【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年8月22日

呼び集められる選民」

マルコによる福音書13章14-27節

高橋淑郎牧師

 

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、山に逃げよ。屋上から降りるな。家に戻るな。その日には、身重な女、乳飲み子を抱える女は不幸だ。このことが冬に起こらないように祈れ。」という警告は、抵抗をしないで逃げなさいという意味です。それで、初代のキリスト教会は、世の終りの日はすぐにも起こることと信じていました。しかし、今までのところまだ終りの日は来ていません。これはクリスチャンの信仰にカツを入れるためのただの脅しなのでしょうか。いいえ、世の終りは近いのです。「世の終り」とはサタンのための暦ですが、神の側から言うと、サタンとその配下の悪霊、彼らに惑わされて神に逆らい続けて死んだ不信者の霊を滅ぼす(气yトロ4:5)、「最後の審判の日」であり、新天と新地を「創造する日」です(黙示録21:1)。また、イエスはこの日のことを、「産みの苦しみの始まり」と言っておられますが(8節)、これは地上の教会のための日という意味です。確かにキリストの教会にとって、この日は産みの苦しみを通される艱難の日です。と言うのも、サタンは自分の時の短いことを知って(黙示録12:12)、一人でも多く地獄への道連れにしようと、教会に揺さぶりをかけてきます。立ってはならない神聖な所=礼拝を捧げるべき群れの中に入り込み、み言葉の取次ぎをなすべき講壇を奪い取って、偽キリストや偽預言者を装うのです。太陽も月も星も、全てが光を失う、一見暗黒時代の到来です(24,25節)。

 しかし、主イエス・キリストの十字架によって贖われ、神の栄光に生かされている者にとって、その日はもはや地上の光は必要ではなくなっています。神の栄光が全てを照らしているからです(黙示録21:23)。

 神が悪と不道徳と不信の町ソドムを滅ぼそうとしているとき、ロトに対して神が告げられたのと同じ言葉がここでも聞こえてきます。「山に逃れよ」と(創世記18:17)。ひたすら山に向かって逃げることです。この山こそ、祈りの山です。再臨の主イエス・キリストはこの祈りの山、神の永遠の都に地上の教会、贖われた選民を全て呼び集めてくださるのです。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2004年8月22日

呼び集められる選民」

マルコによる福音書13章14-27節

高橋淑郎牧師

 

 イエスは来るべき日には恐ろしい力を持つ「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見る」と言われます。事実エルサレムの神殿は、「憎むべき破壊者」によって、度々汚された悲しい歴史を持っています。紀元前167年にギリシャ化を目指すシリヤの王アンティオコス・エピファネス「世はエルサレムの神殿にユダヤ人の最も忌み嫌うものを公然と据えて礼拝を強要しました。その時マカベウスと呼ばれたユダが立ち上がり、市民を鼓舞して戦い、独立を勝ち取りました。ダニエル書はこの事件を思い起こさせる預言書ですが、ダニエルはその著書の中であの時のような、いえあの時よりもっと恐ろしい「憎むべき破壊者」が出現すると警告しています(ダニエル書9:27、11:31)。

 紀元40年には高慢なローマの皇帝カリグラが、エルサレムの神殿に自分の像を建てて拝ませようとしました。幸いこの計画は彼の急死によって実現しませんでした。

 また、紀元70年、ユダヤ人はローマに反旗を翻し、独立運動を起こしました。軍事的に不利を承知で戦いを挑みましたが、当然戦況はユダヤに不利でした。彼らはそれでもエルサレムに閉じこもり、持久戦に出ました。「山に逃げよ」と警告しておられた主イエスの言葉も彼らの記憶にはありません。ローマ軍は兵糧攻めと、水の補給路を絶つという作戦で、降服を待ちました。やがて城内に侵入を果たしたローマ軍の目に映った光景は、見るも無残な餓死者の山でした。以来ユダヤ人は国土を持たない流浪の民となったのです。

 

 しかし、主が言われた、「立ってはならない所に立つ憎むべき破壊者」には、もっと深い霊的な意味があるということが分かります。これは神が定められた世の終りに起こる預言です。「山に逃げよ。屋上から降りるな。家に戻るな。その日には、身重な女、乳飲み子を抱える女は不幸だ。このことが冬に起こらないように祈れ。」などという警告は、要するに、下手な抵抗をしないでとにかく逃げなさいという意味です。イエス・キリストの再臨と終末に関する約束を学んだ初代のキリスト教会は、世の終りの日はすぐにも起こることと信じていました。しかし、今までのところまだ終りの日は来ていません。これはクリスチャンの信仰に活(かつ)を入れるための、ただの脅しなのでしょうか。そうではありません。世の終りは近いのです。「世の終り」とはサタンの側のことを指していますが、神の側から言うと、サタンとその使いである悪霊、そして彼らに惑わされて神に逆らい続けて死んだ不信者の霊を滅ぼす(气yトロ4:5)最後の審判の日であり、新しい天と新しい地が創造される日です(黙示録21:1)。イエスはこの日のことを、「産みの苦しみの始まり」と言っておられますが(8節)、これは地上の教会のための日という意味です。確かにキリストの教会にとって、この日は産みの苦しみを通される艱難の日です。と言うのも、サタンは自分に残された時の短いことを知って(黙示録12:12)、一人でも多くの人を地獄への道連れにしようと、立ってはならない主の教会に入り込み、み言葉の取次ぎをすべき講壇を奪い取り、偽キリストや偽預言者を装って教会に揺さぶりをかけてきます。このような神聖なところに、「憎むべき破壊者」が立つのです。その時、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。サタンに対して勇敢に戦うべきでしょうか。イエスは「逃げなさい」と言われます。世の終りの日、サタンとまともに戦うことができるのは神だけです。

 先週わたしたちは、どのような妨害を受けようとも、忍耐して主イエス・キリストの福音をあらゆる民に宣べ伝えること、総督や王の前に立たされても主を証することをやめてはならないと教えられました。つまり、信仰の戦いをやめてはならないと学びました。ところが今朝は、その反対にとにかく逃げなさいと言われるのです。いったいこれはどういうことでしょうか。先週与えられた主のご命令は、福音を語ることを妨げているのはサタンに目隠しされた人間を相手に語り続けよとの御命令でした。しかし、今朝はいよいよ神が定められた終りの日にはサタンが直接教会を荒らし、キリスト者に手を下すので、サタンを相手に勝てるはずのない無駄な戦いを避けなさい。逃げなさいとのご命令なのです。しかし、神はサタンとその配下にある悪の霊の暴力をいつまでも野放しにはなさいません。選ばれた忠実な神の僕、キリストの教会のためにその期間を縮めて下さいます。即ち裁きの日を早めてくださいます。

 

 「戦争と戦争の噂は絶えない。」と主は言われました。確かに世界は混沌として暴力の連鎖を断ち切る糸口さえ見つかりません。確かにサタンは自分の終りの近いのを知って、あの手この手で世界を緊張状態に陥れています。しかし、わたしたちは絶望してはなりません。それはまだ終りではないからです。詩編85:10,11には次のように書かれています。「主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。」と。

 戦争がなくなれば、世界は本当に平和になれるでしょうか。マルコがこの福音書を書いた頃の世界は確かに平和でした。戦争らしきものは見られませんでした。ローマという巨大な力が国々を席巻していたからです。独裁者が諸国を押さえつけるという形での平和でした。でも、そのような平和は本当の平和とは言えません。21世紀の今も、どこかの巨大な国が力づくで、テロを押えつけ、何とも矛盾した民主主義を押し付け、その上での平和を構築しようとしています。これもまた本当の平和ではないのです。暴力の連鎖が果てしなく続き、いつしか人々の心から互いを思いやる心が失せ、愛がますます冷えてゆく世の中です。確かに今朝の聖書テキストを読むと、終りの日は決して穏やかなものではないようです。巨大な力を持つ独裁者や国家権力にとって、都合のよい形ばかりの平和を実現しようとしています。これから終りの日に向かって、ますますそれは顕著になって行くことでしょう。

 地上の教会は選ばれたとは言え、穏やかな状態で御国の門を潜れるわけではなく、その直前にはこれまで誰も経験したことのない、未曾有の大艱難を潜り抜けなければならないのです。著者マルコもこの章の24、25節でイザヤ書から2箇所(イザヤ書13:9−10、34:4)の預言を引用して、終りの日の凄まじさを伝えています。太陽も月も星もその役割を終えて光を失います。この世の栄誉、栄華と言う有限の輝きを求め、その光しか見えていない者には、それは絶望です。

 しかし、主イエス・キリストの十字架によって贖われ、神の栄光に生かされている者にとって、その日、その時はもはや地上の光は必要ではなくなっています。なぜなら神の栄光が全てを照らしておられるからです(黙示録21:23)。まことの平和は正義と口付けしてこそ成り立つのです。慈しみとまことが出会うところに人類の本当の幸せが実現します。そのようなまことの平和を打ちたてるために、主は再びおいでになるのです。その日、その時、主イエス・キリストは雲に乗って再臨して下さいます。選ばれた主の民、贖われた地上の教会を世界中から呼び集めるためにです。しかし、わたしたちは確かに主イエス・キリストによって選ばれた神の僕です。神が悪と不道徳と不信の町ソドムを滅ぼそうとしているとき、ロトに対して神が告げられたのと同じ言葉がここでも聞こえてきます。「山に逃れよ」と(創世記18:17)。ひたすら山に向かって逃げることです。この山こそ、祈りの山です。再臨の主イエス・キリストはこの祈りの山、神の永遠の都に地上の教会、贖われた選民を全て呼び集めてくださるのです。

 

祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

み言葉を感謝します。今朝、わたしたちはあなたがこの世界とあなたの僕たちに抱いておられるご計画のすばらしさを学びました。今も十分にわたしたちは日々苦難を味わっています。しかし、それは、やがて終りの日、サタンが地獄への道ずれにしようと挑みかかってくる大いなる艱難に備えて耐え忍ぶための、主の訓練であることを知りました。イエス・キリストはやがて必ず再びこの地上に来て、あなたに忠実な僕を呼び集めてくださることを信じます。

主よ、今わたしたちが経験しているさまざまな苦しみもあなたにお目にかかる道筋の一つであるゆえに、一つとして無駄なものはないことを教えてくださったことを感謝します。わたしたちはあなたのために何もできないものですが、ただあなたの導きのままに山に逃れます。祈りの山に導かれてこそ、日常の生活の一つ一つに意味があることが分かるでしょう。あなたを信じることの恵み深さを悟ることができるでしょう。

どうか、あなたをいつも喜ぶ者としてください。常に祈る言葉をお与えください。全てのことに感謝を言い表す素直な心を与えてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。 

 


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