【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年8月8日

「 祝福のささげもの」

マルコによる福音書12章38-44節

高橋淑郎牧師

 

 今日はまことの礼拝とは何かを学ぶよい機会です。クリスチャンの中にも、しばしば「礼拝する」とか、「礼拝を守る」と言う人がいますが、本当のところは、「神に礼拝をささげる」、または、「神に栄光を帰する」と言うのが正しいのです。なぜなら、礼拝の中心は、「み言葉(メッセージ)に聴くこと」と、「み言葉に対する応答として、感謝の心をささげる」ことにあるからです。ここにそのお手本を見ることができます。

 主イエスは人々が自由な心で献金している様子を見ておられました。金持ちは金持ちなりに、貧しい人は貧しい人なりに、皆神への感謝をもって献げています。そんな中で、イエスは一人の極端に貧しい女性が献金している姿に目を留めました。他の人は余裕の中からその一部を献げたのですが、彼女は手元にあるすべてを献げたのです。金額としては微々たる物です。しかし、それは彼女にとって生活費の全てだったのです。金額が問題ではないのです。神への感謝の有無こそが問題です。主イエスは彼女の神への一途な(感謝の)心を見て取り、祝福の眼差しを向けられたのです。バルバロ訳新約聖書(ドン・ボスコ社)、マルコ12:44の脚注には、「善い業の価値は、それを行う人の心の愛にかかっている」と説明が加えられています。彼女の命を削るような献げものとその心を主はしかと見届けてくださいました。詩編86:1、11(旧約聖書 p.923)に次のような美しい祈りの言葉があります。

 「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。」、「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。」

 この女性の後姿を追いながら、主は12人の弟子たちに、そして今このメッセージを読んでいるあなたに向かって、この女性に学べと言っておられるのです。願わくは、あの貧しい女性に向けられたと同じ眼差しが、皆さん一人一人の背中を追いかけてくださることを。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2004年8月8日

「 祝福のささげもの」

マルコによる福音書12章38-44節

高橋淑郎牧師

 

今日の聖書の箇所には主イエスの眼差しの厳しさと優しさが見られます。イエスはわたしたちのささげる礼拝に対してどのような眼差しを向けておられるでしょうか。

イエスは人々に、「律法学者に気をつけなさい」と言われました。律法学者の何に気をつけるのかと言うと、彼らの高慢と偽善だというのです。最近ある人から「つもり違い十か条」という面白いものを頂きました。皆さんにもご紹介しましょう。

一.高いつもりで低いのは  教養
二.低いつもりで高いのは  気位
三.深いつもりで浅いのが  知識
四.浅いつもりで深いのが  欲望
五.厚いつもりで薄いのは  人情
六.薄いつもりで厚いのが  面の皮
七.強いつもりで弱いのは  根性
八.弱いつもりで強いのは  自我
九.多いつもりで少ないのは  分別
十.少ないつもりで多いのが  無駄

 

 「つもり十か条」と言うよりも「つもり十誡」と言えるかもしれない耳の痛いことばかりです。イエスが当時の民衆に律法学者を反面教師のように見立てているのも、律法学者の「つもり違い」を指摘するためであったと言うことができます。「長い衣」はもともと祭司のための儀式用の服(出エジプト記31:10)でしたが、いつの頃からか律法学者も自分たちの職業を権威付けるために身に着けて、それも会堂の中だけならまだしも街中を歩き回っていました。広場とは無人の野原と言うよりも市場のようなにぎやかな場所のことです。仙川駅前の商店街を歩いていて、通りすがりに大きな声で、「○○先生、いつもお世話になっています」と挨拶をする声が飛んできたとき、たぶん周りの人の目は一斉に、挨拶を受けた人に注目するでしょう。普通なら恥ずかしくて知らぬ顔をするか、道の真ん中で大きな声で挨拶はやめてほしいとたしなめることでしょう。ところが律法学者はわざわざそういう所に行って誰か挨拶してくれる人はないかと期待しながら歩いていたようです。

 39節はよく誤解される箇所です。「聖書にこう書いてあるからわたしは一番後ろの席に座ります」と言う人がいます。でも、よく読んでください。宴席では確かに上座と書いていますが、会堂では「上席」と書かれているのです。これは前の方の席と言う意味ではありません。その日聖書の説き明かしをする人や今で言うと司式者のように礼拝の進行役である会堂司のために設けられた講壇の椅子のほかに、偉い先生のために用意された特別席のことなのです。「やもめの家を食い物にし」とは、41節以下に実例が詳しく書かれていますので、その時にお話します。見せかけの長い祈りとは、読んでそのまま理解できるでしょうから、説明の必要がないでしょう。とにかく、律法学者のつもり違いは、自分は特別なもの、だから大衆もそれに相応しく遇するのが当たり前と言う偽善と高慢にあるのです。だから、イエスは、「彼らの死後に用意された神の審判は人一倍厳しいものがある」と警告しておられるのです。

 警告は厳しくても、まだ望みが絶たれたわけではありません。罪の増し加わるところに恵みも増し加わります。わたしたちの神には赦しがあるのです。誰でもこのみ言葉を読む人が自分の高慢と偽善に目覚めて悔い改めさえすれば、救われるのです。イエスの厳しい眼差しのこもった言葉は、罪びとを突き放す意味ではなく、「だから心へりくだり、わたしの許に来なさい」という招きのしるしなのです。

 

 次に主イエスの慈愛に満ちた眼差しを見ることができます。今日はまことの礼拝とは何かを学ぶよい機会です。クリスチャンの中にも、しばしば「礼拝する」とか、「礼拝を守る」と言う人がいますが、本当のところは、「神に礼拝をささげる」、または、「神に栄光を帰する」と言うのが正しいのです。なぜなら、礼拝の中心は、「み言葉(メッセージ)に聴くこと」と、「み言葉に対する応答として、感謝の心をささげる」ことにあるからです。ここにそのお手本を見ることができます。イエスの眼差しは誰に向けられているのでしょうか。一人の貧しいやもめに対してです。日本語でやもめと言う場合、それは男子にも女子にも当てはまりますが、ここでは原文を見ると、女性形で書き進められていますので、夫に先立たれた女性の物語と言うことができます。イエスの時代、エルサレムに建てられていた神殿は誰もが自由にどこにでも出入りできたわけではありません。厳しい制限が設けられていました。

 まず神殿には二つの部屋があり、一番奥の部屋は至聖所と言い、そこには大祭司だけが入って、全国民の罪をとりなして祈るのです。手前には聖所と呼ばれている神聖な部屋があります。そこには祭司だけが入って民が携えてきた犠牲の生き物や感謝の供え物を受け取り、切り捌いたり、焼き尽くしたり、ふるい分けたりという礼拝行為をします。この神殿の建物の外側にイスラエル人の男子だけが入ることが許されている庭があります。そのすぐ外側に婦人の庭があります。イスラエル人の女性はそこまで入ることができます。しかし彼女たちも、そこから中に入ることができません。一番外にある庭は異邦人の庭といって、異邦人はそこでしか礼拝をささげることができません。

 この物語はその婦人の庭での出来事です。この庭には13箇所にわたって献金箱が用意されていました。箱の真ん中には羊の角が開いた方を上にして取り付けられています。この献金箱だけは自由な金額を自由な金種でささげることができました。この献金の使用目的は神殿の改修工事や貧しい人々への援助のためです。わたしたちの教会のように、ちゃんと献金袋が用意されているわけではありませんから、ラッパのような羊の角の入り口からむき出しのまま、ある人は金貨を、ある人は銀貨を投げ入れ、そのお金が快い響きを立てて箱の底に落ちて行く音を楽しみながら思い思いに献金して家路についたことでしょう。イエスは人々が献金する様子をごらんになっていましたが、そうした中に、一人のやもめのレプタ コイン2枚をそっとささげる様子に目を留め、弟子たちの注意を喚起されました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と。

 イエスは何もお金持ちがたくさん献金したことを非難していらっしゃるわけではありません。お金持ちはお金持ちなりに誰かと相談したわけではなく、自分で決めたとおりに感謝をもってささげたのです。それはそれで祝福されるでしょう。しかし、あのやもめさんはそれ以上に神の祝福に与ると言われたのです。なぜでしょう。他の人は余裕の中からその一部を献げたのですが、彼女は生活費のすべてを献げたからだと言われるのです。これはちょっと真似のできることではありません。わたしなども正直言って、有り余る中からとは言わないまでも、生活費全部を献げたと言える自信はありません。1レプトンはギリシャ通貨の貨幣で(新共同訳聖書巻末の度量衡では「ローマ貨幣」とありますが、これは間違いだと思います)、1デナリの128分の1の価値です。当時自由労働者の日当が1デナリですから、彼女は2枚合わせても64分の1デナリ分しか持っていなかったのです。それが今彼女の手元にある全てです。せめて半分の1レプトンだけ献げて、1レプトン残しておいてもよかったのではと考える人がいます。ところが律法はそれを許さないのです。貧しい人のため、また神殿の改修工事の費用に当てる目的の、しかも自由献金箱であるにもかかわらず、律法学者たちの手で、「1クァドランスに満たない献金は神への冒涜である。」という掟を作っていたのです。つまり1レプトンでは献金として受け付けてもらえないと言うことです。40節の、「やもめの家を食い物にし」と言われた律法学者に対する非難の言葉の意味はこれです。彼女はけなげにも、この掟を忠実に守るために、生活費の全てを献げたというわけです。全く泣けてきます。ドン・ボスコ社から出版されたバルバロ訳新約聖書、マルコ12:44の脚注には、「善い業の価値は、それを行う人の心の愛にかかっている」と説明が加えられています。彼女の命を削るような献げものとその心を主はしかと見届けてくださいました。詩編86:1、11(旧約聖書 p.923)に次のような美しい祈りの言葉があります。

 「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。」、「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。」

 極端に貧しい中で、しかも御名を畏れる一筋の心で、まさに命を削るに等しい献金をしたこの女性に対する主キリストの眼差しは祝福に満ちていました。「一筋の心」とは、神に対するあふれる感謝のあまり、他人の目を意識するゆとりもなく、明日のことなど考える余裕もなく、ひたすら神を畏れ敬い、ただ神にのみ信頼を置くということであります。

 この女性の後姿を追いながら、主は弟子たちに、そして今朝この仙川キリスト教会の会堂で礼拝をささげるわたしたちに、この女性に学べと言っておられます。皆さんはこの礼拝を終えると再び、それぞれの持ち場、立場に遣わされて行きます。願わくは、あの貧しいやもめに向けられたと同じ眼差しが、皆さん一人一人の背中を追いかけてくださることを。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝もみ言葉のゆえに感謝いたします。どうぞ今日から始まる一巡りの週もわたしたちの心を支え、あなたのまことの中で一筋の心としてくださいますように。清めてくださいますように。

どうぞ、ここから散らされ、あなたの御心のままに遣わされて行く兄弟姉妹の背中を、あなたの眼差しが追い続けてくださいますように。

そして、次週再びこの主イエス・キリストの家、仙川キリスト教会の交わりの場に招きよせてくださいますように。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン


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