対してイスラエルの上に憐れみを求め、神を讃美して歌います。「われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と。群衆はイエスをどれくらい理解していたのかわかりません。ローマの支配に苦しむこの国をもう一度栄光に輝く国として再興してくれるダビデの再来と期待したのかもしれません。しかし、これは確かに彼らの口から出た讃美ですが、本当のところは聖霊が彼らの口を用いてイエスに対してこう言わせたのです。聖霊が歌わせた「来るべき国」とは、そういう政治的な、或いは軍事的な解放者によって実現する王国ではありません。今、王なるイエスがエルサレムの門を入ってこられます。この王は戦いを終えて凱旋されるのではありません。むしろ今からこの世の不義、不正、偽り、悪という一切の罪と戦い、悪魔の支配から全ての人々を解放して、来るべき国を永遠に打ち立てるためにエルサレムに入城してこられたのです。ここでイザヤの預言をご紹介したいと思います。それと共に、先ほど読みましたあのゼカリヤの預言の言葉をもう一度思い起こしてみたいと思います。

イザヤは言います。

「娘シオンに言え。

見よ、あなたの救いが進んで来る。」(イザヤ書62:11 p.1164)と。

 

ゼカリヤは言いました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ。あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者

高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」

 

 イエスは今王として真の平和と、来るべきダビデの国を打ち立てるためにエルサレムに入城されました。しかし、それは先ほど申し上げましたように、凱旋ではなく、戦いのための入城なのです。平和の王はこれからこの世の罪と戦うために戦場に赴かれます。その戦場とは十字架です。事実、王なるイエスを歓呼の声で迎えたこの群衆が、わずか数日後にはイエスに対して、「十字架につけよ」と悪態をつく者となっていくのです。エルサレムは「神の平和」という意味を持つ都です。しかし、その名とは裏腹にこの都は暴力と偽善と不義、不正、などあらゆる悪の巣窟と成り果てていました。イエスは今、この罪にまみれたエルサレムを本当に神の平和という名にふさわしい都にするために、入城し、十字架の上で戦われるのです。ここでイエスの戦場をしかと心に留めなければなりません。イエスの戦う相手は罪びとではなく、罪びとを支配し、好きなようにその人を破滅へといざなう悪の張本人である悪魔とその手下の悪霊どもとの戦いの為に十字架を戦場として選ばれたということを。

 もうひとつ心に留めていただきたいことがあります。それは皆さんの現実です。神は初めに天と地を造り、最後に人間を創造されました。神は人間をご自分の形にかたどって造られたと創世記は言います。人間の初めは神のイメージになぞらえて造られました。神の清さと麗しさを反映するものとして造られました。わたしたち人間こそ「神の平和」の都として造られた神の作品なのです。しかし、わたしたちの現実はどうでしょうか。新聞やTVからわたしたちの目に飛び込んでくる出来事はどれもこれも悲しいものばかりです。親が子を、子が親を、友が友を殺し合っています。欠陥商品を隠蔽するあまり尊い命が奪われました。上層部がそれをまたひた隠しにしていたために、被害者の数は更に増え続け、このままでは会社の存在さえ危うくなりました。真面目に働いている従業員とその家族の生活はどうなるのでしょうか。それを嘆かわしく眺めるわたしたちもまた自分の足元にさまざまな問題を抱えていることに気がついていません。世の中のためには正しい審判者である救い主を待ち望みながら、自分自身のこととなると、「イエスを十字架につけよ」と叫んでいるのです。そうです。わたしたちはいつも今朝与えられた王の入城の物語を他人事として読んでいます。そうではありません。イエスは今朝、あなたの中にエルサレムを見ておられます。あなたの中に入城し、あなたをとりこにしている罪のために十字架の上で戦ってくださるのです。そしてあなたをこそ真に「神の平和」に生きる者と造り変えてくださるのです。

 今、あなたにお尋ねします。イエス・キリストをあなたの王としてお迎えしたいと思いませんか。心の底から、「ホサナ」、主よこの罪びとのわたしを憐れんでください、と叫ばなくてよろしいのでしょうか。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 あなたが下さった救いと命のみ言葉を感謝します。今朝、王なるイエス・キリストがわたしという罪に満ちたエルサレムの都に入城してこられました。

わたしたちは朝な夕な、新聞やTVを見ては世の中のさまざまな事件に心痛めていながら、わたし自身がどれほど神さまの御心を痛めている罪びとの一人であったかということに全く気がついていませんでした。しかし、あなたは今朝、そんなわたしたちをなおもみ心に留めてくださり、イエス・キリストをお迎えする備えのときを与えてくださいました。

イエスさま、わたしたちは今、あなたこそわたしたちの真の王であることを知りました。あなただけがわたしの心を本当に平和に導いてくださるお方であることを確信できました。十字架はそのためのもの、神さま、あなたがたの愛があふれているところです。主よ、感謝します。

これからはあなただけをわたしの心の王座にお迎えします。わたしたちを支配してください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン

 


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