【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年6月20日

 宮を清めよ

マルコによる福音書11章15-19節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 わたしは16歳のときから日本バプテスト連盟の教会に属していました。これからもほかの団体に行く事など考えてもいません。ほかの教派が駄目だと言うのではありません。わたし自身他教派の神学校で、いろいろな教派の学生たちと共に生活をしていましたから、学ぶべき点をたくさん見てきました。それでもわたしは他の教派の教会に所属しようとは考えません。神がわたしをこの日本バプテスト連盟の教会に仕えるようにと召されている、その召命感のためです。

 バプテストは会衆主義です。組織の創設者を持ちません。無名の人々に導かれてきた群れです。また誰か特定の人間を頭とする群れでもありません。人間が目立つ教会はともすれば魂の強盗を生む危険があります。教会こそわたしたちの帰るべきホームなのです。この教会は、「わたしの家」と言われる主イエス・キリストを頭とし、お互いを自分よりも優れた兄弟姉妹として尊敬と神の愛とをもって、信仰の交わり、伝道と訓練を喜ぶ群れです。

  イエスは、「わたしの家は祈りの宮」と言われました。教会は、お互いの消息を確認するところでもありますが、まず優先すべきは主との関係を清めていただくことが大切です。神を父と呼び、その栄光を崇めることです。罪の悔い改めと信仰を言い表すことです。日々の生活の苦しみ、悲しみを癒してくださいと祈るのです。神から伸ばされた赦しと慰めの御手にすがり、感謝と讃美をささげることです。

18節をご覧下さい。礼拝が整えられたことを一番喜ぶべき祭司長や律法学者たちはかえってイエスを恨み、イエスに殺意を抱きました。この事件が引き金となって、イエスは後に彼らの手で捕らえられ、裁きにかけられ、十字架にかけられるのです。しかし、イエス・キリストが十字架に死んで下さったことによって、わたしたちは初めて、わたしたちの罪を贖うものは人間が用意するものではなく、神の独り子であり、世の罪を取り除く神の小羊イエス・キリストであったことを知るのです。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2004年6月20日

 宮を清めよ

マルコによる福音書11章15-19節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 大阪は商人の町と言われていますが、わたしの母は商人の家に生まれました。ですからわたしが成人してからも、なんとなく母の中に商人魂のようなものを感じたものです。商人魂といっても儲け話に思いを寄せるという意味ではありません。商品を媒介としながら人間関係をとても大事にする人でした。母の場合の商品とは身につけた琴と三味線の技です。わたしは子ども心にあの13本と3本の糸を巧みに操りながら美しい音色を出す母の指先に神の手のようなものを見て、感動したものです。本当のところ彼女の商品は琴や三味線ではなく、その指先であったと言ってもよいかもしれません。

 今日はその商人とイエスのことがお話の中心です。11節を見ていただきましょう。イエスは前の日の夕方、一通り神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回りました。境内で売り買いしている人々のさまをしっかりその目に焼き付けておられたのです。翌日、再び境内にはいって主が最初になさったことは、犠牲の鳩を売る人々や両替商を、その商品と共に追い出すことでした

 母は祖父から良い習性を受け継ぎ、技術という商品を媒介に、人間関係を大事にしていましたから、結構友だちには恵まれていました。神殿の庭で売り買いしている人々も、商品を通して祭司や礼拝者との間に極めて良い人間関係を築いていたことが想像できます。しかし、この場合の人間関係の築き方には問題があります。たしかに遠いところから礼拝に来る人は、自分たちの罪の代償となる動物を引いてくる必要はなくなりました。また神殿で献げる金種には規定があり、ギリシャ貨幣やローマ貨幣のままでささげることはできませんでした。そのためにも両替商の存在は礼拝をささげにきた人々にとって、便利でありがたい存在だったでしょう。また、境内を借りて商売する人々は当然、その売上金の一部を上納金として祭司に支払っていたことでしょうから、祭司との関係も良好でした。

 昔ある教会で礼拝の後、献金のかごからお金を取り出している人がいました。会計さんが驚いて、「何しているの?」と尋ねますと、その女性は恥ずかしそうに顔を赤らめながら、「実は礼拝のとき、千円献金したつもりが、間違って1万円も籠に入れてしまったの。それで9千円お釣りをもらおうと思って・・・」と言うのです。献金のお釣りを求めるのも変な話ですが、その言葉に嘘はないと判断した会計役員は、牧師に立ち会ってもらい、「今度から一人で悩まないで、牧師かわたしに相談してね」と優しくたしなめて9千円のお釣りを渡しました。彼女の教会にも、会堂の入り口辺りに両替人がいたら1万円と千円を間違うことはなかったことでしょう。この教会には両替人はいませんので、皆さんはこの後の献金の時には十分ご注意ください。

 人間関係を円滑にすることは大切ですが、礼拝の目的は、何よりもまず神との関係が清められることにあります。神聖な神の宮の庭に立つ人は神を畏れる者でなければなりません。ところがこの商人たちは、礼拝に来る人々の必要に応えるような顔をして、実は自分たちの儲けを増やす口実にしていました。これは神の宮を汚す行為に外なりません。そこでイエスは言われます。 「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」と。これはイザヤ書56:7 (旧約聖書1154頁)からの引用です。良い機会ですから、ご一緒に読んでみましょう。

「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き

 わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。

 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら

 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と。

 

 商人たちの存在によって祭司たちは堕落し、また神殿に来る人々の心も次第にお手軽な礼拝、便利な礼拝に馴らされてゆきます。両替商のおかげで献金はきちんとささげられます。鳩を売る店の前に立つ礼拝者もまた、罪の代償を自分のお金で贖い、主の宮に持って行くことができます。神殿の中に入ると、祭司の庭では犠牲の動物を焼く煙がもうもうと立ち込め、脂肪の焦げる匂いが辺り一面に立ち込めています。しかし、このように真剣な罪の悔い改めという緊張感の伝わってこない形式的で、心のこもらない礼拝を、神は決して喜んではおられません。

 イエスが最もお嫌いになるのはこのお手軽な礼拝です。いくら形は整っていても、礼拝をささげるという緊張が薄れてゆくことです。神の御前に恐れおののくことがなくなって行くことです。 イエスは言われます。「ここはわたしの家である」と。主の宮は主のものであって、お手軽な礼拝へと誘惑する魂の強盗の巣にしてしまってはならないのです。

 この教会は日本バプテスト連盟に所属する教会です。わたしは16歳のときから日本バプテスト連盟の教会に教会籍を置いてきました。これからもほかの団体に行く事など考えてもいません。ほかの教派が駄目だと言うのではありません。わたし自身日本伝道隊が経営する神学校で、さまざまな教派の学生たちと共に生活をしていましたから、他教派の優れている点、学ぶべき点をたくさん見てきましたし、また実際に他教派の教会で受けた実習を通して多くのことを教えられてきました。おかげで聖書も口語訳、新改訳、そして新共同訳など幾つもの日本語訳聖書に触れる機会が与えられました。讃美歌も教団讃美歌、聖歌、新生讃美歌を用いる機会が与えられ、それぞれに恵みを味わうことができました。だからと言ってわたしは他の教派の教会に所属しようとは考えません。なぜかと言いますと、神がわたしをこの日本バプテスト連盟の教会に仕えるようにと召されている、その召命感のためです。

 今朝、礼拝に来られた方の中には、いつかはこの教会でバプテスマを受けたい。また転入会したいと願っておられるかもしれません。或いは少しの間この教会で共に礼拝をささげ、落ち着き先が決まったら、導かれた教会に定着したいと祈っていらっしゃる方があるかもしれません。どうか、ご自分の思いではなく、主の導きに従ってください。

 とにかく、あなたが今主に礼拝をささげておられる教会はバプテスト教会です。バプテストは会衆主義です。バプテストは組織の創設者を持ちません。無名の人々に導かれてきた群れです。また誰か特定の人間を頭とする群れでもありません。人間が目立つ教会はともすれば魂の強盗を生む危険があります。教会こそわたしたちの帰るべきホームなのです。この教会は、「わたしの家」と言われる主イエス・キリストを頭とし、お互いを自分よりも優れた兄弟姉妹として尊敬し、神の愛をもって、信仰の交わり、伝道と訓練を喜ぶ群れです。わたしたちにとって仙川キリスト教会は、確かに「わたしの教会」です。しかし、厳密に言えば、「わたしの主イエス・キリストの教会」でなければなりません。「わたし」と、「教会」の間に「主イエス・キリスト」が抜け落ちたとき、わたしたちは魂の強盗に神への畏れと謙りの心を奪われて、形式的で、心のこもらないお手軽な礼拝に陥ってしまうのです。

 またイエスは、「わたしの家は祈りの宮」と言われました。教会は、お互いの消息を確認するところでもありますが、まず優先すべきは主に祈りをささげることが大切です。何を祈りましょうか。神を父と呼び、その栄光を崇めることです。罪の悔い改めと信仰を言い表すことです。日々の生活の苦しみ、悲しみを癒してくださいと祈るのです。神から伸ばされた赦しと慰めの御手にすがり、感謝と讃美をささげることです。

1 8節をご覧下さい。礼拝が整えられたことを一番喜ぶべき祭司長や律法学者たちはかえってイエスを逆恨みし、殺意を抱きました。この事件が引き金となって、イエスは後に彼らの手で捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架に釘付けられるのです。彼らもまた魂の強盗の一味に成り果てていたことの証拠です。商売人のために犠牲の動物も献金も汚されました。祭司たちも汚されてしまいました。では、いったいこれから礼拝に来た人々の罪は誰が清めてくれるのでしょう。神ご自身です。イエス・キリストが十字架に死んで下さったことによって、わたしたちは初めて、わたしたちの罪を贖う者は人間が用意するものではなく、神の独り子であるイエス・キリストであったことを知るのです。

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝、わたしたちに向けられた怒りは、一切の主であるあなたの怒りであるが故に、わたしたちは平安です。とっくに愛想尽かしされても不思議ではないし、文句を言えない立場なのに、あなたは罪びとのわたしたちに向かって、「わたしの家は祈りの家」と言って下さいます。あなたは今朝、この罪深いわたしたちに帰るべきホームを用意して下さっていました。今朝も、わたしたちを祈りの家に立ち返る入り口を閉じてはおられませんでした。

 御旨に適って礼拝を調えるために十字架に釘付けられてくださった主のみ救いの業に、ただただ感謝します。わたしたちは今赦されている者として祈ります。どうか、あなたの赦しを受けて、あなたの和解の御手にすがりますから、わたしたちを受け入れてください。あなたに対する関係をまず清めてください。そしてわたしの隣人との関係を、あなたの聖きみ言葉をもって豊かなものとしてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン

 


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