【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年8月15日

忍耐は勝利」

マルコによる福音書13章1-13節

高橋淑郎牧師

 

 教会が教会として存在を許されるのは、そこに集められている人々が、見るべきものを見ているとき、聴くべきものを聴いているときです。「見るべきもの」、とは何を見るのでしょうか。この教会に、目立たないけれども黙々と主に仕えている信徒のあることを見逃してはならないのです。その信仰に学ぶことです。「聴くべきこと」、とは何でしょうか。もちろん講壇から取り次がれるメッセージに聴くことです。同時に、聴いたメッセージを心に留めて静かに、そして目立たないけれども、常に主に信頼して祈っている忠実な神の僕こそがこの教会を支えていることを忘れてはなりません。そうした敬虔な神の人の信仰姿勢と祈りの声に耳を傾けなければならないのです。

 イエスは世の終りの時がいつかを知りたがるわたしたちに、「それを詮索する以上に、あなたたちのなすべきもっと大切なことがある。神がお定めになったその日、その時がいつきても良いように、心の目を覚まして備えていなさい。」と教えます。その日、その時は神が定められたカレンダーです。戦争も地震も飢饉も、みな恐ろしいことだが、それはまだ終りのときの前兆に過ぎないと主イエスは言われます。神の定められた終りの日、神に反抗する者のために用意されている苦しみはその何倍、いや何十倍も恐ろしいものなのです。

 ですから、キリストの弟子であるわたしたちはこの世の動きに右往左往するのでなく、むしろ、この世の人々に向かって、「神は生きておられること、神はこの世を罰するためにではなく、救うために遣わされた十字架と復活の主イエス・キリストの福音を信じるように、罪を悔い改めよ」と、宣べ伝えることです。しかし、それは簡単なことではありません。当然のように迫害されます。主のみ名のゆえに辱めを受けることもあるでしょう。見えるものに心動かされやすいわたしたちですが、聖霊の導きを頂きながら、見えないものに心の目を注ぎ、神のご計画を信じ、忍耐をもって福音の宣教に励み、人々の救いを祈り求めるものでなければなりません。教会の勝利の道はここにあるのです。

 
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                     2004年8月15日

忍耐は勝利」

マルコによる福音書13章1-13節

高橋淑郎牧師

 

 主イエスはその日の全財産であった2枚のレプトン銅貨を神にささげた貧しいやもめの礼拝姿勢に甚く感動し、弟子たちに向かって彼女に学べと言われました。このような聖書の物語に触れるとき、わたしたちはつい、これは作り話ではないかとか、とても真似のできることでないからと右から左に聞き流してしまいます。挙句の果てには、「彼女はその晩どうやって食べ物を手に入れたのだろうか、こんな無謀なことをした彼女に感心するイエスは無責任だ。」と、イエスを非難する言葉を口にする人もいます。それは違います。彼女を祝福する神のみ子イエスは彼女の生涯に責任を持って下さるお方です。イエスはわたしたちに期待しておられるのです。「わたしもこの女性の信仰に学んで、神さまの愛にかけてみよう」と立ち上がってくれる人を待っておられるのです。

 しかし、12弟子たちもこの時はまだの御心がよく分かっていなかったようです。これから数日の間、エルサレムを離れるに際して、彼らの目はあのやもめの信仰ではなく、美しくも荘厳な神殿と神殿を支える石垣に目が奪われていました。神殿の石垣全体の長さは23m、高さ3m、一つの石の厚みは2.6mあり、100トンの荷重に耐えられるものでした。弟子たちの目には実に頼もしく、「ああ、ユダヤ人に生まれてよかった」と感慨ひとしおのものがあったでしょう。

 それは仙川キリスト教会に連なるわたしたちとて同じです。すでに与えられていた120坪の土地の上に、おおよそ50坪2階建ての木造建築が実現しました。外壁と屋根の美しさ、屋根の上の十字架を夜間、投光器が照らしています。十字架をあしらったステンドグラスの窓、吹き抜けの礼拝室、浸礼槽、その控え室を兼ねた二つの祈祷室、フェローシップ ホール、聖歌隊控え室、設備の整った厨房、事務室、エレベ−タ−、手すりのついた、しかも上り降りしやすい階段、音響室、幼小科の分級室、託児室、牧師室、そして牧師館など至れり尽くせりの会堂です。先日、一人の下校帰りの小学生女児がテニスコートのわきを歩いていました。ステンドグラスの窓が見えた時、彼女はしばらくの間、手を組んで祈りの姿勢をとったままその場に立ち止まっていたのです。また最近、こんなこともありました。一人の男性が、やはり会堂の前でひざまずいて祈っている姿をご近所の方が目撃したと教えて下さいました。それも一日や二日のことではないというのです。確かに会堂は伝道してくれています。このように立派な会堂もやがていつの日か朽ち果てるときが来るなどとは考えたくありません。

 しかし、主キリストのみ声が厳かに聞こえてきます。もしわたしたちが、この会堂に伝道を任せっぱなしにして、主キリストの弟子として見るべきものを見、聞くべき事を聞かず、「ああ、何とすばらしい建物よ」と眺めているだけだと、サタンはいつの間にか会堂の中に偽キリスト、偽預言者どもを送り込み、分裂と争いを起こし、果ては教会そのものを破壊しつくしてしまうでしょう。教会にさえ戦いを挑んでくるサタンにとってこの世を狂わせるなど、分けありません。民は民に、国は国に敵対して戦争と戦争の噂、地震や飢饉をもたらし、人々の心を恐々とさせ、世の終りだと思わせるでしょう。

 6日、9日に広島市長と長崎市長がそれぞれ全世界に向けて核のない地球環境を訴える平和宣言をされました。小泉首相も世界に向けて現行の平和憲法と非核三原則の遵守を約束されました。信じたいと思います。特にアメリカが開発しようとしている小型核兵器は、これが実現すれば、通常兵器なみの感覚で用いることになるかもしれません。小型であっても核兵器には違いありません。その破壊力と被爆者が受けるその後の苦痛は広島、長崎に投下されたものと変わりないのですから、何としても国際世論で断念させなければなりません。また一方で、戦争がなければ世の中は本当に平和か、という疑問の声があります。確かに傾聴に値します。快適さと便利さを求めて、「開発」の名の下に地球がどんどん汚されています。人間自身のエゴの為に、地球の温暖化と異常な気象条件という、自然の反撃を受けています。人々の心も次第に愛が冷え、差別やいじめ、虐待はそれを受ける人の体と心に大きな傷となり、命の危険さえあるのです。こうした世の終りを思わせるさまざまな悲しい状況の中で、しかし、主は、「これは産みの苦しみの始まりである」と言われます。教会に与えられた責任の重大さを思わずにいられません。平和を訴えることを広島、長崎の市長さんに任せておいてよいのでしょうか。教会こそ、あらゆる機会にまことの平和とは何かを人々に語り伝えなければなりません。この講壇から、またそれぞれの生活の場で神にある平和の道、神の和解のしるしを語り伝えなくてはなりません。

 教会が教会として存在を許されるのは、そこに集められている人々が、見るべきものを見ているとき、聴くべきものを聴いているときです。「見るべきもの」、とは何を見るのでしょうか。この教会にもあのやもめのように、目立たないけれども黙々と主に仕えている信徒のあることを見逃してはならないのです。その信仰に学ぶことです。「聴くべきこと」、とは何でしょうか。もちろん講壇から取り次がれるメッセージに聴くことです。同時に、聴いたメッセージを心に留めて静かに、そして目立たないけれども、常に主に信頼して祈っている忠実な神の僕こそがこの教会を支えていることを忘れてはなりません。そうした敬虔な神の人の信仰姿勢と祈りの声に耳を傾けながら、わたしたちはわたしたちのなすべきことを主に祈り求めなければならないのです。

 イエスは世の終りの時がいつかを知りたがるわたしたちに、「それを詮索する以上に、あなたたちのなすべきもっと大切なことがある。神がお定めになったその日、その時がいつきても良いように、心の目を覚まして備えていなさい。」と教えます。その日、その時は神が定められたカレンダーです。

 戦争も地震も飢饉も、みな恐ろしいことだが、それはまだ終りのときの前兆に過ぎないと主イエスは言われます。神の定められた終りの日、神に反抗する者のために用意されている苦しみはその何倍、いや何十倍も恐ろしいものなのです。ですから、キリストの弟子であるわたしたちはこの世の動きに右往左往するのでなく、むしろ、この世の人々に向かって、「神は生きておられること、神はこの世を罰するためにではなく、救うために遣わされた十字架と復活の主イエス・キリストの福音を信じるように、罪を悔い改めよ」と、宣べ伝えることこそ主の弟子が、今しなければならない一番の仕事なのです。しかし、それは簡単なことではありません。当然のように迫害されます。主のみ名のゆえに辱めを受けることもあるでしょう。8節の戦いは一般社会、或いは国際社会の中でのことですが、12節の戦いは信仰を共有しているはずの仲間内での戦い、キリスト教会内部の分裂を意味していると言えるでしょう。だからこそ、聖霊の助け、導きが必要なのです。見えるものに心動かされやすいわたしたちですが、わたしたちは聖霊の干渉を受けることが求められています。見えないものに心の目を注ぎ、神のご計画を信じ、忍耐をもって福音の宣教に励み、人々の救いを祈り求めるものでなければなりません。教会の勝利、皆さんの勝利の道はここにこそ開かれているのです。

 教団讃美歌259番(新生讃美歌には掲載されていません)の作詞者であるGirolamo Savonarola(ジロラモ・サヴォナローラ 1452〜1498)はイタリヤのフローレンスに生まれました。父親は医者でした。彼も父の後を継ぐべく医師としての学びをしていましたが、トマス・アクナスの翻訳した聖書を読む内に回心してボロニヤの修道院に入りました。学びを終えてフィレンツェの聖マルコ教会に赴任しました。当時はローマ・カトリック教会の全盛時で、ヨーロッパ中に聖堂が建ち並び、フィレンツェの町も聖マルコ教会のほかに、たくさんの聖堂がひしめいていました。それぞれの教会の名簿を見ると、全市民がどこかの教会に属していることになっていました。しかし、実際には主の日になっても礼拝をささげに来る人は僅かでした。社会は堕落していましたが、それ以上に教会内部の腐敗は目をおおう状況でした。彼は黙っていることができず、民衆と為政者に向かって、「悔い改めてイエス・キリストを信じなければ、教会もこの国も滅びる」と、その堕落を責めました。

 ちょうどその頃、隣のフランスと戦争になり、町はフランスの手に陥ちました。市民はこの戦争に敗れたのは、ただ軍事的な劣勢に原因があるのではなく、不信仰に対する神の凝らしめと受け止め、直ちに悔い改めて神に立ち返り、熱心に礼拝をささげるようになりました。フランス軍も退き、世の中も落ち着きましたが、国民はサボナローラのみ言葉に立った警告を忘れず、感謝し、賞賛しました。しかし、当時の教皇アレキサンダー6世は彼を妬んで捕らえ、「彼は本当は王になりたいのだ」とか、「サボナローラの教えは教会の教えと違う」などと、偽りの罪名を着せて宗教裁判にかけました。裁判官は彼に、「お前は今すぐに教皇の前で、今までの教えはすべて間違っていました。ローマ・カトリック教会の教えに反していたことを認めよ。」と脅迫しました。しかし、サボナローラは、「わたしは間違ったことを言ったりはしていない。御霊なるキリストが聖書を通してわたしに語れと命じられたこと以外のことは何一つ語ってはいない」と譲りませんでした。そのために焚刑(ふんけい=火あぶり)に処せられました。ポルトガル人コロンブスがアメリカ大陸を発見した6年後、1498年のことです。この讃美歌を歌っていると、彼がどのような思いで刑場に赴いたか、窺うことができます。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 み言葉を感謝します。わたしたちの国にとって8月は特に平和の尊さが身に沁みます。しかし、わたしたちの願いに反して世界はますます平和から遠ざかりつつあります。人間の根底にある妬みと欲望という罪が国と国、民族と民族、個人と個人がいつ止むともない争いの泥沼に喘いでいます。世の終りを実感します。しかし、主イエスは言われます。それらは起こらねばならないが、まだ終りではない、と。あなたが予定されている勝利の日のための産みの苦しみである、と。わたしたち教会は恐ろしい結末としての世の終りではなく、栄光の御国の完成を告げるイエス・キリストの福音、神が伸べて下さっている和解の福音をこそ宣べ伝える者として選ばれ、立てられていることを教えられました。わたしたちはこのことを確認しながら、ここから出てゆきます。あなたに感謝しながら。信仰の勝利を得る栄光の日を待ち望み、耐え忍ぶ者であるように導いてください。 主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む