【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年6月27日

  神 を 畏 れ よ

マルコによる福音書11章27-33節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今日の聖書は、わたしたちに「権威」とは何かを教えています。広辞苑を見ると、「権威とは、他人を強制し、服従させる力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。その道で第一人者と認められている人」とあります。しかし、聖書によると、そのような権威は神にのみ属するものだと教えられています。人が人に与えることのできるものではないのです。使徒パウロは自分の使徒職を次のように説明しています。

 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤの信徒への手紙1:1)と。

 人は上にあるものを畏れ敬わなければなりません。祭司長も律法学者も長老たちも、あの時代、世間から尊敬を受けていましたし、事実ひとかどの人物でした。もっと謙虚になっていたら、神は彼らをもっともっと用いてくださったことでしょう。残念なことに彼らの目は神に向けられず、他人が何と思うかという自己中心の縄目から自由になれませんでした。

 主イエスは言われます、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカによる福音書12:4〜5)と。

 わたしたちの主が示してくださった自由の証は十字架に打ち貫かれた愛です。十字架に殺されるまで愛し抜いてくださったイエスの愛こそ、三日目の復活という出来事を通して祭司長や律法学者、長老たちに対して思いも及ばぬ勝利となりました。地上の権力者がどれほど個人の良心を縛るときがきても、主イエス・キリストの権威の前にひざをかがめる者から信仰の自由を奪うことはできません。わたしたちはどのような時代が来ても、「イエスは主」と言う告白をし、時がよくても悪くてもイエスのみ名を宣べ伝えることに心を注ぎ、祈りを一つにしましょう。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                        2004年6月27日

  神 を 畏 れ よ

マルコによる福音書11章27-33節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今、壮年有志によって日本バプテスト連盟を構成する諸教会に仕える四つの神学校の現状と課題について、詳しく伝えて頂きました。わたしたちはこれらの神学校で学ぶ神学生及び教職員の働きに感謝し、祈り、そしてささげものをもって支えたいと改めて主に約束する者です。わたしはこの機会に、現在教派を問わず、日本中にいったい幾つくらい神学校と呼ばれている伝道者育成機関があるかとキリスト教年鑑で数えてみましたところ、在校生1名という学校も含めて147あることが分かりました。そのの神学校に学ぶ神学生のためにもちろん祈りますが、同時に諸教派の神学生もまたこの国の魂の救いの為にその身を献げ、宣教の現場に遣わされるまで、日々祈りと研鑽を積んでいることを覚えて、彼らのためにも祈ることを忘れてはならないと思います。祈りと言えば、毎主日の礼拝5分前、わたしと司式者と奏楽者、そして証の奉仕者は隣の祈祷室で、心を合わせて祈ってから礼拝の御用につかせて頂いていますが、一人の姉妹がその祈りの中で欠かさずにささげる祈りの言葉があります。それは、「日本中の教会の礼拝、全世界の教会でささげられる礼拝に祝福があるように」との祈りです。わたしたちはともすれば、自分のこと、自分の教会のことだけを祈ってよしとしますが、彼女の祈りのスケールの大きさは、全世界の教会と、そのところで講壇に立つ牧会者の心に大いなる慰めと勇気を与えてくれます。主の目はこのわたしたち一人びとりに、この教会に、この国に、そして全世界の神に造られたものの上に注がれているのです。

 

 そこで今日与えられたみ言葉に聴きましょう。イエスがエルサレムに来て神殿の境内を歩いておられたとき、「何の権威で、このようなことをしているのか、だれが、そうする権威を与えたのか。」とくってかかる一団に出くわしました。その集団とは、「祭司長、律法学者、長老たち」でした。祭司長とはもちろん神殿において礼拝を指導する人ですが、ここでは政治的権威者という意味もあります。律法学者とは聖書の解き明かしをするラビと呼ばれている人ですが、ユダヤ教正統派として宗教的権威者と言うことができます。長老たちとは、神の名において地域社会を取り締まる権威者ということができます。つまり彼らの働きは国家全体に影響を与えるものであるわけです。その彼らがひとつになってイエスにくってかかったということは、イエスは政治的にも、宗教的にも、社会的にもこの国の根幹を揺るがすような、何か大変なことをしでかしたことになります。一体どんな大変な事件をイエスは引き起こしたのでしょうか。ここだけを読んだのでは何のことだか事情がよく飲み込めません。そこで少しさかのぼって聖書を読み直してみることにしましょう。15〜18節を見て下さい。どうやらイエスが神殿を清めたあの事件が原因であることが分かります。

 イエスは律法を、神から賜った、神のみ言葉として大切にすればこそ、神殿の境内を我が物顔で商売している人々によって、民衆の心が神から引き離されつつあることに深い悲しみを催されたのです。しかし、この道の権威者たちにとって、イエスがどんな良いことをしたかよりも、だれの許しを得て宮清めをしたか、どういう資格があってそれをしたのかということが問題なのです。律法に基づいて民衆を指導する祭司長、律法学者、長老たちにとって、自分たちの許しもなく聖書を引用して商売人を追い出したイエスの行為は、自分たちの顔に泥を塗るに等しいこと、由々しき律法違反、決して赦されない罪なのです。それで、イエスに噛みついたというわけです。

 ところが、イエスは反対に、彼らに向かって、「ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」と問い返します。ヨハネという名前は、新約聖書のあちこちに出てくるので、聖書を読みなれない人にはどのヨハネのことを指して言われたのか、分かりにくいと思いますが、マルコによる福音書1:8〜11、6:14〜29に詳しく紹介されているヨハネのことです。ヨハネという人はイエスの先駆けとなって人々の心を神に向けさせ、罪を認めて悔い改めた者にバプテスマを施し、救い主を待ち望むようにと教え導いた人です。彼は時の権力者ヘロデの手にかかって殉教しましたが、そのヘロデでさえ一目置く立派な預言者でした。民衆はみな彼を神から遣わされた預言者と信じていましたが、彼は預言者として立つにあたって、ユダヤ教指導者の任命を受けたわけではありません。また指導者たちも、彼にそのような権威を与えたわけではありません。イエス・キリストの質問は彼らにとって触れてもらいたくない、一番痛いところを衝かれたわけです。宗教家であってもこの世の基準で権威を重んじる人たちは、神に対する畏れを持つことをしないで、人の目を気にします。恐れます。答えに窮した彼らは、「分かりません」と言い逃れをするしかありません。

 今日の聖書は、わたしたちに「権威」とは何かを教えています。広辞苑を見ると、「権威とは、他人を強制し、服従させる力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。その道で第一人者と認められている人」とあります。しかし、聖書によると、そのような権威は神にのみ属するものだと教えられています。人が人に与えることのできるものではないのです。使徒パウロは自分の使徒職を次のように説明しています。

 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」

 (ガラテヤの信徒への手紙1:1)と。

 

 人は上にあるものを畏れ敬わなければなりません。祭司長も律法学者も長老たちも、あの時代、世間から尊敬を受けていましたし、事実ひとかどの人物でした。もっと謙虚になっていたら、神は彼らをもっともっと用いてくださったことでしょう。残念なことに彼らの目は神に向けられず、他人が何と思うかという自己中心の縄目から自由になれませんでした。

 ローマの総督ピラトは、イエス・キリストを尋問したとき、「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」と居丈高に言いました。しかし、イエス・キリストは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」とお答えになりました(ヨハネによる福音書19:10〜11)。

 

 祭司長、律法学者、長老たちは、みな神の名においてこの世の人々を指導する立場にありました。彼らには神の許であらゆる権威がありました。神殿を自由に歩くことが許されていました。しかし、ひとつの点で自由が制限されていました。それはイエス・キリストを受け入れる自由さを持っていなかったのです。

 主イエスは言われます、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカによる福音書12:4〜5)と。

 わたしたちの主が示してくださった自由の証は十字架に打ち貫かれた愛です。十字架に殺されるまで愛し抜いてくださったイエスの愛こそ、三日目の復活という出来事を通して祭司長や律法学者、長老たちに対して思いも及ばぬ勝利となりました。地上の権力者がどれほど個人の良心を縛るときがきても、主イエス・キリストの権威の前にひざをかがめる者から信仰の自由を奪うことはできません。わたしたちはどのような時代が来ても、「イエスは主」と言う告白をし、時がよくても悪くてもイエスのみ名を宣べ伝えることに心を注ぎ、祈りを一つにしましょう。

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今日は神学校週間を覚えて、この国の救いの必要を改めて教えられました。あの祭司長や律法学者のように、この世の支配者はあなたに反抗して人々の心を支配し、自由を奪おうとしています。イエス・キリストが言われたように、終わりの日に向かって、憎しみと不法がはびこり、多くの人の愛が冷えているようです。このような時代でも、あなたはわたしたちに希望を与えてくださいます。「恐れるな、わたしは主である。死んだことはあるが、見よ生きている」と勝利の宣言をしてくださいます。

どうか、わたしたちの心に人を恐れるのではなく、あなただけを畏れる勇気と愛を与えてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン


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