【主日礼拝メッセ−ジ要約】                     2004年10月3日

「急ぎ降りよ」

 ルカによる福音書19章1−10節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 イエス・キリストはエリコの町を通って、これからエルサレムの都に行かれます。何のためですか。この世界に住むすべての罪びとに代わって十字架の上に死ぬためです。罪の支払う報酬は死です。わたしたちは誰一人、罪を犯さないで生涯を閉じることはできません。わたしたちはこのままでは死後神の裁きの座に立たされて、罪の報酬として永遠の滅びに堕ちて行かなければならないのです。

 神は、一人ひとりの名前をおろそかにする方ではありません。ザアカイの名前もお忘れではありません。イエスはザアカイの名を呼んだばかりか、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。地獄に堕ちると決めてかかり、誰も近寄らなかったザアカイの家に、主イエスは客となって下さったのです。罪びとを訪ねて悔い改めに導き、救うためでした。イエス・キリストのみ前に立ったザアカイはこれまでの罪を悔い改めて告白しました。そしてイエスを救い主と信じました。イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。」とはっきりと宣言してくださいました。

 これを読むあなたももしかしたら、孤独で空しく、砂をかむような毎日、何の希望もない人生を送っている一人ではありませんか。何とかここから抜け出せる道はないものかとひそかに願っておられるのではありませんか。イエスがどんな人か見ようと、ここにこられたのではありませんか。まるでいちじく桑の木に登って見ているような思いかもしれません。

でも、今、イエス・キリストはあなたの名を呼んで言われます。「さあ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2004年10月3日

「急ぎ降りよ」

 ルカによる福音書19章1−10節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 ここに何かを熱心に捜し求める二人の姿が見えます。一人はザアカイという人です。彼はイチジク桑の木によじ登って、「イエスがどんな人か見ようとした」のですが、思いにまさる経験をしました。イエスは彼を見て、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と声をかけて下さったのです。彼はすぐに木から降りるや、早速家に迎え入れました。こうして彼の人生はまったく新しくされました。

 ザアカイは税金取立て人の頭(かしら)で、金持ちでした。今日の税務署は法律に基づいて正しくその勤めを果たしていますが、ザアカイの時代には、いささか後ろめたいこともしていたようです(8節)。ユダヤ人は幼いときから聖書の神を信じる敬虔な国民ですが、ザアカイのような職業の人たちは、安息日になってもみんなと一緒に会堂で礼拝をささげません。周囲が白い目で見るから何となく顔を出しにくくなり、次第に神への信仰を失っていったのか、それとも初めから神への信仰がなかったために、世間から後ろ指をさされるようになったのか、どちらにせよ、当時このような人は「罪びと」と見なされていました。救いようのない人、死んだら地獄に落ちることが確かな人と見なされていたのです。

 日本には「村八分」という言葉があります。火事を出して隣近所にはなはだしい迷惑をかけたとか、不祥事を起こしたとか、何かの事情で村社会から締め出されてしまった人のことです。しかし、村八分とされた人にも二分だけ社会との接点が残されていました。結婚式と葬式だけは往来を許されます。つまり、神仏とかかわりのある行事にだけは参加することができました。しかし、ザアカイのような人は村八分どころか、村十分とされています。神と交わる接点である会堂からも締め出されていたのです。離れ小島や荒野に独り住んでいるわけではないのです。エリコという町の真ん中に住んでいるのに、誰からも相手にしてもらえないとはこれほど寂しくつらい人生はありません。いくらお金があってもまともに付き合ってくれる人がいないのです。いつしか彼は、心にぽっかり開いた空虚な穴を埋めてくれる人を求めていました。今の生活から抜け出すにはどうしたらよいかと考える毎日でした。そんな時、誰からも慕われている噂のイエス・キリストがこの町にやってこられたと知って、彼はイエスに会いたいと思うようになりました。ザアカイの熱心は、いつしか神を求める一途な心へと変化して行ったのです。

 

 ザアカイの熱心な求めに呼応するように、もう一人熱心に何かを捜し求めている人がいます。イエス・キリストです。イエスはエルサレムに向かう途中、このエリコの町を通過するところでした。しかし、イエストは木の上から見ているザアカイに向かって、ご自身の方から彼の名を呼んでくださいました。

 聖歌の中に、世の終わりの日、神はイエス・キリストを信じて生涯を閉じた一人ひとりの名を呼んで天のみ国に招き入れてくださるという歌の一節があります。神は、一人ひとりの名前をおろそかにする方ではありません。ザアカイの名前もお忘れではありません。イエスはザアカイの名を呼んだばかりか、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。地獄に堕ちると決めてかかり、誰も近寄らなかったザアカイの家に、主イエスは客となって下さったのです。罪びとを訪ねて悔い改めに導き、救うためでした。人々はザアカイの家に足を踏み入れるイエスを見て、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と非難しましたが、ザアカイは今やイエス・キリストを客としてではなく、主人として、そう、救い主として受け入れ、これまでの罪を認めて悔い改め、生涯をイエス・キリストの弟子として歩む決心を言い表しました。ザアカイはこの瞬間、人生をやり直すのではなく、全く新しい人生を与えられたのです。主イエスの熱心は、神のみ前から失われた罪びとを捜し出して救いたいというほどの熱心でした。

 イエス・キリストはエリコの町を通って、これからエルサレムの都に行こうとしておられます。何のためですか。十字架の上に死ぬためです。罪の支払う報酬は死です。わたしたちは誰一人、罪を犯さないで生涯を閉じることはできません。わたしたちはこのままでは死後神の裁きの座に立たされて、永遠の滅びに堕ちて行かなければならないのです。しかし、イエス・キリストは神に裁かれるべきわたしたちに代わって十字架の上に身代わりの死を遂げてくださるのです。

 あなたはいかがでしょうか。あなたもこのザアカイのように、孤独で空しい毎日、何の希望もない人生を送っていませんか。ひそかに罪を隠し持ったまま、何とかここから抜け出せないものかと願っているのではありませんか。どうしても赦せない人がいて、憎しみが心に渦巻き、かえってそれがあなたの苦しみとなっていませんか。それでイエスがどんな人か見ようと、ここにこられたのではありませんか。この会堂入り口の石段は僅か二段しかないのに、とても高い敷居に感じられたかもしれません。まるでいちじく桑の木に登って見ているような思いかもしれません。でも安心してください。イエス・キリストはその、そして今朝ここに導いてくださいました。「罪びと」と呼ばれていたザアカイの家を訪ねてくださったように、同じ主は、今朝熱心にあなたの心の戸をもノックして、「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言っておられます。このみ言葉を聞いて主イエスを受け入れるなら、主もまた「今日、救いがこの家を訪れた。」と宣言してくださるのです。誰がなんと言おうと、神の愛からあなたを引き離すものは何もなくなるのです。

 

終わりに最近あるところから頂いた資料から、塩崎静江さんという方をご紹介したいと思います。

 彼女は現在インテリア・プランナーとして活躍しておられますが、ある集まりの中で、演歌歌手である妹の小林幸子さんと自分の関係についてお話されました。実は静江さんご自身、歌手として芸能界入りを願っておられたのですが、ご両親は彼女ではなく、妹の幸子さんを世に出そうと必死でした。やがて親の期待通りに幸子さんがデビューし、ご両親の愛と世間の人気と称賛が幸子さんひとりに向けられていくのを見て、彼女はどうしてわたしでなく、妹なのかと苦しみ、一緒に喜ぶどころか憎しみさえ抱くようになっていました。そんなことが20年も続いていたある日、静江さんの心に、「・・・赦しなさい。赦しなさい」というささやきを心の中に聞いたのです。聖書の言葉でした。実は静江さんはクリスチャンだったのです。また、

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ 3:13)という聖書の1節が与えられ、静江さんはすぐに手紙を書きました。「幸子、ごめんなさい。わたしは間違っておりました。今のあなたが人から受けている人気や称賛は、すべてわたしの犠牲の上に成り立っているのだと恨みに思っておりました。あなたの喜びをともに喜ぶことをしなかったわたしを、どうか赦してください。・・・」と。

幸子さんはこの手紙によってお姉さんの心が理解でき、やがて教会に導かれて神を信じ、イエス・キリストをご自分の救い主として受け入れ、今日に至っているということです。    祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 ザアカイは自分の弱さに気いてイエス・キリストを求めたとき、主イエスもまた彼を訪ねて救ってくださいました。塩崎静江さんも愛されたいと願いながら孤独と妬み、そして憎しみという重荷に苦しんでいましたが、主イエスのみ言葉を受け入れたとき、妹を赦すことを知り、神と妹に赦されている自分を発見することができました。

 今もしここに同じような苦しみを担っている人がいましたら、主よ、あなたの十字架の愛でこの一人びとりを赦し、その罪から救ってください。イエス・キリストをあなたの救い主と受け入れる信仰を与えてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

  


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