【主日礼拝メッセ−ジ要約】                     2004年10月10日

「 復活のとき」

 マルコによる福音書12章18−27節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

この聖書から二つの大事なメッセージが伝わってきます。

第一に、神はわたしたち一人ひとりの神になって下さるというメッセージです。神は神を信じる者と個人的な交わりをして下さいます。一人ひとりの名前を呼ぶとはそういうことです。それはこの世においても来るべき世においても同じです。今この世に生かされている人が、この地上での生涯を終えて、先に天に召された人との再会を楽しみにして残された人生を生き抜くということではありません。先に天に召された者の神は、またわたしの神でもあります。ですから、この世にあって生きるに必要な肉の体を与えて下さった神は、来るべき世にあっても御国に生きるに必要な復活の体を与え、こうして地上にある者は、先に召された人と共に、神の御前に拝することが許されるという約束が与えられているのです。サドカイ派の人々の誤解は、地上の人間関係をそのまま天上に持ち込んで考えているところにあります。

第二に、これが最も大事なことですが、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、そしてモーセもはるか昔に死にました。しかしイエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言われました。アブラハムもイサクもヤコブもモーセも昔の偉大な預言者として人々の記憶に残るだけではなく、実に、その信仰のゆえに、今も神の御前に生かされているのです。死んではいないのです。だから、すでに信仰を抱いてこの世を去った者はもちろん、地上に残されている者のために神は言われます。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:16)と。

  
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                     2004年10月10日

「 復活のとき」

 マルコによる福音書12章18−27節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今日の箇所ではサドカイ派の人々がイエスに質問してきました。使徒言行録23章8節に、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」とあるように、彼らは自分たちの神学が如何に正しいものであるかをイエスに認めさせようと議論を吹っかけてきました。

 少し時間を頂き、当時のユダヤ国内における政治地図をご紹介しておきましょう。サドカイ派、ファリサイ派と言う二大政党の影で、ヘロデ党、熱心党等の小政党があって、この国を指導していました。ヘロデ党は王侯貴族によって組織され、祭司階級のサドカイ派と近い関係にありました。それと対極にあるのが熱心党です。反体制勢力で、国家の威信を回復するという大きな目的の為には暴力革命も辞さないというちょっと危険な政党でした。それに比べるとファリサイ派は穏健な政党で、人は神の言によって生かされると言う正統派の神学に立っていました。

 サドカイ派についてもう少しお話を続けさせてください。この宗教政党はいつごろ生まれたのか定かではありませんが、遠くダビデ・ソロモンの時代に活躍したザドクと言う祭司の名前に由来しているという説があります。また紀元2世紀、ギリシャの支配からユダヤを救うために独立戦争の中心となったマカベア家によって祭司制度が充実し、以来マカベア家から大祭司を輩出する制度が確立しました。この大祭司を中心とする祭司階級がサドカイ派となりました。異教徒が崇める偶像礼拝の誘惑に陥らないように、エルサレムの神殿を中心とした祭司制度も長い歴史の中で、いつしか聖書中心主義から時の権力者に擦り寄る現実的な政治勢力へと姿を変えて行きました。更に彼らが聖書というとき、それはモーセ五書と言われる「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」に限定し、これを律法の書と呼んでいました。モーセ五書以外の書物は聖書ではない。従って聖書に書かれていないことは信じてはならない。五書には復活についても天使についても霊についても何一つ明確に書かれているわけではないからそれらは存在しないというのです。

 前置きが長くなりましたが、彼らがイエスに論争を挑んだのは、そうした自分たちの主張が正しいと絶対の自信を持っていたからです。復活などあり得ないという裏付けとして、極端な例を挙げ、これを論破しようと挑んできたのです。

 

 しかし、イエスはそれこそ聖書も神の力も知らないとんでもない間違った解釈だと反論します。サドカイ派の人々がモーセ五書のどこにも死人の復活について書いてないというのは嘘で、出エジプト記3章6節(旧約聖書66頁)には明確に復活の事実を明らかにしていると言われます。わたしたちも実際にそこを開いて読んでみましょう。

「神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」

ここを読むときに注意して頂きたいのですが、神は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と、ひとまとめに呼ばないで、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでおられます。ここから二つの大事なメッセージが聞こえてきます。

 第一に、「神はわたしたち一人ひとりの神」というメッセージです。神は神を信じる者と個人的な交わりをして下さいます。一人ひとりの名前を呼ぶとはそういうことです。それはこの世においても来るべき世においても同じです。今この世に生かされている人が、先に天に召された人との再開を楽しみにして残された人生を生き抜くということではありません。天に召された者の神は、わたしの神でもあります。この世で生きるに必要な肉の体を与えて下さった神は、来るべき世でも天上に生きるに必要な復活の体を与え、先に召された人と共に、神の御前に拝することが許されるという約束が与えられているのです。

サドカイ派の人々の誤解は、地上の人間関係をそのまま天上に持ち込んで考えているところにあります。

 

 第二に、これが最も大事なことですが、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、そしてモーセもはるか昔に死にました。しかしイエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言われました。アブラハムもイサクもヤコブもモーセも昔の偉大な預言者として人々の記憶に残るだけでなく、実に、その信仰のゆえに、今も神の御前に生かされているのです。死んではいないのです。だから、すでに信仰を抱いてこの世を去った者はもちろん、地上に残されている者のために神は言われます。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:16)と。

 

 幼い頃、わたしの家はとても貧しかったからだと思いますが、仏壇らしいものはありませんでした。それでも仏壇に替わるものの前で、わたしの母は朝に夕に、道に咲いている野草のような花と、粗末ながら食べ物の一部を供えては何かしきりに拝んでいました。ある日、わたしたちが何を拝んでいるのかと尋ねますと、家族の無事を守ってくれるようにと願って、先祖に話しかけているのだと言います。「頼りにならない先祖にお願いするよりも、阿弥陀さまに直接お願いした方が効果があると思うよ?」と、兄の一人が冷やかし半分に言いますと、母はまじめな顔をして、「いや、阿弥陀さまは忙しいので、わたしのような者の願いを聞いている時間はないと思う」と答えるのでした。しかし、数年後、その祈りもむなしく一番上の兄があっけなく死にました。わたしが中学生の頃でした。早くに父を亡くし、父親がどんな顔をしていたのか、まったく記憶にないわたしにとって、何かと相談に乗って下さるお寺のお坊さんを、わたしは父親のように慕っていました。そのお坊さんがショックを受けているわたしたち家族を慰めようと、「これからは彬君−死んだ兄の名前です−が、あなた方を守ってくれるから」と、温かい言葉をかけてくれました。そのとき、わたしはお坊さんの気持ちはありがたく思いましたが、慰めの言葉に釈然としないものを感じました。家族を守るのなら、生きていてほしかったのです。この釈然としない気持ちに整理がついたのは、わたしが高校生になった16歳のとき、教会に導かれてイエス・キリストを信じてからでした。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と記されている旧約聖書の一節を引用しながら、イエスが言われた、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」という明確な御言を聞いたとき、わたしの心は初めて平安になりました。そして、先祖を頼りに拝み続けている母に、真の神を知らせたい。どんなに忙しくても御心を注いで祈りに耳を傾けてくださる神がおられることをぜひとも知ってほしいと何年も何年も祈り続けました。その祈りが聞かれたのは、母が召される3ヶ月前のことでした。イエスを個人的な神、救い主キリストと信じたとき、彼女は変えられました。母の信仰告白を喜び、祝福しようと駆けつけて下さった福島勇牧師の祈りを母は遮って言いました。「わたしはこうして祈って頂けて嬉しいのですが、きっと同じ病室の人たちも祈ってほしいと思いますよ」と、祈りの追加注文をしたのです。神の御業のあまりの大きさにわたしたち夫婦は感動しました。高橋シン姉妹の神は、高橋シン姉妹を通してその病室の人たちの神ともなって下っていたのです。    祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるとの御言に感謝します。わたしたちはこの地上に生きるに必要な体を備えて頂き、また天上に生きるに必要な復活の体を与えられるという約束がこの御言に読み取れるからです。どうか、今ここで共に礼拝を捧げている全ての人々がこの恵みの事実を悟り、あなたを個人的な救い主と信じ、受け入れる者となりますように。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

  


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む