【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年7月18日

 命を懸けた譬話

ルカによる福音書15章11〜32節

メッセージ 篠原健治兄

 この譬え話には、5名の登場人物が出てきます。

第1の登場人物−弟   

誰しも、額に汗して働いたお金は大切にします。しかし、この弟のように棚からぼた餅のようなお金が与えられたら、私たちは自分自身を自制することができるでしょうか。さて飢饉が襲ってきて、弟がやっとの思いで見つけた仕事は、ユダヤ人にとって最も忌み嫌われる豚の世話だったのです。弟は仕方なく、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたのです。弟は自分が犯してきた罪の数々を思い出し、父の元に帰ります。

第2の登場人物−父   

放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子を父は暖かく迎えるのです。この父の態度のギャップに、私達は、驚きと感動、また、ある種の不可解さを感じます。

第3の登場人物−兄   

兄は久しぶりに帰ってきた自分の弟を歓迎するどころか、嫉妬すら覚えます。

第4の登場人物−それはこの譬え話を聞く「私達一人一人」です。

ある時は、自分を「弟」に、ある時は、「兄」に重ね合わせるからです。「放蕩息子の譬え」は、聞く私達一人一人を神の前に引き出し、自分の犯し続けた罪をハッキリさせる役割を果たしています。

第5の登場人物−主イエス   

この譬え話を語っているのは、「主イエス」です。主イエスはこの譬話を通して、義なる神が心から悔い改める罪人を裁かずに赦して下さることを言います。一方、義なる神の「赦しの根拠」はどこにあるのでしょうか。弟と兄が何の裁きも受けずに赦される為には、犯した罪に対して代償が支払われるということ以外に「罪の処理」はあり得ません。その代償が主イエスの十字架なのです。神は「裁きの矛先」を弟にも、兄にも、譬え話を聞く私達に向けられなかった。神は「裁きの矛先」をご自分の独り子−主イエスに向けられた。主イエスは、弟、兄、譬え話を聞く私達一人一人の罪を「十字架」上で担うという「壮絶な覚悟」でこの譬え話を語って下さった。まさに命を懸けて、主イエスはこの譬話を語ったのです。−ルカによる福音書15:24−

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2004年7月18日

 命を懸けた譬話

ルカによる福音書15章11〜32節

メッセージ 篠原健治兄

<序>

24:この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。

 有名な放蕩息子の「譬え」です。この「放蕩息子の譬え」は「善きサマリア人の譬え」と並んで、ゴールデン・テキストと言われ、金のように輝き、朽ちない話として、現代においても、光り輝いています。有名であるということは、だれでも知っているということです。しかし、キチンと理解されているかは、別問題です。

 このたとえ話は、「神の愛」を主イエスが分かり易く伝えたものだというのが一般的理解です。もちろん、そうなのですが、果たして「神の愛」だけを伝えるものだけのものなのか。若干へそ曲がりの人−は、最終的に父が放蕩息子を赦してくれるのであれば、それならオレは、今後も放蕩の限りを尽くすぞ。罪を犯し続けても、神は最終的に赦してくれる。それなら、死ぬ瞬間に「ごめんなさい」と言えばすむ。こんな都合の良い話はないのではないか。このように、考える人は少ないかも知れないが、いないでもない。

一方、私達−キリスト者−でも、このぐらいの罪ならいいだろう、どうせ神様は愛の方で赦してくださるから、今回(例えばキセルまど)は目をつぶっていただこうと、タカをくくっていることはないのか。「へそ曲がりの人」、「このぐらいはいいや」と考える両方に共通するのは、罪に対して鈍感な人です。

 このように考える人には、適さない「たとえ話」なのか。主イエスのたとえ話には、限界があるのか。 限界がある譬え話が、本当にゴールデン(輝く)話なのか。そのような、疑問が湧くのです。

 そこで、今回このたとえ話に出てくる登場人物、関わる人物、5名の人物が出てくるのですが、その一人一人にスポットを当てながら、主の「譬え話」に耳を傾けていきたいと思います。

 

<承>

1.第1の登場人物:11節から19節−弟

11:「ある人に息子が二人いた。
12:弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

当時のユダヤ教社会では、このような生前贈与が律法でも認められ、兄2/3、弟1/3の割合で分配されていた。

13:何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

 兄が2/3、弟が1/3ですから、不公平−。頭に来た弟は財産を、現代で言えば「チケットショップ」ですべて換金して、遠い国に旅立った。そして、放蕩の限りを尽くして−飲めや歌えのドンチャン騒ぎ−財産を使い果たしてしまった。いわゆる「飲む・買う・打つ」で、身を滅ぼす男性は、今に始まった訳ではなく、主イエスの時代から、すでにいたことがよく分かります。だれでも、額に汗して働いたお金は、大切にします。しかし、棚からぼた餅、あるいは濡れ手に粟のようなお金が、もし自分に与えられたとしたら、果たしてどこまで私たちは、自分自身を自制することができるでしょうか。

 ほんの15年前、バブルに狂ったあの時代を思い出して下さい。そして、今日少しは光は差したとはいえ、庶民には好景気はなかなか実感できない−。相変わらずリストラがあり、倒産、失業、自殺がある−。15年前、だれが今日のような状態を予想していたでしょうか。

14:何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

いつまでも、遊んで暮らせる訳ではありません。弟に飢饉が襲ってきます。

15:それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

 飢饉の中、この弟がやっとの思いで見つけた仕事は、ユダヤ人にとって最も忌み嫌われる豚の世話だったのです。豚の臭さ、鼻を突くにおいの中での仕事です。

 そして、惨めさに拍車がかかります。

16:彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

 だれも、この弟に食べ物すら与えてくれない。弟は、仕方なく、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたのです。人間としての尊厳も地に落ちました。豚と同じ−。惨めであります。羽振りが良い時は「社長、社長」と寄ってきた人も、会社が倒産すると手のひらを返したように、人は去っていく。よく聞く話です。惨めであります。

 幸いに、今の私たち日本人は、食べることに苦労することは、ほとんどありません。しかし、精神的な面(霊的な面)は、どうでしょうか。「目標」を見失い、「生きがい」を失ってさまよっている人々。「夢」とか「希望」なんてこれっぽちもない。大人自身が、「目標」を見失い、「生きがい」を失ってさまよっている。ましてや子供達が「夢」とか「希望」なんて持てるはずがない。「不安」「絶望感」が私たちを取り囲んでいるのです。確かに、今の私たち日本人は、この弟のように「肉体的」には豚の食べるいなご豆を食べるということはないでしょう。

 しかし、私達は食べるだけで満足する豚のような存在ではないのです。私達は人間です。「夢」や「希望」があるからこそ、人間が人間らしく、人間の尊厳を持って生きていくことができるのです。もし、私達に「夢」や「希望」がなかったとしたら、その瞬間に人間でなくなってしまうのです。そして、「不安」や「絶望」から逃れるために「一時的な目先の楽しみ」「自分だけの幸せ」を求めているとしたら、私達人間は、霊的には全く惨めな存在となります。なんら豚とは変わりはない。惨めであります。

17:そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

「そこで、彼は我に返った」−「彼は」というところに「私は」と入れてみて下さい。「そこで、『私』は我に返った」何か迫ってくるものがあります。

18:ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19:もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

 

弟は、今まで自分が犯してきた罪の数々を思い出します。放蕩だけではない。金にものを言わせて人を欺いたこと−。傲慢だった自分、人を平気で裏切った自分、人を見下していた自分−。弟は、今まで自分が犯してきた罪の数々が走馬燈のように蘇ります。 そして、弟は、涙ながらに告白します。

18:ここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19:もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20:そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

 放蕩の限りを尽くしたこの弟は、飢えでフラフラになりながら、父の元に帰ります。それは、さまよえる世界、不安と絶望の世界から、抜け出そうとする私達の姿と重なります。

 

2.第2の登場人物−父

20:そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21:息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22:しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23:それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24:この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

 

 この例え話を初めて聞いた者は、この父親の態度に衝撃を受けると言われます。私も、高校生の時、この例え話を初めて読んだ時、驚きを覚えました。だれしも、そうでしょう。 自分の財産を使い果たして帰ってきた息子を、この父親は無視するようなことはしませんでした。なんと「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。父の方から、息子を見つけ、走り寄ったということです。さらに、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と息子が言った後、「そうか、やっと分かったか」と言うのかと思いきや、そういったことは一切言ませんでした。なんと、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言うのではありませんか。 そして、「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」そして、祝宴を始めのです。

 放蕩の限りを尽くした息子、それは罪の限りを尽くした者でもあります。その罪の限りを尽くした者を最高にもてなす父親−。この父親は、親バカを超えた親バカ−。お人好しを超えたお人好し−であります。私たちは、放蕩の限りを尽くした息子とそれに対する父の態度のギャップに、驚きと感動、また、ある種の不可解さを感じるのです。

 

3.第3の登場人物−兄

25:ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26:そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27:僕は言った。『弟さんが帰って来られました。
無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28:兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

 

 兄は戸惑い、怒ります。兄の主張は、次の通りです。

29:「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30:ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

 しかし、父親は予想外の答をします。

31:すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32:だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 兄の主張は一見すると正当性があるよう思われます。しかし、よく見ると、この兄はいくつかの勘違い−愛のなさ−という罪を犯していると言えます。

父親は次のように答えています。

 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」

 

この弟は、確かに放蕩の限りを尽くしたかも知れない。罪を犯したかも知れない。しかし、兄の財産まで使い果たした訳ではないのです。ですから、父親は、確かにこう兄に語っています。

 「わたしのものは全部お前のものだ」と。

さらに、兄は久しぶりに帰ってきた自分の弟を歓迎していません。父親が指摘します。

32:「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

兄は久しぶりに帰ってきた自分の弟を歓迎するどころか、嫉妬すら覚えているのです。

 キリスト者が好きな御言葉の中の一つに、ローマの信徒への手紙12:15がある。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

私たちは、「泣く人と共に泣く」ことはできるかもしれない。しかし、心から「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことができるか。

 <例>自分と同期に入社した者が、先に出世した。口では「おめでとう」と言っていても、心の中で「自分ではなく、何であの人が」という思いが渦巻いていないか。目には嫉妬の炎がメラメラと燃えている。よくあることです。私達は、この例え話に出てくる「弟」と「自分」を重ね合わせることはあると思います。しかし、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことができない兄−。私達は、心の奥底で嫉妬の炎に燃えている「兄」と「自分」とを重ね合わせることもできるのです。

 

4.第4の登場人物−それはこの譬え話を聞く「私達一人一人」であります。

 主イエスは、例え話の天才です。

 特に、この「放蕩息子の譬え」を聞いた者は、他の譬え話は忘れたとしても、心に深く残るのがこの例え話です。それは、ある時は、自分を放蕩の限りを尽くした、罪を犯し続けた弟に重ね合わせ、ある時は、自分を「喜ぶ者と喜べない」兄に重ね合わせるからです。

では、だれにでもこの弟または兄と共通点があるからとい理由だけで、この例え話が私達の心に残るのでしょうか。また、ここに出てくる父親が「天の父なる神」であるという解釈が一般的です。罪人を、徹底的に赦す神−。自ら駆け寄って、罪人を赦す神−。天の父なる神は、それほどまで「愛の方」であるということをこの譬え話は語っていると、一般的には解釈されています。

 しかし、最初に述べましたように、へそ曲がりの人は、最終的に父が放蕩息子を赦してくれるのであれば、今後も少々の罪を犯してもOK、OK−。死ぬ瞬間に「ごめんなさい」と言えば神様は最終的に赦してくれる。こんな都合の良い話はないのではないか。さすがは、「愛の神!」(拍手!) ですから、下手をすると、「死ぬ間近になって、バプテスマ(洗礼)を受ければいいや」と考える人が出てきてもおかしくないのです。

 果たして、そのような疑問を起こさせるような例え話が、例え話の中の例え話なのか。本当に光り輝くゴールデンテキストなのか。そのような疑問が湧いてくるのです。いくつかの疑問が残るにせよ、この「放蕩息子の譬え」は、聞く私達一人一人を神の前に引き出し、自分の犯し続けた罪をハッキリさせる役割を果たしているのです。

 

<転>

 ところで、キリスト教の神は「愛の神」であります。「愛の神」である反面、怒り、「裁く神」でもあります。聖書全体を通読すると、神が人間を裁く場面が数多く出てきます。 なぜ、「裁く神」でもあるのか−それは、神が義(正義)なる神だからです。正義なる神は、小さな罪を絶対に見逃しません。

私達が、気づかない罪ですら、キチンと把握される神なのです。勘違いして欲しくないのです。神は「裁く神」でもあるのです。放蕩の限りを尽くした弟が悔い改めて赦されるということは、「神の愛」と言えば言えますが、「正義なる神」にとっては赦し難いことです。しかし、 神が罪を罰するという面が曖昧になると、それは無分別な愛になります。神の愛は無分別なほどに、それほどに曖昧なものなのか。確かに、弟も兄も、形は違っても、罪は犯しているのです。弟と兄の罪、そして、この譬え話を聞く私達の罪は、だれによってどこで処理されるでしょうか。

 

 そこで、第5の登場人物−忘れてならない最後の登場人物が「主イエス」であります。

 この例え話を語っているのは、他でもない「主イエス」です。11節をごらん下さい。

   11:また、イエスは言われた。

この譬え話は、2節3節を読んで分かるように、罪人と食事をする主イエスを批判する律法学者、パリサイ人に向かって語られたものです。さらに、現代に生きる私達、一人一人にも語られているのです。そして、私達の心に残り、深い感動を覚える話なのです。主イエスは、この譬え話を通して、義なる神が、心から悔い改める罪人を裁かずに赦して下さる、ことを語っています。それでは、正義なる神の「赦しの根拠」はどこにあるのか。

赦されるとは、弟、兄の犯した罪が、この弟と兄以外のどこかで、処理されなければならない。もし罪の処理が曖昧であれば、義なる神であることと矛盾するからです。 罪が罪としてきちんと断罪され、しかも帳消しにされるものでなければなりません。つまり、弟と兄が何の裁きも受けずに赦されるためには、犯した罪に対して、何らかの代償が支払われるということ以外に「罪の処理」はあり得ないということです。

 

<結>

 その代償が、主イエスの十字架なのです。

 神は「裁きの矛先」を「怒りの矛先」をこの弟には向けられなかった。

 神は「裁きの矛先」を「怒りの矛先」をこの兄に向けられなかった。

 神は「裁きの矛先」を「怒りの矛先」を譬え話を聞く私達に向けられなかった。神は「裁きの矛先」を「怒りの矛先」をご自分のひとり子−主イエスに向けられた。

 

 本来なら、神の「裁きの矛先」「怒りの矛先」は、譬え話を聞く罪人なる私達に向けられるべきであります。たとえ、譬え話を一度も聞いたことがなかったとしても、私達は素直に「喜ぶ人と共に喜べない」、むしろ「嫉妬」で相手を心の内で裁くという罪を何回も繰り返してきた。

 神の「裁きの矛先」「怒りの矛先」は私達ではなく、主イエスに向けられたのです。主イエスは、弟、兄の罪を担う、譬え話を聞く私達一人一人の罪を「十字架」上で担うという、「壮絶な覚悟」でこの譬え話を語って下さった。

 まさに、命を懸けて、主イエスはこの例え話を語ったのです。ですから、主イエスの例え話は、そのへんにある単なる譬え話とは、根本から、全く違うのです。ですから、主イエスの譬え話は、私達の心に深く刻み込まれるのです。主イエスは、あの十字架上で何と言われて、最後息を引き取られたか。

 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」この譬え話の「弟」は、放蕩の限りを尽くしていた時、自分が、神の前で何をしているのか知らなかったのです。この譬え話の「兄」は、弟に嫉妬している時、自分が、神の前で何をしているのか知らなかったのです。この譬え話を聞く「私達一人一人」は、自分が、神の前で何をしてきたのか、知らなかったのです。主イエスは、弟、兄の犯した罪を担う、この譬え話を聞く、私達一人一人の罪を十字架上で担う、「私は死ぬから、あなたは生きなさい」という壮絶な「決意」のもと、主イエスはこの譬え話を語られたのです。

 私は、祈りの中でこの説教を準備していた時、主イエスがあのゴルゴダの丘の十字架 上から、この「放蕩息子の譬え」を話しているようでならないのです。もちろん、聖書を見ると、パリサイ人、律法学者を相手に語っているのです。しかし、主イエスは 十字架上で、この「弟」「兄」そして「譬え話を聞く私達一人一人」のことを思いながら、語っているようでならないのです。あの十字架上で、横腹を槍で刺されながら、弟のことを−あの十字架上で、手に打たれた釘の痛みに耐えながら、兄のことを− あの十字架上で、壮絶な痛みに耐え、血を流しながら私達一人一人のことを− 愛し、語って下さっている。

今、主イエスが、十字架上で、私達一人一人のことを思いながら、まさに命を懸けてこの譬え話を語って下さっているのです。私達は、その主の十字架を下から見上げるだけ−。それでいて、主イエスは、心から喜ばれている。それでいて、主イエスは、心からうれし泣きされている。なぜなら、私達、一人一人が、今「悔い改め」「天の父の元に帰っていこう」としているからです。

 主イエスが、今まさに十字架上で、私達一人一人のことを思いながら、まさに命を懸 けてこの譬え話を語って下さっている。主イエスが、十字架上で血を流しているお姿を目撃したとき、私達は、「最終的に父が放蕩息子を赦してくれるのであれば、少々の罪を犯してもOK」とか「死ぬ瞬間に『ごめんなさい』と言えば神様は最終的に赦してくれる」とか「死ぬ間近になって、バプテスマ(洗礼)を受ければいいや」などいう自己中心的な考えは、呆気なく吹っ飛んでしまいます。主イエスは、十字架上から、私達一人一人を見つめながら、涙を流しながら、次のように語っているのです。

 

24:この者は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。

 祈ります。

<祈り>

 天の父よ、私たちは、まさに「放蕩息子」でありました。 また、私達は隣り人を「嫉妬」という刀で、殺してしまうほど罪深い者でした。 しかし、天の父は、そのような罪深い者を、遠くから見つけ、抱きしめて下さる方です。 このように罪深い私達が、天の父によって見つけられ、天の父によって愛されるのは、主イエスの十字架の犠牲があってのことです。 主よ、感謝いたします。 主よ、譬え話に感謝いたします。 主よ、十字架に感謝いたします。 この祈りを主イエスキリストの御名で祈ります。    アーメン。


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