【主日礼拝メッセ−ジ要約】−長寿感謝−                      2004年9月12日

目を覚ましていなさい

マルコによる福音書13章32-37節

高橋淑郎牧師

 

 「目を覚ます」、「心を配る」、「気をつける」、これらはいったい何に対して目を覚ますことなのでしょうか。どのように心を配り、気をつけたら良いのでしょうか。今日の聖書の流れから、それはただひとつであることがわかります。すなわちイエス・キリストが再びおいでになることを待ち望んでいるということなのです。これをイエス・キリストの再臨といいますが、もしわたしたちが本気でイエス・キリストの再臨を待ち望むのであれば、わたしたちは自分が救われているという確信を持っていなければなりません。罪を未解決のままにして神の裁きの座に立つことはできません。

 イエス・キリストはこの三つの「目を覚ませ」という命令を下した後、十字架への道を歩み出されました。わたしたちの罪に決着をつけるためです。わたしたちは自分の罪をどうして清めてよいか分からなかったので、死後神の前に立つことに恐れを抱いていましたが、「目を覚ましていなさい」と命じた方ご自身が十字架の上にわたしたちの罪をすべて贖って下さいました。わたしたちはもう救われているのです。その事実をただ信じるだけで良いのです。信じてこれまでの罪の一切を神の前に言い表して悔い改めるなら、わたしたちは救われるのです。

 いかがでしょうか。今、あなたもイエス・キリストをあなたの救い主と信じませんか。信じてバプテスマを受けたいと思われませんか。そうすれば、あなたは全く新しく生まれることができるのです。もし、今日イエス・キリストをあなたの救い主と信じることができるなら、信じてバプテスマを受けたいと思われるなら、わたしのところにその思いを伝えにきて下さい。わたしはあなたのためにお祈りしたいと思います。

 今日は「長寿感謝」の日です。70歳以上の方をお招きして共に感謝の礼拝をささげています。

 人生の先輩方は若者が再び戦地に赴くことのないように祈ってください。クリスチャンの先輩方は目を覚まして若いキリスト者が再臨の主をいつも待ち望むよう教え導いて下さい。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】 −長寿感謝−                      2004年9月12日

目を覚ましていなさい

マルコによる福音書13章32-37節

高橋淑郎牧師

 

 今日の礼拝だけは居眠りしながらメッセージを聴くわけには行かないと思います。最後までまぶたとけんかしながら1時間をお過ごし下さい。

 イエスはこの短い6節の間に二度も三度も「目を覚ましていなさい」と言われます。その日、その時がいつか分からないからです。その日、その時とは神がお定めになった世の終りの日、最後の審判の日のことです。33節の部分を直訳的に読みますと、「四六時中起きて、見ていなさい」と言われたということですが、もちろんこんなことは不可能です。しかし、二度目と三度目の「目を覚ましていなさい」は、もっと霊的な意味の言葉で、因みに「グレ−ゴレイテ」と言う命令形が用いられています。直訳すると、「心を配れ」という意味になります。グレゴリオ聖歌は恐らくローマ・カトリックの教皇グレゴリゥスの名を冠して生まれたものかもしれませんが、「目を覚ませ」と言う意味と関連するかどうかは分かりませんが、もしそうなら目を覚まし、心を配って歌えということになるのでしょうか。

 要はこの3つの「目を覚ませ」と言う主のご命令の正しい意味は、いつその日が来てもあわてないように、心を備えて置けという警告なのです。最後の審判はいつの日かわかりません。もしかしたら明日のことかもしれません。しかし、主がこの命令を下してからでも2千年以上になりますから、まだまだ何十世紀も先のことかも分かりません。しかし、主がここに三度も重ねて同じ命令を繰り返しているということに、それこそ心を配っていただきたいと思います。以前にも言いましたが、仮に最後の審判の日がかなり先のことであるとしても、わたしたちはひとつのことを忘れてはなりません。それはわたしたちの生涯はせいぜい1世紀そこそこだという事実です。この世がまだまだ続くとしても、あなたやわたしの命が今日神の御手によって取り去られることとなれば、それはその人にとってもはや終りの日であるということです。わたしたちの地上の生が終りを告げた瞬間から、わたしたちは墓の下で、最後の審判の日をただ待つばかりということになるのです。

 「目を覚ます」、「心を配る」、「気をつける」、これらはいったい何に対して目を覚ますことなのでしょうか。どのように心を配り、気をつけたら良いのでしょうか。今日の聖書の流れから、それはただひとつであることがわかります。すなわちイエス・キリストが再びおいでになることを待ち望むということなのです。これをイエス・キリストの再臨と言いますが、もしわたしたちが本気でイエス・キリストの再臨を待ち望むのであれば、わたしたちは自分が救われているという確信を持っていなければなりません。罪を未解決のままにして神の裁きの座に立つことはできません。もう一度聖書をご覧ください。イエス・キリストはこの3つの「目を覚ませ」という命令を下した後、十字架への道を歩み出されました。わたしたちの罪に決着をつけるためです。わたしたちは自分の罪をどうして清めてよいか分からなかったので、死後神の前に立つことに恐れを抱いていましたが、「目を覚ましていなさい」と命じた方ご自身が十字架の上にわたしたちの罪をすべて贖って下さいました。わたしたちはもう救われているのです。その事実をただ信じるだけで良いのです。信じてこれまでの罪の一切を神の前に言い表して悔い改めるなら、わたしたちは救われるのです。いかがでしょうか。今朝、あなたもイエス・キリストをあなたの救い主と信じませんか。信じてバプテスマを受けたいと思われませんか。そうすれば、あなたは全く新しく生まれることができるのです。もし、今日イエス・キリストをあなたの救い主と信じることができるなら、信じてバプテスマを受けたいと思われるなら、後ほどわたしの所にその思いを伝えにきて下さい。わたしはあなたのためにお祈りしたいと思います。

 もう一つ嬉しいことがあります。今日は「長寿感謝」の日です。教会の70歳以上の方、このご近所の70歳以上の方をお招きして、共に感謝の礼拝を捧げています。皆さんは今日までこの国のために一生懸命働いて下さった方々です。特に信仰生活の険しい道を切り開き、若いわたしたちのよき模範となって下さいました。だからこそ、皆さんにお願いしたいことがあります。皆さんの後に続く若者たちがこの国を再び誤った方向へと進ませないで下さい。常に「目を覚まして」、時に苦言を呈し、あるいは励まし、また慰め、導いてください。

クリスチャンの先輩方にお願いしたいことがあります。皆さん、ぜひとも目を覚まして若いキリスト者がイエス・キリストを待ち望むことを怠らないように教え導いてください。

最後に、若い皆さんに素敵な祈りの言葉、「幸いのうた」と言う詩をお贈りしたいと思います。

わたしのよろける足どりと
ふるえる手を理解してくれる人は幸いです
わたしの耳が
ひとのいう言葉を聞きとるためには
大きな努力が必要であることを
わかってくれる人は幸いです
わたしの目はうすくなり
わたしの行動はのろいということを
善意のうちにわかってくれる人は幸いです
わたしがコーヒーをこぼしても
かわりない平静な顔をしてくれる人は幸いです
しばらく立ちどまって
明るくほほ笑みながら
おしゃべりをしてくれる人は幸いです
「今日はその話を二度も聞きましたよ」と
決して
言わない人は幸いです
楽しかった昔をとりもどす方法を
知っている人は幸いです
わたしが愛されており
決して
ひとりぼっちでないことを
教えてくれる人は幸いです
わたしには十字架を
担う力がないことを
わかってくれる人は幸いです
愛情ふかく
人生の最後の旅路の日々を
慰めてくれる人は幸いです

−聖フランシスコ兄弟の家−

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 「目を覚ましているように」とあなたはお命じになりました。確かにわたしたちはその人生の中で、しばしば居眠りを繰り返す人生でした。あなたがこの世に来て下さったことが聖書の中に証されているのに、わたしたちの霊の目は曇っていてイエス・キリストを正しく知ることができませんでした。公平な裁きをなさる主がこの世を正しく導くという約束が聖書に記されているのに、わたしたちの曇った霊の目はまだまだ先のことと、惰眠をむさぼっていました。

 しかし、わたしたちは今朝、本当に目が覚めました。わたしたちは今こそ、主がこの世に再びきて下さることを待ち望みます。これから先もこの世のさまざまな誘惑に身も心も縛り付けられるかもしれない時にも、どうか主であるイエス・キリストを仰ぎ見ることができますように。

 主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

 


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