【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年7月4日

 収穫の時になったので

マルコによる福音書12章1-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 わたしたちの人生は、この世というぶどう園で働く労働の日々と言えます。しかもそのぶどう園は、神が何もかも整えてくださった神の畑なのです。しかし、わたしたちは次第にこの現実を忘れて、心の中心からその神がどんどん遠ざけられ、忘れ去られてゆきます。そしていつの間にかこの世界を動かしているのは自分だ。人生を思いのままに支配することができる者はわたしだけ、という幻想に捕らえられていきます。

 イエスは今朝、わたしたちに、「収穫のときが来た」と言われます。神は、わたしたちの人生の実りをわたしたちから求めるときが来ます。「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」とダビデ王は神を讃美し、また使徒パウロも、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマの信徒への手紙12:1)と勧告します。神の愛する独り子がこの世にこられたのに、多くの人々の手で捨てられました。この世の社会を形成する建築家たちはみな、イエスを役に立たない者として捨てました。イエスを捨てたのは2千年前の祭司長や律法学者、長老たちだけではありません。イエス・キリストは時代を超え、国を超え、あらゆる人種、身分、階層、世代の人々の手で十字架に捨てられたのです。しかし、神は人々が捨てたこの石を、世を救う礎、神の御国を建て上げる隅の親石として甦らせたのです。

 聖書は、「この方(イエス・キリスト)こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:10〜12)と言います。

 「収穫の時」がきました。神は今、あなたという恵みの実を御国の倉に取り入れるために、み子イエス・キリストをあなたの救い主として用意してくださいました。どうか今というとき、イエス・キリストをあなたの救い主と信じ受け入れてください。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2004年7月4日

 収穫の時になったので

マルコによる福音書12章1-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今読んでいただいた聖書は、主イエスが語られた譬話です。こんなに残酷な物語の中にもその深いところで神の愛と救いのメッセージが語られているのです。すこしだけこの物語を跡付けて与えられたメッセージに耳を傾けてまいりましょう。

 「ある人」とは、「ぶどう園の主人」であり、天地創造の主なる神。「農夫」とはイスラエルの民衆を指導していた祭司長、律法学者、長老たち。「ぶどう園」とは、イスラエルであり、ひいてはこの世界。次から次へと遣わされる「僕」とは預言者たち。最後に送り出された「愛する息子」とはイエス・キリストのことです。

 1節をご覧下さい。主人は農夫たちにぶどうを育てるために必要な全ての段取りを整えてこれを農夫たちに貸し与えました。彼らは完備したぶどう畑で安心して働くことができました。これは神がイスラエルを選び、守ってくださる一方的な愛であり、その指導者たちに寄せる神の期待の現われを示すものでした。主人はぶどう畑を貸し与えて旅に出かけます。ここに「旅に出かける神」が描かれています。関根正雄先生は、「マタイ福音書講義」という本の中で、「神は愛の関係の中に、本質的なもの全てを託して旅立っておられる」と書いています。別の言い方をすれば、神は人間の見えないところで一切のものを整えて、見えない愛と信頼とをもって人間を生かしておられるという意味です。指導者たちは、ぶどう畑にたとえられたイスラエルの人々を正しく導き、実らせるために貸与されたのです。彼らは指導者としての地位を確立するために大変な努力をしたことと思います。しかし、いったんその地位についてみると、それは彼らの自尊心をくすぐるに十分な報いがありました。民は彼らの命令に耳を傾けます。服従さえします。本来彼らはイスラエル人というぶどう園の所有者ではないのです。しかし、指導者たちは日々の充実感に酔いしれて、神が見えないことをよいことに−神は見ておられるのです−、賜った自由と権利を濫用し始めたのです。

 「収穫のときになったので」とは、「定められた時がきたので」と言う意味です。緊張する言葉です。神が定められたときの到来は、指導者たちにとって、世界は自分のものという幻想から呼び覚まされる時、主人と農夫という現実の関係に引き戻される時なのです。しかし、指導者たちはこの現実を認めず、幻想を現実のものにしようと主人に反抗し始めます。相次いで送られてくる僕たちを空手で追い返し、また侮辱し、殺害し、反抗は次第にエスカレートして行きます。主人はそれでも諦めずに愛する独り子を送って、翻意を促すのです。全く理解できないことです。もしこれが譬話でなかったら、主人は数多くの僕がこんな扱いを受けた段階で、あの悪い農夫たちに厳しい処置を加えたことでしょう。けれどもこの物語の主人はなおも忍耐し、愛する独り子を送りました。神はどこまでもお人好しなのです。一方農夫たちは主人の心を知らずに欲望を満たそうと、主人の愛子までも手にかけて殺害し、ぶどう園の外にほうり出してしまいました。悪い農夫たちは大変な誤解をしています。主人の子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると思い込んでいましたが、主人が健在であることを忘れています。怒りに燃えた主人は悪い農夫たちを滅ぼし、ぶどう園をほかの人に与えます。最初の農夫たちにはぶどう園を貸したとありますが、ほかの人には与えるとあります。意義深いものを感じます。

 物語はまだ終わっていません。この物語を読むわたしたちの疑問を先取りして答えるように、詩編118:22〜23を引用して、譬話の締めくくりとされます。この譬話を読んでいて、わたしたちは、「主人の愛子がイエス・キリストであるなら、悪い農夫たちに殺されたままではないか」という疑問を感じます。その疑問に答えるようにイエスは詩編を引用されました。建築士が役に立たないと捨てた石のように、悪い農夫たちは自分たちの欲望を満たすために、主人の子を邪魔者として殺してしまいました。しかし、主イエス・キリストは言われます。「あの捨てられた石、殺された主人の子こそ、実にわたし自身である。わたしはあなたたちの手で死ぬが、必ず甦るのだ」と宣言しておられるのです。「収穫の時」は、この詩編118:22〜23が成就するときなのです。十字架のときであり、復活の時なのです。

 民の指導者たちはイエスの譬話と引用聖句を聞いて、それは自分たちにあてつけて語られたものと悟りました。同じようにメッセージを聴いても、神がわたしの罪を悔い改めに導くために語って下さったとへりくだって聴くことのできる人は幸いです。しかし、彼らはイエスの教えを聞いても謙るどころか、「何も人前であてつけがましく言わなくてもよいのに」と怒りに燃えました。そしてこの方を十字架に殺してしまうのです。

 

 わたしたちの人生もまたこの世というぶどう園で働く労働の日々と言えます。しかもこの世は、神が何もかも整えてくださった神の畑なのです。しかし、わたしたちは次第にこの現実を忘れて、心の中心からその神がどんどん遠ざけられ、忘れ去られてゆきます。そしていつの間にかわたしたちの心の中心を自分自身が占め、この世界を動かしているのは自分だ。人生を思いのままに支配することができるのはわたしを置いてほかにないという幻想に囚われていきます。

 イエスは今朝、わたしたちに、「収穫のときが来た」と言われます。神は、わたしたちの人生の実りをわたしたちから求めるときが来ます。「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」とダビデ王は神を讃美し、また使徒パウロも、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマの信徒への手紙12:1)と勧告します。神の愛する独り子がこの世にこられたのに、実に多くの人々の手で捨てられました。神に選ばれ、立てられたはずの政治家、裁判官、教育家、財界、社会福祉事業家、また世の父親、母親など、この世の社会を形成するありとあらゆる建築家たちはみな、イエスを何の役にも立たない者として捨て去ります。イエスを捨てたのは2千年前の祭司長や律法学者、長老たちだけではありません。神の愛する独り子イエス・キリストは時代を超え、国を超え、あらゆる人種、身分、階層、世代の人々の手で十字架に捨てられたのです。しかし、神はイエス・キリストをいつまでも空しく墓の中に、また陰府の世界に引き渡すことはなさいません。人々が捨てたこの石を、神は神の御国を建て上げる隅の親石として甦らせたのです。

 使徒ペトロは言います、

「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあの、ナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:10〜12)と。

 

「収穫の時」がきました。神は今、あなたという恵みの実を御国の倉に取り入れるために、み子イエス・キリストをあなたの救い主として用意してくださいました。どうか今というとき、イエス・キリストをあなたの救い主と信じ受け入れてください。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝もあなたのみ言葉を心から感謝します。わたしは今日まで、あなたがわたしの人生設計の上で、なくてならない親石であることを知らずに、あなたを必要のない者、あってもなくてもどうでも良いものと考え違いしていました。この無知、無関心こそ大きな罪でした。こうしてわたしは知らずにあなたを十字架につける共犯者になっていました。

けれども、あなたは主の十字架こそ、わたしという罪人を受け入れて下さる「収穫の時」であったことを知りました。イエス・キリストが十字架に死んで甦ってくださったことによって、わたしの罪は贖われていたことを心から感謝します。今こそわたしはあなたを救い主と信じます。罪を悔い改めます。どうかこのわたしを受け入れてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン


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