【主日礼拝メッセ−ジ要約】                  2004年11月7日

 「弱さを知る神」

マルコによる福音書14章27-31

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 イエスは、「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われました。かつて或いは漁師、或いは徴税人、或いは今で言うテロリストと呼ばれる政治結社熱心党のメンバーであった彼らを主の弟子として選び、召されたあのガリラヤで、復活の主は彼らをもう一度呼び集めてくださるのです。

 するとペトロは、たとえどんなことがあっても、イエスさまを置いて逃げ出すようなことはしません。裏切ったりしません。と断言しますが、イエスはそのペトロに向かって、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われます。イエスにつまずくとは、イエスを見捨てて逃げ出すだけでなく、イエスを知らないと言う二重の裏切りを意味すると主は警告しておられます。ペトロはまさか自分に限ってそんなことにはならないという自信に溢れていましたから、「イエスさま、わたしたちがどれほどあなたを愛しているか、またあなたに従う決意がどれほど固いものであるかということを、どうして分かってくれないのですか。信じてくださらないのですか。」という苛立ちにも似た思いをイエスにぶつけました。しかし分かっていないのは弟子たちの方、信じていないのは彼らの方です。この自惚れの強さこそ神に対する信仰の弱さを暴露しているのです。

 しかしそれでも主イエスは、彼らに向かって、「復活の後にガリラヤでまた会おうね」と約束してくださいました。たくましい信仰者としての姿を頭に描き、やがて迫害の手を逃れることに汲々とする弟子たちを見通しながら、それでも今、彼らをすでに赦して下さっているのです。彼らだけではありません。わたしたちも赦されているのです。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                  2004年11月7日

 「弱さを知る神」

マルコによる福音書14章27-31

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 過越の食事の後、彼らは「ハレル(讃美せよ)」後半部分の詩115編から118編の詩篇を交唱して外へ出ました。糞の門を出て冴え渡る満月の下、「黒い流れ」という意味のケデロン川のせせらぎを聞きながら、彼らは坂道を登って行きます。ケデロンの謂われは、過越の祭りのときにその流れのほとりで小羊をほふる血に混じって、水面がどす黒く見えるからだと言うことです。ゲッセマネの園を目指して歩いている途中、イエスは旧約聖書を引用して、「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われました。イエスが引用された聖書とはゼカリヤ書13章7節の一部です。わたしたちが手にしている新共同訳聖書には、「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされる。」と書いてあります。神は剣に向かって、「わたしの羊飼い」、「わたしの同僚であった男」を『撃て』と命じておられます。神が撃たせようとしている羊飼いは神と特別に親しい関係にある同僚です。それは、神の独り子であるメシヤ、イエス・キリストに外ならないのです。確かにイエスが撃たれることによって羊は四方に散らされますが、ゼカリヤ書13章7節をよく読むと、神の恵みと憐れみのゆえに、再び集められる時がきます。イエスはその時とは復活の時だと予告されました。かつて或いは漁師、或いは徴税人、或いは当時過激な運動をしていた政治結社熱心党のメンバーであった彼らを主の弟子として選び、召されたあのガリラヤで、復活の主は彼らをもう一度呼び集めてくださるのです。

 このイエスの予告を聞くと、ペトロは、「外の人はともかく、このわたしだけは、あなたにつまずくことはありません」と言います。たとえどんなことがあっても、イエスさまを置いて逃げ出すようなことはしません。裏切ったりしません。と断言したこのペトロの言葉に嘘はなかったでしょう。しかし、イエスはそのペトロに向かって、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われます。イエスにつまずくとは、イエスを見捨てて逃げ出すだけでなく、イエスを知らないと言う二重の裏切りを意味すると主は警告しておられます。ペトロはまさか自分に限ってそんなことにはならないという自信に溢れていましたから、他の弟子たちと口をそろえて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と決意の固さを示そうとしています。「イエスさま、わたしたちがどれほどあなたを愛しているか、またあなたに従う決意がどれほど固いものであるかということを、どうして分かってくれないのですか。信じてくださらないのですか。」という苛立ちにも似た思いをイエスにぶつけました。しかし弟子たちはみな大きな誤解をしていました。分かっていないのは弟子たちの方、信じていないのは彼らの方です。ゼカリヤの預言を引用して警告される主のみ言葉の前に謙ることを忘れさせていました。「他の人はともかくわたしだけは主を知らないなどと決して口走るはずがない」という彼らの自惚れの強さこそ、まさに神に対する信仰の弱さを暴露しているのです。

 しかしそれでも主イエスは、危険が迫ったときご自身を知らないと言いながら逃げ出すであろう弟子たちの弱さを知りながら、彼らに向かって、「復活の後にガリラヤでまた会おうね」と約束してくださいました。たくましい信仰者としての姿を頭に描き、やがて迫害の手を逃れることに汲々とする卑怯で惨めな姿をさらけ出すことになる弟子たちを見通しながら、それでも今、彼ら一人ひとりをすでに赦して下さっているのです。いいえ、彼らだけではありません。わたしたちも赦されているのです。

 

 今朝は名簿上19名、今年の4月に召された鈴木菊枝さんと昨年の9月18日にイエスさまを求め、教会に行きたいと願いながら召された栗原千登勢さんを含めて21名の故人を心に留めて記念の礼拝を神にささげています。お名前をご紹介しましょう。

高木鎭一さん・美津子さん、関野九郎さん・はるのさん、澤田アキさん、立川孔弘さん・孔次さん・田鶴子さん、白石伍郎さん・せつさん、

高橋シンさん、角柄登喜雄さん、服部貞子さん、石原憲男さん、

 鈴木洋男さん、今野高子さん、服部善信さん、渡部清さん・房子さんです。その外にも今朝、礼拝を共にささげておられる方の中に、お身内をなくされいるご家族もいらっしゃることでしょう。そうした方々のことも心に留めて、聖なる主の御名を崇めるわたしたちでありたいと願う者です。

 ところで、これら召天者を記念する礼拝とはどういう意味なのでしょうか。故人を神のごとくに崇めることでしょうか。大変無礼な言い方をお赦しいただくなら、この21名の方々は皆、地上の生涯を、神のみ前に、一点の曇りも誤りなく過ごされたと思うことはできません。聖書のどの点から見ても完璧な人生を過ごされたとは考えられません。むしろ、裏切ることがあり、嘘をつくことがあったかもしれません。人間関係において争いごともあったでしょう。その他にも多くの失敗を重ね、繰り返しながらこの世を去られたかもしれません。「いや、わたしの父や母は完全に聖い生涯を全うした」とおっしゃる方があれば、その方には深くお詫び申し上げます。ただ、わたしがここで申し上げたいのは、記念式とか、記念礼拝というのは、故人を必要以上に誉めそやしたり、貶(けな)したりするのではなく、一人ひとりの人間の弱さも罪も汚れも丸ごと十字架の上で引き受け、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言し、復活の命で永遠の命の御国へと引き上げてくださったイエス・キリストの父なる神を崇め、讃美することにあります。

 同じように、地上に遺されたわたしたちの罪から来る弱さを知りながら、十字架の上から、「わたしは復活した後、あなたの信仰の出発点となるガリラヤで会う」という招いてくださる主イエス・キリストのみ前に、これまでの罪の全てを悔い改めて告白し、信仰を言い表すときとして、この記念礼拝が備えられているのです。

 例えあなたの昨日まで多くの失敗を重ねるものであったとしても、今日、イエス・キリストはそのあるがままのあなたを受け入れてくださることを信じるなら、もはや明日を思い煩う人生は永遠に払拭されるのです。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

十字架の出来事に脅えた弟子たちと同じように、わたしたちも昨日まで、それぞれ散らされたところで罪の誘惑にさらされていました。しかし、わたしたちは今朝、召天者を記念する礼拝と、備えてくださった「主の晩餐」のゆえに、再び散らされたところから集められました。恵みのゆえに感謝します。

新しい週が始まりました。次の主の日まで、或いはこの地上での生涯を許される日まで、あなたが常にわたしたちに先立ってください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

  


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