【主日礼拝メッセ−ジ要約】                  2004年10月24日
 
交わりの準備
マルコによる福音書14章12−21
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。・・・十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と言われます。確かにわたしたちの主イエスは聖書に書いてある通り十字架に上げられようとしています。しかし、それは偉大な聖人の殉教を予告するものではありません。神の国における真の過越の食事、永遠に失われることのない豊かな交わりの準備としての約束のお言葉なのです。悲しいかなその約束を聴きながら、イエスの御心と正反対のことを考え、実行しようとする者がいるのです。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言われるのです。イエスと同じ食卓にあり、イエスと同じ鉢にパンを浸して食していながら、生まれなかった方がよかったと言うみ言葉を彼自身どのような思いで聴いていたのでしょうか。この言葉だけを読むと、絶望的な気持ちになります。しかし、聖書をよく読んでみましょう。この一見突き放すようなお言葉の中にも神の国への最後の招きの御手が、驚いたことに、ご自分を裏切ろうとする者に対しても伸ばされていたのです。この言葉は注意深く読むと、突き放す言葉ではなく、悔い改めを促す最後の機会であったのです。人間を造った神が、「生まれなかったほうが、その者のためによかった。」と言われたのは、「あなたにそうなってほしくはないのだよ」と言う警告以外の何ものでもありません。主はこの人からも神の国における聖なる交わりに加わる機会を奪ってはいなかったのです。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                    2004年10月24日
 
交わりの準備
マルコによる福音書14章12−21
 
メッセージ:高橋淑郎牧師
 

 弟子たちはイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねています。これまでもお話しましたように、過越の祭りはイスラエルの人々にとってとても大切なお祭りです。神殿では人々の罪の清めのために祭司たちが忙しく働いていますが、礼拝の後それぞれの家庭では家長を中心に、過越を記念して食事をします。神殿礼拝と共に各家庭でのこの食事もまた厳かなひと時なのです。この食事のメインメニューは小羊の肉です。小羊の肉を丸焼きして、その日の内に全て食べ尽くさなければなりません。如何に小羊とはいえ、少人数の家族では食べきれないこともあるでしょう。聖書はその場合には数家族、または友人を招いて共に食べることを認めています。しかし、イエスは母マリヤや弟・妹たちというよりも、12弟子と共にこの食事をすることを第一の目的として準備をさせています。ルカ22:15では弟子たちに向かって、「あなたがたと共にこの食事をしたいと、切に願っていた。」とまで言い切っておられます。なぜ主は母や兄弟ではなく弟子を中心にこの食事を願っておられたのでしょうか。このことについては後で更に詳しく主から学ぶことにしましょう。

 イエスはこの食事のために2人の弟子を遣わして、その準備に当たらせます。ベタニヤからおおよそ2時間足らずの距離にあるエルサレムの都に入ると、水がめを運んでいる男に出会うので、その人が入る家までついて行けとお命じになりました。この時代水がめを運ぶのは女性の仕事で、男性は皮袋で運ぶのが普通でした。イエスはまた、「家の主人に、弟子たちと一緒に食事をするわたしの部屋はどこか」と尋ねさせています。水がめを運ぶ人はともかく、その家の主人とはかなり親しい関係にあることが窺える質問です。そこで昔から多くの聖書注解者の間でこの家はいったい誰の家であろうかと議論が絶えません。大方の意見は水がめを運んでいた人はこの福音書の著者で、後に120名もの大祈祷会が開かれた家で、聖霊降臨の出来事が起こった二階座敷(使徒言行録1:13−15、2:1−4)であろうという点で一致しています。そうかもしれませんし、違うかもしれません。しかし、わたしたちはこのことについてこれ以上想像をめぐらせる必要はないと思います。大切なことはこの家の二階に整えられた広間でイエスが主宰される過越の食事がなされたという一点にあります。

 そこで先ほどの問題、「あなたがたと共にこの食事をしたいと、切に願っていた。」(ルカ22:15)というみ言葉を受けて、イエスは母マリヤや弟妹たちよりも、12弟子と共にこの食事を考えておられたのはなぜかということについてみ言葉に聴くことにしたいと思います。もちろんこの過越の食事にはイエスの母マリヤも弟や妹たちも、もしかしたらこの家の家族も同席していたと想像することができます。小羊1匹を料理してその全てを食べ尽くすには大人だけで20人は必要であったからです。しかし、そこにどのような顔ぶれが何人集まって食事をしていたにせよ、イエスの眼差しの先はあくまで12弟子です。ルカ22:15を見るまでもなく、後に続く語らいを見ても、そのことが分かります。この家の主人も弟子たちもみな過越の食事という一年に一度という交わりに期待して準備に余念がありませんでした。

 しかし、この時に限って言えばイエスの目線は12弟子に絞られていました。その12人の中から脱落者が出ようとしているからです。本来過越の祭りはイスラエル民族の新たな出発を記念する祭りであり、その食事は互いの信仰の一致を確認し、交わりを豊かにされるときです。しかしこの愛の交わりを壊そうとする弟子を目の前に見て、主は深い悲しみと共に、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。・・・十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と言われます。確かに主イエスは聖書に書いてある通り十字架に上げられようとしています。しかし、それは偉大な聖人の殉教を予告するものではありません。神の国における真の過越の食事、その食事のために備えられるべき小羊として、永遠に失われることのない豊かな交わりの準備としての約束のお言葉なのです。悲しいかなその約束を聴きながら、イエスの御心と正反対のことを考え、実行しようとする者がいるのです。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言われるのです。イエスと同じ食卓にあり、イエスと同じ鉢にパンを浸して食していながら、生まれなかった方がよかったと言われたこのみ言葉を、当の本人はどのような思いで聴いていたのでしょうか。この言葉だけを読むと、絶望的な気持ちになります。しかし、聖書をよく読んでみましょう。この一見突き放すようなお言葉の中にも神の国への最後の招きの御手が、驚いたことに、ご自分を裏切ろうとする者に対しても伸ばされていたのです。突き放すのではなく、悔い改めを促す最後の機会としての言葉であることが分かります。人間を造った神が、「生まれなかったほうが、その者のためによかった。」と言われたのは、神を捨てるという、無謀で絶望的な人間、自分から不幸を招いている人に向かって、「あなたにそうなってほしくはないのだよ」と言う警告以外の何ものでもありません。主イエスはご自分を裏切ろうとしている者に対してさえも、神の国における聖なる交わりに加わる機会を奪ってはいなかったのです。

 今の世の中、神を見失い、自分の未来に希望をもてない人が実に多いのです。自分など生まれなかったほうがよかったのにと思い込んでいる人が少なくありません。その結果車の中や部屋の中で集団自殺に走ってしまうのでしょう。イエスが言われたのは、積極的に神を冒涜し、救い主を抹殺しようとするものに対するお言葉であって、この世に絶望しかかっている人に向かって言われたのではありません。ご自分を裏切ろうとしている者にさえ、天国への道を最後まで閉ざさず、悔い改めの機会を与え続けてくださったのです。ましてやこの世で希望を失いかけている人々に救いの手を伸ばされないはずがないのです。イエス・キリストの十字架はこの世にあって孤独な人、絶望している人を神の御国に招き、豊かな交わりへの道を開く、大いなる備えなのです。どうか、今すぐに救い主イエス・キリストの懐に飛び込んでください。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 主イエス・キリストにある交わり以外に救いはなく、喜びも平和もないことをいつも忘れることがありませんように。

 キリストの教会を退屈な場とか、偽善者の集まりなどと裁く思いからわたしたちを解放してください。主の弟子たちが過越の食事の準備を忠実にしたようにわたしたちもあなたの僕として、あなたの御許に行き着くまで、日々の信仰生活をその良き備えの時として忠実でいられますように。 主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

  

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