【主日礼拝メッセ−ジ要約】                     2005年1月9日

 主の家に行こう 
詩122編1―9節
 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今朝与えられた詩122編はどのような歌でしょう。これもまた「都に上る歌」という表題が掲げられています。この詩人は人々が、「わたしもあなたと一緒に教会に行って、神さまに礼拝をささげたい」という一言を聞いて大喜びしているのです。この詩人が生存していた頃、都エルサレムはまだ賑わいを見せ、主の宮を取り囲むようにして家々が軒を連ねています。遠くからの巡礼者にとってそれはうらやましい光景です。「ああ、わたしもこの都のどこにでも良い、住まいがあれば、毎日のように礼拝をささげることができるのに」と。しかし、詩人にとって更に嬉しいことは、たといここに住まいがなくても、この都には各地からすべての部族が引きも切らず上ってきてはイスラエルの定めである主なる神への感謝を言い表していることです。

 詩人はそうした巡礼者を見て何を思ったでしょうか。ただ喜び、ただ感動しただけでしょうか。詩人は互いに励ましあいながら主の家にたどり着いた彼らのために神に願います。祈りをささげます。

 122編の8−9節を通して、わたしたちは礼拝において祝祷を受けることの深い意味を学ぶことができます。牧会者は礼拝のクライマックスである「祝祷」において父・み子・聖霊による愛と恵みと交わりの豊かさを祈り求め、一人ひとりがその祝福に与るのですが、それを更に凝縮した祈りが「平和と幸い」を祈る言葉です。真の平和は神から賜った十字架の恵み、和解の福音によってのみ得られるのです。真の幸いは父なる神を愛し、世の人々に仕えて下さったイエス・キリストのご生涯を跡付けてこそ得られるのです。

皆様にとって神の祝福(平和と幸い)に満ちた一年となりますように。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                    2005年1月9日

 主の家に行こう 
詩122編1―9節
 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 8歳か9歳のころだったと思います。わたしの家からさほど遠くないところに西洋風の家がありました。今でもはっきり思い出せますが、赤い瓦の屋根に壁は白いペンキで彩られた平屋建ての木造建築は、これまで見慣れたものとはまったく異なる、それは美しい住居でした。黒塗りの板塀に囲まれた広い庭には、全長15mほどのプール、片面だけですがバスケットボール用のかごが取り付けられた鉄柱、それにブランコもありました。しばらく後になってわかったことですが、それはアメリカ南部バプテスト連盟から派遣されてきた宣教師とその家族のための住まいです。先ず、姉ができたばかりのその家を見つけて、近づいて行きました。数日後、今度はわたしと友達数人が姉に伴われて宣教師館の前まで来たとき、髪は栗色で目が青く、とても背の高い白人の少年2人が近寄ってきて、無言で一枚の紙切れをわたしたちに差し出すのです。終戦直前、アメリカを中心とした連合軍が戦闘機から、「日本人よ、敗戦を認めて降伏せよ」というチラシを撒いた時、誰一人それを拾うことをしなかったと、当時の大人から聞かされていましたが、わたしたちも何か分からないのだけれども、気味が悪いのと、それを受け取ることで、またアメリカ人に屈服させられるのではという屈辱感に駆られて、しばらく彼らをにらみつけるように受け取るのを躊躇していますと、更にその長い腕をぬーっと突き出して紙切れを受け取れという仕草をするのです。仕方なく怖るおそる受け取りました。その直後、彼らの顔が今までとはまったく違って人懐っこい笑顔に変わり、日本人式に丁寧に頭を下げるのです。きっと親から日本人の前ではそうしろと教えられていたのだと思います。問題の紙切れには、日本人よ、降伏しろとは書かれていませんでしたが、「毎週日曜日の朝。9時から日曜学校というものがあるので、絶対に来なさい」という、お誘いというよりも命令のような文章でした。子どもというものは素直なもので、行かないと神さまの罰が当たるのではと恐れて、次の日曜日から通うようになりました。それから8年後、わたしはアメリカにではなく、イエス・キリストの前に降伏して、イエスさまの弟子となりました。16歳の春のことです。

 さて、今朝与えられた詩122編はどのような歌でしょう。これもまた「都に上る歌」という表題が掲げられています。作詞者はダビデとありますが、違うだろうという人もいます。ダビデであっても良いし、他の人でも誰でも良いのです。とにかく作者は人々が、「わたしもあなたと一緒に教会へ行って、神さまに礼拝をささげたい」という一言を聞いて大喜びしているのです。この詩人が生存していた頃、都エルサレムはまだ賑わいを見せ、主の宮を取り囲むようにして家々が軒を連ねています。遠くからの巡礼者にとってそれはうらやましい光景です。「ああ、わたしもこの都のどこにでも良い、住まいがあれば、毎日のように礼拝をささげることができるのに」と。しかし、詩人にとって更に嬉しいことは、たといここに住まいがなくても、この都には各地からすべての部族が引きも切らず上ってきてはイスラエルの定めである主なる神への感謝を言い表していることです。

 これは今もそれぞれの教会に遣わされている全ての牧会者の願いであり、喜びです。わたしは4年という短い歳月ですが、新潟市内にある新潟栄光キリスト教会に遣わされていたことがあります。1年目の冬、その日の朝は定例の祈り会でした。妻の斐子が窓の外に見える一面の銀世界に思わず、「まあ、きれい」と感嘆の声を上げました。それを聞いた一姉妹が静かに、「見てる分にはね」と答えました。その答えの意味を思い知ったのは2年目の冬です。その年は地元の人でも驚くほどの積雪を記録しました。バス停留所から教会堂に続く道は除雪車によって岩のような硬い雪の壁になっています。皆さんが礼拝やお祈り会に来られるまでに、朝早くスコップを持って道路に出て行って雪を利用しての階段を作るのが日曜日と火曜日の朝、水曜日の夕方にわたしがなすべき仕事です。それから庭に積もった雪をかき分けて何台分かの駐車スペースを確保するのですが、日増しに積もる雪掻きは、雪国育ちではないわたしにとってけっこう重労働でしたが、何が幸いするか分かりません。へっぴり腰のわたしの姿を近所の人たちが見るに見かねて自分の家を後回しにしてまで手伝って下さいました。本当にありがたいことでした。それにもまさって日曜日も火曜日も水曜日もあの深い雪の中、時には地を這うような猛吹雪の中を小さな子どもを背に負い、もう一人の手を引いて歩き、また各自の家と車の雪掻きをすませて会堂目指してこられる教会のメンバーの姿の中に、「わたしたちは主の家に行こう」と励まし合う巡礼者の姿を見る思いがして感動させられました。中には器用に自転車をこいでくる若い人を見て、自動車だけでなく、自転車にもスノータイヤかチェーンのような何か特別のものをつけているのかと聞きましたら、「普通の自転車ですよ」と笑われたことを思い出します。

 わたしが感銘を深くしているのはあの地方の兄弟姉妹だけではありません。今ここにある仙川キリスト教会の会堂に導かれたあなたがたもまたあの降り積もる雪よりも深い試練、あらゆる困難、心身の疲れの中にあるのではないでしょうか。それにもかかわらず、否だからこそ「イエス・キリストの父なる神だけが全ての解決と慰めと癒しの御手を置いてくださる主」を求めて、また御霊に導かれて今日も、「主の家に行こう」と言い交わして、この席についておられるのであろうと思うと、新潟で経験したのとはまた一味違う新鮮な感動を覚えるのです。

 詩編に戻りましょう。詩人はそうした巡礼者を見て何を思ったでしょうか。ただ喜び、ただ感動しただけでしょうか。詩人は互いに励ましあいながら主の家にたどり着いた彼らのために神に願います。祈りをささげます。今更説明の必要もないことですが、エルサレムとは、「神の平和」という意味です。6節は何か語呂合わせのように見えますが、ただの語呂合わせではありません。エルサレムが確かにその名にふさわしい平和の都であってほしいという願いを込めて詩人は祈ります。神の名によって建てられた主の家とそこに集う一人一人に平安があるようにと祈ります。詩人は礼拝者の姿をただ感動しながら、うっとりと傍観しているのではありません。今や詩人自身が先ず一人の礼拝者として、また一人の祭司、今日で言うところの牧会者として神による平安を祈り願っているのです。これこそ祝祷です。

 先週は交読することの深い意味についてヒントを受ける詩121編でしたが、今日与えられた122編の8−9節を通して、わたしたちは礼拝において祝祷を受けることの深い意味を学ぶことができます。礼拝の中心的要素はもちろんメッセージですが、祝祷はインマヌエル(神共にいます)の信仰を更に堅くさせて頂く潤滑油です。

 牧会者は祝祷において父・み子・聖霊による愛と恵みと交わりの豊かさを祈り求め、一人ひとりがその祝福に与るのですが、それを更に凝縮した祈りが「平和と幸い」を祈る言葉です。真の平和は神から賜った十字架の恵み、和解の福音によってのみ得られるのです。真の幸いは神を愛し、隣人に仕えてくださったイエス・キリストのご生涯を跡付けてこそ得られるのです。皆さんがこのような意味での祝祷を受け、三位一体の神からの祝福を受けるこの瞬間こそ、最高に高められた時なのです。主にあって愛する皆さん、この一年も毎週欠かすことなく、あなたご自身先ず祝祷に与る者となりましょう。そして世の人々に向かって、「主の家に行こう」と呼びかけようではありませんか。祈ります。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

今朝もまたわたしたちを主の家であるこの会堂に導いて頂き、あなたに礼拝をささげることを赦して下さったことを感謝します。詩編の記者が礼拝へと急ぐ人々の背中を見ながら、大いに喜び、平和と幸いを祈りましたが、真にあなたこそ平和と幸いを与えてくださる唯一の神です。どうか主よ、今朝、あなたのみ前にある傷つき、病んでいるすべての魂をあなたの祝福をもって包み込んであげてください。

イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

         


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